エネルギーの人類史

 「エネルギーの人類史」読了。以前、イアン・モリスの本について紹介した時、彼の作成した社会発展指数を構成する4要素のうち1つがエネルギー獲得量であることを述べた。しかも社会発展指数は歴史の大半の期間においてエネルギー獲得量がその数字の大半を占めていたという。それだけエネルギーが歴史上で持つ意味は大きい。
 ヒトといえども生物の一種であり、またこの宇宙の物理法則に従っている。生物進化の過程でしばしば収斂進化が繰り返されているのも、眼が何度も「再発明」されているのも、物理法則がある以上、それに従った効率的な形ややり方が存在するのは避けられず、そしてそうした方向への進化もまた不可避となる。
 そうした原則は生物進化だけでなく、生物によるエネルギー利用の際にも当てはまる。ヒトがエネルギーを利用するに際しても、やはりエネルギーを巡る法則の中で効率的なものを求める方向性が存在してきたことを、この本は紹介している。ただしそれは一本道ではない。環境に応じて異なったやり方が存在していることが農業社会の違いとして紹介されているし、また使えるエネルギーに余裕がある状況であれば効率性ではなく利用側の嗜好が優先されるケースもある。
 こちらの書評にもある通り、筆者はエネルギーによる決定論を唱えてはいない。過去の歴史に一定の方向性があるとしても、それはあくまで幅を持った方向性にすぎず、その幅の中でどこを通るかは物理法則や効率性だけでは決まらない。現状、化石燃料に頼った結果として環境への大きな影響が発生しているのは間違いないし、今のようなエネルギー消費を継続しつつ環境への影響を押さえる持続的な方法があるかどうかは「いまだ不確か」だというのが筆者の指摘。エネルギーの歴史を学べば未来が全て見通せるわけではないようだ。

 というのがこの本全体に関する感想だが、この本の面白さはそういった大枠の議論にあるのではなく、著者がその博識を生かして紹介する歴史上の様々なエネルギー利用についての具体的な説明部分だ。それこそヒト族が生まれた時からスタートし、足元の高エネルギー社会に至るまで、とにかく山ほどの具体的事例が次々と紹介されている。しかもそれぞれの具体例についてどのようにエネルギーが使われていたか、推測値を含めた数字も多数出てくる。実に情報量の多い本であり、本気で理解したいのなら何度も読み直す必要がありそうに思える。
 例えばヒトの二足歩行。チンパンジーの歩行(二足と四足いずれも)に比べて75%もエネルギーコストが低いという調査結果があるそうで、限られたエネルギー(食糧)を生かして様々な活動をするためにはこの歩き方が効果的であったことが分かる。さらに著者は焚火で肉を調理する場合の薪の消費量や、狩猟の対象となった動物のエネルギー密度など、様々な切り口について数字を含めて紹介している。現代の歴史書においてデータを無視することは不可能だと思っているが、この本はとにかくデータ量はものすごく多い。
 データが多いと、例えば狩猟採集社会におけるヒトの暮らしに関するロマンチックな幻想がどこまで本当なのかも確認できる。狩猟採集時代においては、例えばある種の根茎の採取においてエネルギー1単位の消費で30単位から40単位のエネルギーを入手できたそうだが、一方で小型哺乳類の狩猟だとエネルギーが純損失になることもあったという。仕事に伴う危険や感染症などのリスクまで考えれば、狩猟採集社会が楽園だったなどとは到底思えいないだろう。
 続いて農耕におけるエネルギーの話はまず犂についての説明を皮切りに、穀物の種類や作付けの周期など様々な分野についてエネルギーという切り口で説明を展開している。狩猟採集社会ではヒトの筋肉から発せられるエネルギーが使えるもののほぼ全てだったが、農耕社会になると今度は輓獣(家畜)のエネルギーが使用できるようになり、さらに水力や風力の活用も始まるわけで、エネルギーを巡る複雑さは一気に増してくる。また犂を引くうえでは牛よりも馬の方が力強いという事実も指摘される。
 地域別の農業の違いにも触れている。これはエネルギーが定める方向性に「幅」があることを示す一例であり、欧米では最終的に多くの家畜を使った農業という点で均衡が訪れたのに対し、中国では家畜はほとんど使用せず、人力中心で高い人口密度を支えるという方向でのエネルギー利用が進んだ。しかしこうした高いエネルギーを利用した農業は必ずしもヒトが積極的に追い求めたものではないことも筆者は指摘している。人口密度の高さや環境の厳しさ故にエネルギーを集中的に投入しなければならなくなって、初めてヒトは不承不承にそうした農業を開始したのだという。要するに農業社会におけるヒトはあまりエネルギーを消費しないように行動していたわけで、農業社会が子だくさんだったのも「人数が増えれば1人当たりのエネルギー消費が減る」という理屈が背景にあったそうだ。
