ワーテルローへの道 24

 承前。これまでの話を踏まえるなら、現実にフランス軍が攻めてからの英連合軍及びプロイセン軍の動きは、いずれも臨機応変の対処を迫られた結果と考えられる。英連合軍は言わば幸運の結果としてキャトル=ブラの十字路を確保した。プロイセン軍は事前計画に合わせてソンブルフへ退却したが、グレーベン覚書にあるように4個軍団全てをそこに集めることはできなかった。さらにその後の行動になると、事前の想定などほとんどなかったと思われる。モン=サン=ジャンが防衛に使えるとウェリントンが考えていたのは確かだが、そこが実際の決戦場になると確信したのはプロイセン軍のリニーからの退却を知った17日以降だろう。
 当然ながら両者の行動の背景に陰謀は存在しない。間違った判断はあったと思うが、それはどんな軍事行動にもつきものだし、対戦相手のナポレオンだって間違いを犯している。はっきり言えるのは、リニーで戦うプロイセン軍をキャトル=ブラに集結した英連合軍が支援するという約束が、戦役開始前には存在していなかったことだ。16日の実際の戦いが始まる直前にならなければ、彼らのどちらもそんなことは想定できなかっただろう。

 ただし想定できなかったのは時間や場所の詳細であり、一般論としての「相互協力」は最初から約束されていた。そしてその相互協力が16日の時点で上手く働かなかったことは、否定できない事実である。働かなかった原因は陰謀ではなく、単に英連合軍が十分に集結できていなかったため。16日の失敗について問い質すなら、むしろ問題はここにある。なぜ英連合軍の集結はプロイセン軍に比べて遅れたのか。
 おそらくその理由はウェリントンの自信過剰にある。彼も、プロイセン軍首脳も、6月11日の週の初頭時点でフランス軍が攻めてくるとは思っていなかった。ベルギーに展開している連合軍は十分に強く、フランス軍に勝ち目は少ない。そう分かった状態でナポレオンがなおも攻めてくることは考えにくいというわけだ。
 だが15日になってもなお「フランス軍は攻めてこない、むしろ攻めてくれば連合軍にとって幸運だ」と自信満々の態度を示していたのはウェリントンの方だけである。プロイセン軍は14日夜の時点で既に第2~第4軍団に対しては集結命令を出し、第1軍団も個別に一部の旅団が警戒態勢を敷いていた。ブリュッヒャーもグナイゼナウも、フランス軍が実際に攻めてくる可能性が十分にあると踏んでそれへの対応策を打ち出していたのだ。でもウェリントンはそうしなかった。
 情報の差はあるだろう。ブリュッヒャーのところにはフランス軍脱走兵が訪れ、フランス軍の動向を伝えていた。一方、ウェリントンの下にはツィーテンからの情報、ハーディングの報告などが届いていたものの、脱走兵が直接司令部に送り込まれることはなかった。だからフランス軍の攻撃に対する懸念の深刻度が違っていた可能性は十分にある。
 だが一方でプロイセン軍が兵力の集結を進めているという情報自体は、少なくとも15日朝にウェリントンのところに届いていた。彼はツィーテンに対し、ニヴェルに兵を集めたいという方針も示していた。もし彼がナポレオンに対して強い警戒心を抱き、臆病なまでにその動向に関心を払っていたのなら、プロイセン軍の動向が慌ただしくなった時点で第2及び予備軍団にも警戒命令を出し、結果として史実より早く英連合軍の集結を可能ならしめたのではないか。
 でもそうはならなかった。彼は実際にフランス軍が国境を越えたという連絡を受け取るまで、のんびり配下師団の番号差し替えを検討していたのだ。これを過剰な自信と言わずして何といおう。自軍の配置やプロイセン軍の展開、フランス側から伝わる情報など、様々な情報を総合した結果の自信だったのだろうが、残念ながらその自信には彼が思っているほど論拠がなかったことになる。
 なぜウェリントンがそこまで自信を持っていたのかというと、それは英軍が前年からベルギーに展開して準備を整えていたのが一因だろう。彼らは必要な場所について視察を行い、早い段階から一部地域を氾濫させて敵の進路を制限し、支援を期待してプロイセン軍を近くに呼び寄せた。当初は頼れる部隊数が少ないという問題もあったが、フランス侵攻計画の発動が迫るころにはこの問題も解消が進み、ブリュッヒャーを騎兵の閲兵に招待するところまで兵力を整えた。
 ウェリントン自身が4月末にまとめた「秘密覚書」は、こうした準備を踏まえてまとめられた作戦案だ。基本的に英連合軍の対応策しか書かれていないのだが、逆に英連合軍の対応策としてはこれで十分に対処できるとウェリントンが思い描いていた内容が書かれていると推測できる。まさに万全の準備である。だが万全過ぎた。そこに落とし穴があった。
 逆に戦役開始からほんの2ヶ月ちょっと前にシャルルロワに来たばかりのプロイセン軍にとって、想定される戦場は土地勘のない目新しい場所だった。彼らは短期間で急いで準備しなければならず、当然その準備内容に対してもウェリントンほどの自信を抱くことはできなかっただろう。ソンブルフ付近の集結についても、まずはシャルルロワに展開したツィーテンが案をまとめ、その後でこの地域での戦闘計画がグレーベン覚書の形で姿を見せている。この計画がかなり泥縄であることを示す一例だろう。
 プロイセン軍が報告連絡相談で色々と欠けている部分が多かったのも、準備期間の短さが一因だと思う。14日夜以降の彼らの対応は、特に味方同士の連絡という点では不手際が目立っていたが、急遽フランス軍の攻撃に対応しなければならないために首脳部がてんやわんやに陥ったことが原因ではないだろうか。大モルトケ時代のプロイセン軍は機械のような正確さで知られるようになったが、少なくともワーテルローの時の彼らはまだそこまで組織が出来上がっていなかった可能性がある。
 加えて、実際にナポレオンと戦った経験の有無も、両者の自信の差につながった可能性がある。何度も苦渋を飲まされてきたプロイセン軍は、フランス軍が攻めてくるという情報に先入観を持たずに向き合った。だがナポレオン自身と戦ったことはなく、彼の部下しか相手にしてこなかったウェリントンは、フランス軍が攻めてこられないほど自分たちは強いという思い込みに囚われてしまった。様々な条件がフランス軍の攻撃情報に対する両軍の対応の差につながり、それが最終的な反応速度の差を生み出したのだと思われる。

