アジア歴史資料センター には主に明治以降の様々な公文書があり、興味がある件について誰でもネット上で文書を閲覧することができる。以前に
こちら や
こちら で公文書を使って歴史的に何があったのかを試しに調べてみたことがあったが、そういう使い方が本筋だろう。
それとは別の切り口もある。例えばキーワード検索で「ナポレオン」と入れてみるとどうなるだろうか。日本はナポレオン戦争と直接かかわりを持っているわけではないため、ナポレオン1世と直に関連する史料が出てくることはない。だがナポレオン3世ならこの資料にも顔を出す。例えば安政五年から慶応四年を対象とした各国往復国書(B13080024600)には、国書の内容が日本語で記されており、フランスからのものには「ナポレオン」(12/95)や「ナホレヲン」(34/95)「拿破崙」(36/95)の文字がある。あと英国絡みでは「ヒクトリア」(8/95)なんてものも出てくる。
また明治時代の文書によく出てくるのが
「ナポレオン砲」 だ。例えば12斤ナポレオン砲引換の件(C03030613400)という史料が明治23年に作成されているし、12斤砲並同榴弾譲受の件(C03030602000)にも「12斤ナポレオン砲六門」という文字が書かれている。
より興味深いのは西南戦争において「ナポレオン加農を用ゆべき事」(C09081552900)という史料だろう。
海軍を指揮した川村純義 の書いた文章で、「八代方面の地形はナポレオン加農を用ゆべき事甚だ要用の地なり四斤砲位にては充分の距離に達せず故に御差回し相成ては如何」と書かれている(1/2)。4ポンド砲が射程が届かないから12ポンド砲を寄こせという話だ。全く同じ文言が別の史料(C09081791700)にも記されている。
ただしリアルタイムで「ナポレオン」という言葉がかかわるものは、全体としては少数だ。むしろ目立つのは過去の歴史を調べたり、史実に言及する際に「ナポレオン」が登場するケース。例えばナポレオン伝4冊用済の旨に而御返却借用証書の件(C09122305400)では「ジヨミー著ナポレオン伝四冊」と「外に附図壱冊」について言及している。もしかしたらこれはジョミニの記した
Vie politique et militaire de Napoléon 全4巻のことかもしれない。
あるいは日露戦争を踏まえてオーストリアの参謀士官が書いた戦術関連の本の邦訳(C13110568500)もその一例と言えるだろう。そこでは「ナポレオン戦役は長線戦術を打破し」(1/52)という文言があり、ナポレオンの時代に横隊戦術があまり流行らなくなったことを指摘しているが、この文章の主題はそこではなくあくまで日露戦争の分析にある。
また戦闘一般の方式並原則(C13110442500)という史料もある。そこでは「フレデリク大王の横隊戦術、ナポレオンの縦隊戦術等隊形戦術の華なりし時代に代り所謂火力戦術の時代を現出し散開隊形の採用を見るに至れり」(2/18)という文言で過去の歴史を振り返っている。
さらに軍事理論について言及するうえでナポレオンの名が出てくるものも数多い。遊撃隊向けの戦術について記した「避實撃虚」(C11110816600)の中では「ナポレオン軍の強敵攻撃戦術」(1/4)という言葉が登場してくる。なぜか「アルプス山脈を踏破し」た後に戦った場所が「マランカ城」(2/4)なる不可思議な戦場になっているところは謎であるが、一応テーマとしては直接アプローチと間接アプローチについて触れている面白い部分だ。
そういったいろいろな史料の中でも内容が面白かったのが、太平洋戦争が始まった後の昭和17年に総力戦研究所がまとめた経済戦史(C14020081800)という文献だ。総力戦に関する分析のために史実の分析にも取り組んでいるのだが、そこで取り上げられているのがナポレオン戦争と第一次大戦であり、そして前者については結局のところ本格的な総力戦ではなかったと指摘している。
