後装式? 上

 時折こんな話をネットで見かける。某スマホゲームの影響なのか、それとも他に何か元ネタがあるのかは知らないが、もちろんまともな裏付けのない俗説であり、要するに単なる与太話だ。というか銃砲はそもそも対物兵器ではなく対人兵器として生まれてきたものである。Needhamが取り上げている火器の最古の使用例(1288年)を見ても、火砲が対人兵器として使われている
 この俗説に反論する最もシンプルな方法は「クレシーの戦いを見よ」だ。こちらでも説明した通り、1346年のクレシーの戦い(ジャンヌ・ダルクより80年以上前の出来事)に関する史料の中には、canonsとかkanons、bonbardiaulx、bombardeと呼ばれる兵器を英軍が使用したと記されている。クレシーの戦いは野戦であり、当然ここに出てくるキャノンやボンバルドと呼ばれる兵器は攻城戦目的ではなく人に向かって発射されたことになる。
 そもそも当時の火器は小さすぎて攻城戦の役には立たなかった、という説もある。こちらでも書いている通り、この時代の火器のサイズについてはBrackenburyのAncient cannon in Europeが詳細に調べており、それによれば大半は11キログラム以下の大きさしかなかった。当然、攻城兵器として使えるようなサイズではない。
 Brackenburyはこれらの兵器について「都市や城の壁に対する効果は僅少もしくは皆無だった。彼らは破口を作ることも、それを助けることもできなかった」(p21)と簡潔にまとめている。ジャンヌが生まれる半世紀ほど前の時点では火器を攻城戦目的に使う軍隊などこの地上のどこにも存在せず、逆に全ての兵士がそれを人間に向けて放っていたわけだ。火器が対物兵器として使えるだけの大きさを備えるのようになったのは1360年代以降。火器を城壁に向けて撃つのは、むしろ新しいやり方だったのだ。

 根拠レスな俗説よりもはるかに面白いのは、Brackenburyが史料を基に主張している意外な説だ。彼はこの短い文章の中で「手に入る限り全ての信頼できる情報」を載せる一方、「注意深い調査のうえ、本物であり信頼できる同時代の史料まで遡ることができなかった数多くの記録を除いた」(p22)という。彼は単に信頼できる史料を並べただけでなく、そうした史料を「システマチックかつ完全な方法で使いこなした数少ない著者」(p255)とも言われており、初期の火器がかなり小さなものであったことを実証的に示した人物だ。19世紀の研究者としては突出したレベルと言える。
 その彼が示している史料に書かれていることはきちんと受け止めるべきなのだが、中にはきちんと受け止めると凄いことになってしまうものがある。一例が1338年6月22日に書かれた証書。そこには艦船に積み込む大砲についての記録が残されているのだが、中にove ii chambresだのove une chambreだのove v chambresだのといった文言が紛れ込んでいるのだ(p5)。
 この記述についてBrackenburyは「これらの大砲は(中略)火薬を入れる取り外し可能な薬室を持つ後装式だ」と結論付けている。そう、以前こちらでその登場時期について検討した武器だ。Needhamの本などではその登場が14世紀後半とされているし、より信頼できる史料に頼るなら14世紀末まで下った方が安全だと思っていた兵器が、Brackenburyの示した史料を信じるなら14世紀前半、欧州に火器が伝来してほんの10年ちょっとで既に生まれていたことになる。
 Brackenburyの元ネタはA History of the Royal Navyのp475であり、そこには確かに薬室(chambre)という言葉がいくつも出てくる。しかもそれぞれがcanon de ferrやde brasといったものと並べて書かれているわけで、この言葉が薬室以外を示すとは考えにくい。一方でchambre付きでないcanonについて言及しているものもあり、当時の英艦船に積み込まれた火器の中に後装式とそうでないもの(おそらく前装式)のそれぞれが存在していたことが想定できる。
 いくらBrackenburyが吟味した「本物で信頼できる」史料であっても、たった1つだけなら蓋然性はあまり高くならない。だが彼は後装式の兵器が「同時期のフランスの事例」にも見られると指摘している。例えば1342年に2人の兄弟「砲手」を雇った際の支払い書には、大砲と一緒に火薬を詰めるための箱の存在と、射撃時に箱を固定するためのlaichetと呼ばれる楔についての言及がある(p9)。さらに1345年のフランスの記録にも革を張った200個の楔が大砲のために用意されており、同じく後装式の火器の存在を示すものだとされている(p11)。
 この2種類はいずれもナポレオン3世のÉtudes sur le passé et l'avenir de l'artillerieの第3巻が引用元だ(実際に記されている著者名はFavéであり、ルイ=ナポレオンが著者となっているのはシリーズ第1巻第2巻)。1342年の話はp77-78、1345年の話はp80-81の脚注部に原史料の文章も採録されている。
 史料の信頼度についてきちんと吟味したBrackenburyの主張を信じるなら、西欧では14世紀も前半のうちに、既に後装式の火器が登場していたことになる。最も早いものに至っては、西欧に火器が伝播してからほんの十数年しか経過していない可能性もあるわけで、これが事実なら西欧における火薬兵器の発展に対する見方を大きく変えなければならなくなるような史料なのだ。
 そう、これが事実であれば。

 Brackenburyの本は19世紀半ばに書かれたものであり、その後も研究は進んでいる。そしてその過程において、彼が「本物であり信頼できる」と見なした史料に対しても見直しが行われた。20世紀の研究者であるNeedhamやPartingtonは、そうした見直しの結果を踏まえたうえで後装式の火器に対する自分たちの見解を述べている(Science and Civilization in China: Volume 5のp366、A History of Greek Fire and Gunpowderのp121など)。彼らは14世紀前半に後装式の火器があったという説は取っていない。
 理由はもちろん、Brackenburyが使った史料が実は必ずしも信頼できるものとは言えなかったり、あるいはその解釈に異論があったりしたためだ。まず1338年の史料についてはToutが記したFirearms in England in the Fourteenth Centuryが重要な論点を示している。The English historical reviewのp666以降に載っているこの文章において、ToutはBrackenburyの引用元の著者が単純に年代を間違えていると指摘している。
 元ネタであるA History of the Royal Navyを書いたNicolasは、証書が書かれた時期を「エドワード3世の12年目、6月22日」としているのだが、証書を書いた当事者であるJohn Starlyngが国王の艦船に関する事務を担っていたのは、実は「ヘンリー4世の11年目と12年目」、つまり15世紀初頭であった(p669)。彼が書いている「6月22日」とは1338年ではなく1410年頃の出来事なのだ。
 15世紀に入れば後装式の武器が広くみられるようになっていたのは他の史料からも窺える。Nicolasの紹介した史料も、そうした事実を裏付けるデータの1つにはなるだろう。だがこの史料を14世紀前半における後装式火器の存在の証拠とするのは不適切。火器伝来からほんの十数年で早くも鉄製、銅合金製を問わず薬室を取り外すことができる後装式が生まれていたと考えることは、この史料からはできない。
 そもそもこの史料には他にもhandgoneという、14世紀前半に存在していたとは考え難い文言も姿を見せている。Brackenburyの記述を信用したClephanはAn Outline of the History and Development of Hand Firearmsの中で、Brackenburyの紹介したこのhandgoneは例外的な記述であり、使われていた用語から当時の火器が銃だったかどうかを確実に理解するのは不可能だと語っている(p11-12)。Nicolasが年代を間違えていたと考えれば、14世紀前半としては違和感が強いhandgoneという言葉の謎も解ける。

 長くなったので以下次回。
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