だが彼の記録に関しては歴史家の間で激しい論争が繰り広げられている。
英語wikipediaを見ても、カナダ空軍の公式な歴史家たちが実際の撃墜数は「はるかに少なかった(中略)実際に敵航空機を撃破した合計数はたった27機であった」と書かれているほどだ。27機という数字は決して少ないわけではないのだが、英連邦のパイロットたちの中でトップ10にも入らない程度の水準であることも確か。
いったいどういうことか。批判派の1人が
雑誌に寄せた記事がネット上で読むことができる。
それによれば、ビショップの主張には裏付けが少ないのだそうだ。家に宛てて書いた手紙の中では敵機を撃墜したことになっているが、公式記録にはそういう記述がなかったり、47機を落としたという記録のうち、実際に目撃者がいたのは3機に過ぎず、逆にVictoria Crossを得ることになったある戦闘については、ドイツ側に同時期に損害を受けたという記録が存在しないという。
1918年に怪我から復帰した後の数字はさらに「考えられない」もので、22日間に23回の出撃をして24機を落としたのだが、そのうち独立した第三者の目撃証言が得られるのは、実はたった1機。逆に明らかにおかしな主張もあるそうで、例えば6月4日に2機を落としたというビショップの主張に対し、ドイツ側の記録では同日失われたのは1機のみ(オーストラリアのパイロットが2人がかりで落としたもの)。6月19日に至ってはビショップの主張する「5機撃墜」に対して実際に落ちたのは1機(複座の連合軍機に落とされた)だけだった。
ビショップの「戦果」に対する疑惑は当時の同僚たちも抱いていたようで、例えばVictoria Crossを得た戦いの60周年にRAF museumが初日カバーを発行した際には、生き残っていたビショップの同僚たち4人のうち3人がそれに署名することを拒否したという。またビショップは
1914-15 Starという勲章を身につけていたのだが、カナダの公文書館にはカナダ及び英国政府がその資格を否定したという文書が残されているという。
批判側の歴史家は彼のことを「勇敢な操縦士にして厚かましい嘘つき」と呼んでいる。ではなぜ「嘘つき」ビショップはVictoria Crossを得るほどの評価を受けられたのだろうか。この歴史家によれば「いい時にいい場所にいて、フランスにはいい上官、ロンドンにはいい後援者が存在した」ことが理由だという。
ビショップが大陸に到着したのは、bloody aprilと呼ばれる連合軍側が航空戦で大損害を出した直後の時期だった。レッドバロンことリヒトホーフェンの知名度が上がる中、連合軍側でも切実にエースの存在が求められたのだそうだ。最初にその候補となったのは44機を撃墜したとされている
アルバート・ボールであり、さらにビショップもいくつかの撃墜を通じ、上官から注目されるようになったという。
この時期のビショップと上官の関係は面白い。ビショップ自身はまだこの時点では明確に嘘をついていた様子はなく、攻撃した気球が「煙を上げ」、護衛の戦闘機が「急角度で降下し去って行った」と書いている。しかし上官は気球が破壊されたと見なし、さらに敵戦闘機は「コントロールを失って低下していった」と解釈した。またビショップが「地上500フィートで急降下していた」と書いた敵機についても、上官は撃墜と見なしたという。
これらの報告がさらに上層部に受け入れられていったのを見て、ビショップの記述はより大胆になっていったという。ボールが戦死した後はビショップこそがいわば公式な「リヒトホーフェンの対抗馬」になったようで、彼の記録はうなぎ登りに増えていった。途中からは上官による「むりやり撃墜解釈」を持ち込む必要もなくなったそうだ。どうやらビショップは上官たちの顔色を窺うのが他のパイロットよりも得意だったようだ。
さらにここでロンドン上流階級の名士が現れる。病気か怪我でビショップが病院に入っていた時、そこを訪れたのが未亡人のセント=ヘリア。彼女はこの魅力的なカナダ人の若者を見て、同じような年齢の時に病気で亡くした息子を思い出したのか、彼をロンドンの有力者たちに紹介する。彼女の人脈はビショップに勲章を与えるうえで大いに役立ったのではないだろうか、とこの歴史家は書いている。
