そもそも当時の火器は小さすぎて攻城戦の役には立たなかった、という説もある。こちらでも書いている通り、この時代の火器のサイズについてはBrackenburyのAncient cannon in Europeが詳細に調べており、それによれば大半は11キログラム以下の大きさしかなかった。当然、攻城兵器として使えるようなサイズではない。
その彼が示している史料に書かれていることはきちんと受け止めるべきなのだが、中にはきちんと受け止めると凄いことになってしまうものがある。一例が1338年6月22日に書かれた証書。そこには艦船に積み込む大砲についての記録が残されているのだが、中にove ii chambresだのove une chambreだのove v chambresだのといった文言が紛れ込んでいるのだ(p5)。
Brackenburyの元ネタはA History of the Royal Navyのp475であり、そこには確かに薬室(chambre)という言葉がいくつも出てくる。しかもそれぞれがcanon de ferrやde brasといったものと並べて書かれているわけで、この言葉が薬室以外を示すとは考えにくい。一方でchambre付きでないcanonについて言及しているものもあり、当時の英艦船に積み込まれた火器の中に後装式とそうでないもの(おそらく前装式)のそれぞれが存在していたことが想定できる。
理由はもちろん、Brackenburyが使った史料が実は必ずしも信頼できるものとは言えなかったり、あるいはその解釈に異論があったりしたためだ。まず1338年の史料についてはToutが記したFirearms in England in the Fourteenth Centuryが重要な論点を示している。The English historical reviewのp666以降に載っているこの文章において、ToutはBrackenburyの引用元の著者が単純に年代を間違えていると指摘している。
元ネタであるA History of the Royal Navyを書いたNicolasは、証書が書かれた時期を「エドワード3世の12年目、6月22日」としているのだが、証書を書いた当事者であるJohn Starlyngが国王の艦船に関する事務を担っていたのは、実は「ヘンリー4世の11年目と12年目」、つまり15世紀初頭であった(p669)。彼が書いている「6月22日」とは1338年ではなく1410年頃の出来事なのだ。
そもそもこの史料には他にもhandgoneという、14世紀前半に存在していたとは考え難い文言も姿を見せている。Brackenburyの記述を信用したClephanはAn Outline of the History and Development of Hand Firearmsの中で、Brackenburyの紹介したこのhandgoneは例外的な記述であり、使われていた用語から当時の火器が銃だったかどうかを確実に理解するのは不可能だと語っている(p11-12)。Nicolasが年代を間違えていたと考えれば、14世紀前半としては違和感が強いhandgoneという言葉の謎も解ける。
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