Google Bookの本を元に、1796年の「ヴュルツブルクの戦い」前に起きた造反騒ぎについて改めて調べてみた。まずジョミニのHistoire critique et militaire des guerres de la Revolution"http://books.google.com/books?q=editions:0J6DLj3w3de6MdQGw0x&id=R2guAAAAMAAJ"に目を通してみたのだが、ヴュルツブルクの戦いには触れているものの造反騒ぎは特に書かれていない。あくまで軍事活動のみを書くというスタンスだったのだろう。
ジョミニではなく当事者の記録はないのだろうか。一つはスールトの回想録Memoires du marechal-general Soult"http://books.google.com/books?q=editions:0TuKck3mujWhdg9_VMk&id=_UMuAAAAMAAJ"だ。彼はネイと同様、この時期にはサンブル=エ=ムーズ軍に所属しており、その中にはヴュルツブルクの戦いに触れた部分もある。ただし、こちらも造反騒ぎに関する記述は見当たらない。同時期にラン=エ=モーゼル軍にいたグーヴィオン=サン=シールの記録Memoires sur les campagnes des armees du Rhin et de Rhin-et-Moselle"http://books.google.com/books?q=editions:0QyM2Kd0ZHv7LL3EuWK&id=tG0uAAAAMAAJ"もざっと見たが、やはり造反に関する記録はないようだ。
結局、造反に関する記述が見つかったのはMemoirs and Campaigns of Charles John"http://books.google.com/books?id=GysLAAAAIAAJ&pg=PA2&dq=John+Philippart"という本だった。John Philippartという、こちら"http://www.oxforddnb.com/index/101022112/"ではmilitary writerと紹介されている人物が、1814年(第一次王政復古の年)に出版した本である。このPhilippartは他にもMemoirs of General Moreauなどの本を出しているようで、そうした本の一つとしてベルナドットの伝記を書いたのだろう。
同書の21ページからの記述によると、ヴュルツブルクで戦おうとしたジュールダンに対し、ベルナドットとクレベールが反対して戦いに参加しなかったという。ベルナドットは額の大きなできもののため体調が悪いとの理由から不参加。クレベールはシュヴァインフルトに残ったいくつかの部隊の指揮を執ったという。ヴュルツブルクの敗北後、ジュールダンが自らの行為の正当性を示す証明書を出すよう求めたのに対し、クレベールとベルナドットはそれをも拒否。結局、ジュールダンはサンブル=エ=ムーズ指揮官の地位を失う。
ベルナドットはジュールダンの要請に対し、「私はあなたの愚かさを証明することしかできない。あなたが正直者で、勇敢な兵で、よき市民であることは誰もが知っている。しかし公共の利益に資するためには、あなたがたとえ4人の兵と1人の伍長ですら成功裏に指揮する能力を欠いていることを政府に知らしめるべきだ」とまで言ったのだそうだ。事実だとすればかなり酷い話である。問題は、これが事実かどうかだ。
Philippartがこの時期のサンブル=エ=ムーズ軍に属していたとは思えない。何しろ彼は英国の軍事史家"http://oasis.harvard.edu:10080/oasis/deliver/~hou00779"だ。従って、ここで紹介されている話は何らかの史料に基づいて記されたものと考えるべきだろう。そして、おそらくその史料だと思われるのがThe Royal Military Chronicle"http://books.google.com/books?q=editions:0Oqj57SlGqXZG2Qke9ruEE2&id=uggJAAAAIAAJ"という雑誌に掲載された記事、Biographical Memoir of General Bernadotte, Prince Royal of Swedenだ。
当該雑誌にMemoir of Bernadotteの連載が始まったのは1812年の11月号から。著者名はGeneral Sarrazin(サラザン)となっている。さっそくSixのDictionnaire Biographique des Generaux & Amiraux Francais de la Revolution et de l'Empireを調べると、Jean Sarrazin(ジャン・サラザン)という人物が確認できる。生まれは1770年だが誕生日はナポレオンと同じ8月15日。その人生はなかなかドラマチックである。