同文献の第2章「ナポレオン戦争時代の経済戦」(C14020082300)では、まずナポレオン戦争の目的が従来の「政府相互間の戦争」から「国民相互間の戦争」(1/18)になっていたため、内面的には無制限戦争になり得たものの、実際に国民総力の無制限行使を行うだけの手段が整っていなかったため、外面的には国民経済力の一部を動員する制限戦争にとどまったとしている。
内面的に無制限戦争に向かっていた証拠として示しているのは、戦争に際して政府だけでなく当該国の国民が全て敵対状態に置かれたことだそうだ。最初に英国側が通商破壊の対象に私的経済活動も含めることを宣言し、実際に対仏経済封鎖を行ったことを指摘している。個人的に私掠免状を与えて通商破壊を行わせる取り組みはナポレオン戦争以前から存在しており、特にこの時期に始まったものではない点などから、この分析には違和感もある。確かに英国による海上封鎖とそれに対抗したナポレオンのベルリン勅令(6/18)など、双方とも目立つ経済戦を行っていたことは確かだが、それほど画期的な取り組みだったかと言われると違う気がする。
むしろ興味深いのは、そうした経済戦が「敵の抗戦意志を喪失させる手段としては効果不十分」(9/18)だとの指摘だろう。その理由についてこの文献では「客観的理由」を2つ、「主観的理由」を1つ挙げている。
客観的理由の1つは、当時の各国経済がまだ自給自足の性格が強かったことにある。外国貿易は「自国の差し迫った欲望を充すよりは、寧ろ致富の手段」(10/18)であり、だから経済的に圧力をかけても国民生活に大きな影響を及ぼすことができなかったという。英国は大陸封鎖を受けて農地の開拓を進め、また衣服ではモスリンや木綿の利用を増やして結局自給で乗り切った。
2つ目は単純に実行手段の欠如だ。ナポレオンはベルリン勅令を徹底するために半島の泥沼に足を突っ込み、挙句にモスクワまで遠征したが、対英貿易を完全に遮断することはできなかった。「密輸入盛んに行われたのは当然」(12/18)だったし、そもそもフランス自身が表面的には封鎖と唱えながら一部では特許を与えるなどして貿易を事実上認めていた。経済戦についてはこの実効性がどこまであるかがおそらくは最も重要であり、当時のフランスにおいて民間の経済活動にそこまで高い実効性を持つ束縛を及ぼすことはそもそも無理だったのだろう。
そして最も面白い指摘が、主観的理由だ。そこでは「英国側も仏蘭西側も共にマーカンチリズム的イデオロギーに支配されていた」(13-14/18)ことが経済戦の実効性を失わせていたと書かれている。mercantilism、即ち重商主義は「輸出は国を富強にし、輸入は逆に自国を貧弱ならしむ」(14/18)という主義で、そのため英仏両国は相手からの輸入を防ごうとはしたものの、輸出についてはむしろ極力これを強行しようとした、のだそうだ。
結果、英国の政治家は「ヨークシヤイヤーの製造業者は仏蘭西軍隊の被服を製造して居り、それは簡単な武装にとどまらず、スール[スールト]元帥及びその軍隊の装飾すらバーミンガムの労働者の手になるものである」(15/18)ことを自慢するに至った。フランス側も自分たちの商品を売りつけることで英国から正貨を少しでも奪おうとしていたそうで、また戦争が終われば押収された私有財産の返却を認めるなど、敵国の経済力そのものを破壊しようとしていた様子もないという。
本当に重商主義がこのような対応を促していたのかどうかは不明だが、事実だとすれば英仏両国は経済戦を通じて敵の戦う意思を破壊するどころか、敵に戦争を継続させるための物資供給を続けていたことになる。これは第一次大戦以降の、敵国民を物資不足に陥れようとするタイプの戦争とは確かに異なる戦いであった。ここに書かれていることを裏付ける史料があるとすれば、経済学上の、つまり思想上の原因が戦争という物理的結果に大きな影響を及ぼしていたことになるわけで、思想史上でも軍事史上でもとても興味深い事例になると思う。実際のところは分からないけど。
他にもアジア歴史資料センターでは「奈翁」で30件、「拿破崙」で7件など、ナポレオン絡みの史料を探し出すことができる。
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