 それでも全体として連合軍はうまくやった。その大きな理由は最初から最後まで「相互協力」という最も重要な原則を外さなかったからだ。残念ながら後の時代の両国関係者の間からはこの相互協力という概念が失われ、ワーテルローの歴史書ではむしろ相互非難が目立つようになってしまったが、少なくとも1815年6月時点のウェリントン、ブリュッヒャー、グナイゼナウらは、成功するためには協力が必要という共通認識からずれることはなかった。
 彼らがその線を維持できたのは、何度か紹介してきたように彼らに大義があったからだろう。その大義とはブルボン王家の復活ではない。ブリュッヒャーは別にそんなものに関心はなかった。ウェリントンとプロイセン軍とをこれ以上ないほど密接に結びつけた大義、それはもちろん「コルシカの食人鬼」に対する恐怖だ。
 ナポレオンという心底恐ろしい敵がいたからこそ、その排除という大義のために連合国は小異を捨てて大同につくことができたのである。相互にどれだけ不満や行き違いがあるとしても、ナポレオンを跳梁跋扈させるよりははるかにマシ。だからグナイゼナウは不安を抱きながらもシャルルロワまで戦線を進め、ウェリントンはオランダ国王やプロイセン軍、他の連合国との政治調整に心を砕き、ブリュッヒャーは敗走した軍をすぐに再編しラ=ベル=アリアンスへと行軍したのだ。ナポレオンがいたからこそ「相互協力」が成り立ったのである。
 逆にナポレオンがいなくなった後、プロイセンと英国の「協力」は姿を消した。少なくともワーテルロー戦役を描く歴史書の中では、相互協力の重要性は後退し、相手の陰謀や無能ぶりを強調する記述が登場し、増えていった。大義が消滅したのが理由だろう。協力は強力だが、それが成立するのは協力を強いるほど強大な敵がいるときであり、敵が消えれば協力も消えるというわけだ。
 寄生獣の登場人物のセリフではないが、まさに「君らは自らの天敵をもっと大事にしなければならんのだよ」。天敵が消えた後の欧州では、協力が薄れ、細かい差異を問題にした対立が増えていった。ワーテルローに関する数多の歴史書の中には、協力の大切さを忘れた歴史家たちの残念な姿が映し出されているともいえる。
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