 続いて筆者は産業社会前の原動力と燃料について細かく紹介している。内容的には前に紹介した欧州の中世技術に関する本と似通っている部分もあるが、欧州以外、中世以外も取り上げている。要するに化石燃料が本格使用される以前のテクノロジー紹介といった趣だ。ピラミッド建造のエネルギーコストなど、小ネタに使えそうな話題も載っている。
 下巻に入ると時代はいよいよ産業社会に入る。まずは化石燃料についての話で、石炭から蒸気機関、続いて石油と内燃機関という具合にエネルギー使用の形態が変化してきた様子が詳細に描かれる。なぜ蒸気機関が内燃機関に取って代わられたのかについても、軽量化ができないという大きな問題を蒸気機関が抱えていたこと、それを解決したのが石油を利用する内燃機関であったことを指摘。また発電の分野では蒸気機関より効率が高く出力容量が幅広い蒸気タービンこそが主役になっていった。
 次の章では産業社会を支える化石燃料文明の内実をエネルギーという切り口から分析している。ここで著者が強調しているのは、化石エネルギーの供給そのものが大幅に増えた一方で、エネルギーを利用する効率性も大きくアップしているという事実だ。オイルショックを機に省エネが叫ばれるようになったが、省エネ自体はそれ以前から人間社会で常に見られた現象であった、と考えればいいのだろう。
 一例が鉄精練にかかるエネルギーコストだ。かつては木炭、後にコークスを使って行われる製鉄は、長い歴史を持つだけに効率化が非常に進んでいる分野でもある。1750年当時は1トンの鉄を精練するために必要なエネルギーが275ギガジュールだったのが、1900年には55ギガジュールに、1950年には30ギガジュールになり、2010年には12~15ギガジュールまで減少している。250年前と比較すると20分の1前後の少ないエネルギーで鉄が製造できるようになっているわけだ。
 エネルギー使用はまた経済成長とも密接に相関している、というかかつてはしていた。途上国から先進国と呼ばれるところまで経済が成長すると、そこから後は相関が薄れてくるそうだ。ただしこれは、例えば日本が中国などに製造拠点を移したことが影響している可能性もあり、従って「今後は世界中でエネルギー使用量と経済成長が連動しなくなっていくと結論するのは早計」だという。とりあえずエネルギー集約度の低下は先進国に共通してみられる減少なので、少なくとも省エネの度合いは増すと思われる。
 経済ではなく生活の質で見ると、開発の初期のうちは1人当たりエネルギー消費の向上が生活の質向上と連動するが、一定の豊かさを達成するとその後はエネルギー消費の量が増えても生活の質はほとんど向上しない現象が生じる。政治的にはエネルギー確保が戦争の目的になるという議論に対し、筆者は疑問視している。逆に筆者が明確にエネルギー消費の増大と関係していると見ているのが温暖化に代表される環境の変化だ。著者は化石燃料枯渇の懸念よりも環境の悪化による生活への脅威の方が将来においては重要な問題になると予想しているようだ。
 最終章は全体を通したまとめと将来予測になる。著者によればエネルギー利用の変化は特定の時期をきっかけに完全に変化するようなものではなく、ある段階から次の段階へとグラデーションを描くように移行していくのだそうだ。一例が北米における家畜利用で、実は20世紀に至るまでトラクターを内燃機関ではなく輓獣が引いていた時期が存在していたそうだ。考えてみれば照明だって白熱電球から蛍光灯を経て発光ダイオードへと変化をしているが、それぞれが重なって利用されている時期は間違いなく存在していた。
 これは即ち、今後世界が再生エネルギー中心に変化を成し遂げられるとしても、一朝一夕にその時代が来るわけではないことを意味する。少なくとも再生エネルギー社会の基礎を作り上げる過程では、化石燃料の使用は避けて通れないだろう。SFの世界ならこういう再生エネルギーもアリだが、これだけのインフラを築き上げるためのエネルギー源は、おそらく化石燃料に頼らざるを得ない。
 おまけに化石燃料はエネルギー源としてだけでなく「原材料の重要な供給源としての役割」も果たしている。アンモニア合成(ハーバー=ボッシュ法)、プラスチック、潤滑油や舗装資材(アスファルト)など、現代社会においては欠かせないものばかりである。化石燃料の効率利用を進めつつ、再生可能エネルギー利用のためのインフラ作りを進めるのが、ヒトがこれから目指すべき課題なのかもしれない。
 他にもエネルギーの利用と長期的な景気循環との関係など、とにかく様々な話題を満載したとても面白い本だ。できればもう一度、もっと集中しながら読んだ方がいいかもしれない。
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