加えてこの時期、カナダの軍人や政治家たちは英空軍からカナダ空軍を独立させようとしていた。実は英空軍の4分の1から3分の1はカナダ人で構成されていたそうで、彼らがまとめてカナダ空軍へ移ってしまうと英空軍は大幅な人員削減に見舞われる。そんなことになれば戦争の行方そのものに影響を与えかねない。一方でビショップにVictoria Crossを与えれば、カナダ空軍の独立騒ぎを静める効果が期待できる。戦争の行方と、たかが勲章1つ、どちらが大事だろうか。かくして目撃者のない「戦果」に基づいた勲章授与が行われた、というのがこの歴史家の説だ。
実は1915-18年のVictoria Cross授与に関する書類は「第2次大戦後に明らかに公文書館によって破棄された」そうで、以上の背景説明に関する具体的な論拠はない。だがVictoria Crossに関してはこのビショップの事例を除き、必ず「2人かそれ以上の目撃者による申し分のない証拠に基づいて」授与されている。ビショップの場合に限って例外扱いになるには、それなりの背景があったと考えるのは確かに一理ある。
もちろん批判派がいれば擁護派もいる。
こちらでは反論として、例えばビショップの戦果を否定する材料に使われているドイツ側の記録は酷いもので、それを頼りに連合軍側の記録を調べるのは不可能だとの主張を紹介している。また1914-15 Star勲章についても、ビショップは1915年10月に最初の戦闘任務についており、受章資格があったはずだと指摘している。
ただし、なぜドイツ側の記録が信用できないかについての説明は残念ながら見当たらない。批判側はむしろ「ビショップ狂信者が何を言おうとドイツ側の残した記録は細部まで行き届いたものだ」と主張している。また1914-15 Starについても、擁護側は英国及びカナダ政府が否定した文書の存在については触れていない。どちらの言い分がより妥当であるかを判断するには材料が少なすぎる。
しかしビショップの撃墜機数やVictoria Cross受章という具体的なテーマではなく、一般論であれば言えることはある。即ち「軍人の戦果報告を信用するな」だ。
ナポレオン戦争絡みの史料を見ていると、軍人の戦果報告がどれほど当てにならないかがよく分かる。典型例が
こちら。ラップの報告を鵜呑みにするならフランス軍は勝利を収めたことになるのだが、対戦相手である連合軍側の記述と照らし合わせるとおかしな部分が浮かび上がってくる。実際はむしろフランス軍の敗北と呼ぶのがふさわしい結果であった可能性が高く、ラップは事実を無視した報告をした疑いが強い。
こちらで紹介したバイレン戦役もしかり。後に軍法会議にまで至った戦いだが、調べてみると関与した軍人たちが平気で嘘をついていたか、少なくともあまりあり得ないような間違いをしていたことが分かる。このエントリーの結論部分で書いているように、軍人にとって正直さは美徳でも何でもない。むしろ敵を上手く騙せば英雄になれるのが彼らの仕事だ。後世の歴史家に操を立てて正直な事実を語る必要性など、彼らはおそらく微塵も感じていないだろう。
そして英雄ナポレオンも戦果については嘘を並べている。例えばロディの戦いについて、ジュベールの父親への手紙では橋を守っていたのが
「16門の大砲」(p38)となっているのに対し、ボナパルト将軍が送った公式報告での数字は
「30門の大砲」(p260)と倍に増えている。軍人は戦果を過大に報告するものだと思っておいた方がいいのだ。
戦果について細かい数字を追求するのはそもそも意味がない。なぜ戦果が過大に報告されるのかについて、プロパガンダとか競争とか士気という面から議論するのなら、まだ理解できる。だが数字そのものはおそらくどこまで行ってもあやふやな概算にしかならないし、まして数字の辻褄を合わせるため戦った相手の史料を「信用できない」と言い出すのは、むしろ歴史を学ぶうえでは避けるべき態度だろう。
にもかかわらず、こういう意味のない数字で議論をする人はおそらく将来にわたって尽きることはない。ビショップだけではない。カナダに負けたのが気にくわない英国人の中には、
61機撃墜の記録を持つマノックの数字を73まで増やそうとした向きもいるそうだ。ナショナリズム、というよりは単なる贔屓の引き倒しにも見えるが、そういう「勝ち負け」の方が事実より大事だと思っている人間はいつの世にもいる。
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