1786年に竜騎兵として軍歴を始めた彼は革命後に士官となり、順調に昇進していく。1792年には北方軍、93年にはモーゼル軍、その後は西方軍を経由して94年にアルデンヌ軍に所属し、フルーリュスの戦いに参加。同年にはマルソーの下で、95年にはクレベールの下で働いている。96年7月にベルナドットの参謀長となり、彼と一緒にイタリア戦線に移動。98年にはアイルランド遠征軍に加わり、一度は英軍の捕虜になるが捕虜交換で帰国し、その後もイタリアやサン=ドマングで戦っている。
帝政下では後方勤務が多かったようだが、1810年6月10日、ブローニュから漁船を仕立てて英海軍に投降し、英国に居住する。こちら"http://www.wargame.ch/wc/nwc/newsletter/September2001/Newsletter15/Ireland.html"の説明によると、フランドルで守備隊を指揮している時に市民に対して不正行為を行ったとか。ナポレオンの政権下では死刑を宣告されたが、皇帝の没落後にはフランスへきちんと帰国できたようだ。1848年まで長生きし、ブリュッセルで死去。
彼は色々と本も書いているようで、こちら"http://www.napoleonic-literature.com/AgeOfNapoleon/Memoirs/MemoirsS.html"には回想録が紹介されている。それ以外にもこんな本"http://www.ilab.org/db/book1236_2180.html"とか、ここ"http://www.carmichaelalonso.com/cgi-bin/shop?com=busca&texto=Libro%20Antiguo&opc=campo20&ini=50"に載っている本とかが彼の著作のようだ。ロシア遠征に関する本を巡ってはジョミニとやりあったとの話もある。軍務の最前線からは離れたようだが、活発に活動を続けた人物のようだ。
上にも書いた通り、彼がThe Royal Military Chronicleにベルナドットの伝記を掲載しはじめたのは1812年。フランスと英国は長い戦争の只中で、ちょうどこの時期には大陸軍がモスクワからの大敗走を展開していたのだが、一方でこのタイミングはサラザンが英国に亡命していた時でもある。彼の寄稿した文章が英国の雑誌に載っても不思議ではないのだ。サラザンが英語で文章を記したのか、それとも誰かが英訳したのかは不明だが、戦争相手であるフランス人将軍の文章が英国軍事雑誌に載っているのにはそういう訳がある。
もう一つ。サラザンにベルナドットの伝記を書く資格があったかどうかも問題だ。亡命中のサラザンはベルナドットに関する史料をフランス国内で探すことはできなかっただろう。漁船を仕立てて逃げ出した経緯から見ても、自らの身の回りの文章を持ち出す余裕もあまりなかったと考えられる。つまり、使える史料は不十分な状態のまま、Memoir of Bernadotteを執筆したと考える方が妥当だ。一方、彼が1796年7月から1797年にかけてベルナドットの参謀長であったことはSixを見てもおそらく確か。つまり、特にこの時期のベルナドットに関する記述は、当事者による目撃談と見なすこともできるのだ。
ここで問題にしている造反事件は1796年8月末から9月初頭にかけて起きた出来事であり、その時期はまさにサラザンがベルナドットの参謀長であった時期と重なっている。もちろん、執筆された文章が雑誌に掲載された時期(事件から15年後)を考えると彼の記述を全面的に信用することはできないのだが、一方で全くの戯言と切って捨てることも無理だ。何しろ現場に居合わせた可能性の高い(というか本人の主張によればまさに事件に関与した)人物の証言なのである。
話が長くなってしまったのでサラザンが造反事件についてどう語っているかはまた次の機会に。その前に、The Amazing Career of Bernadotteを記しているDunbar Plunket Bartonによるサラザン評を書いておこう。
「後代にとって幸運なことに彼[サラザン]は見たものと聞いたことについて大量の記録を取っており、多くの興味深い回想を残している」
Barton "The Amazing Career of Bernadotte" p27-28
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