ワーテルローへの道 23

 承前。ベルギーでの戦闘において英連合軍とプロイセン軍は、相互に連携しながら一方が防勢を、他方が攻勢を取ることで一致していた。ベルギーの防御は連合軍がフランスに侵攻するための条件であり、また侵攻を実施するには他の部隊の準備が整うのを待つ必要があった。ウェリントンは「ネーデルランドにいる軍と、ライン左岸地域の軍は(中略)防勢を取る必要がある。彼らは他の軍が共通の目的のため合流を達成するまで待っていた」(p8)と記している。
 もちろん連合軍はフランス軍を攻撃するチャンスがある時まで防御に徹するべきだとは考えていなかった。ただし1815年戦役においてはフランス軍はそうした隙を見せず、国境の要塞群を上手く使いながら攻撃の直前まで自分たちの行動をうまく秘匿していた。加えてこの軍を率いているのは他ならぬナポレオンであった。彼を前にうかうかと飛び出すことの拙さは連合軍もよく知っていたはずだ。結果、主導権は敵側に残り、連合軍は敵の動きを見定めてから対処することを余儀なくされた。
 連合軍が待機状態を強いられていたことは、ウェリントンが4月10日や5月11日に記した文章にも書かれている(p9)。この状況では「作戦を組み立てることは不可能ではないにせよ難しい」というのがウェリントンの考えであり、そしてその際に重要なのが味方相互の協力だったとde Witは書いている。
 オラニエ公とクライストが舞台の中心にいた時期には、この協力は膠着状態にあった。ウェリントンとグナイゼナウの登場によってプロイセン軍がシャルルロワまで進み、適切な協力関係が構築されることになった。この時期、フランス軍の攻撃はあるとしたら英連合軍へと差し向けられると考えられており、戦争になればブリュッセル前面で戦う彼らのところにシャルルロワやナミュールからプロイセン軍が支援に駆け付けるという事態が想定されていたとみられる。
 4月末、フランス軍による攻撃の可能性が高まった時点でウェリントンは改めてアンギャン、ブレーヌ=ル=コント、ハルの地域で敵を迎え撃つ方針を示し(秘密覚書)、一方プロイセン軍はフルリュスからジャンブルー付近、あるいはさらに東方に集まる策を打ち出した。一方5月8日にウェリントンは「自分たちがよく連携し強くあれば、敵は悪さができない」(p10)と述べ、自分たちが強く協力していればベルギーへの侵攻に対処できるという自信を示している。
 一方、その後もムーズ河畔への占領集中を続けたプロイセン軍は、フランス軍が英連合軍の戦区ではなくシャルルロワ経由で自分たちを攻撃してくる可能性も検討し始めた。ポアン=デュ=ジュールでの戦闘について記したグレーベン覚書がその一例だろう。ただプロイセン軍の集結予定地点が大きく変わったわけではない。そしてその状況は6月中旬になってもほとんど同じだった(p11)。
 実際の連携に欠かせないのは、軍の集結や移動にかかる時間の計算だ。de Witによればウェリントン軍の宿営地は東西80キロ、南北70キロにまたがっていた。1日の行軍(12時間)で彼らはアトとソワニー間のどこかに集結することが可能であり、そして2日行軍(24時間)あれば西はスヘルデ河、東はニヴェルかキャトル=ブラへたどり着けただろうとしている。プロイセン軍については24時間以内に軍がフルーリュス、ナミュール、シネー、アニュのいずれかに集まることができたという(p12)。
 以上を踏まえて押さえておくべきなのは、ここまでの両軍の準備において、キャトル=ブラが全く議論の俎上に上がっていない点だ。フランス軍の攻撃が始まった後になってこの小さな村は急に注目を集めることとなったが、それは単なる後知恵にすぎない。両軍が打ち出していた策は、敵の動きを見極めたうえで部隊を集結させ、孤立して戦うのではなく互いに連携するという大雑把なものであり、集結が必要になりそうな地域に関する割と漠然とした方針だ。それ以上の作戦については、実際の時間と場所に関する状況に応じて決めるしかなかった。
 さらにスヘルデ左岸やムーズ右岸に敵が来た場合の協力方針となると、もはやほとんど存在しなかったとde Witは書いている(p12)。相互の距離が遠すぎて別のコンセプトが必要になり、おそらく攻め込まれなかった方の軍によるフランス侵攻という形での協力が最も現実的だったのだろう。

 以上でde Witがまとめたワーテルロー戦役前の連合軍の状況説明は終わりだ。彼が何より強く主張しているのは、実際のワーテルロー戦役の経過を前提にこの時期に起きていたことを評価するのがいかに間違っているかという指摘だ。多くの本でワーテルロー戦役前の説明は「あまりにもしばしば後知恵に侵されており(中略)出来事を額面通りに見ることが事実上不可能になっている」(p13)。
 その分かりやすい例としてde Witがしつこく紹介しているのが、連合軍によるフランス侵攻作戦だ。ウェリントンもブリュッヒャーもこの問題を常に頭の中に置いており、それは彼らの行動に大きな影響を及ぼしていた。時間が経過すればするほど、彼らはそちらの方に関心を移している。にもかかわらず、ワーテルロー本の大半において、連合軍によるフランス侵攻計画の推移はほぼ無視されている。だからde Witは事態を「ありのままに捉え、同時に後知恵が入り込んでいる部分については解体し、正しい文脈にそれを置くことを試みた」(p13)のだそうだ。
 中でも6月16日に実際に起きたことを過去に投影するケースは極めて多い。連合軍は当初からソンブルフとキャトル=ブラに兵を集める予定だった。そしてリニーでブリュッヒャーがナポレオンの攻撃を受け止めている間に、ウェリントンが敵の側面か背後を攻撃して勝利をつかむという計画が存在した。ウェリントンは来援すると約束したし、プロイセン軍はその約束を前提に戦っていた。そういう主張が多くみられることは確かである。
 この後知恵というレンズを通じて見た光景を事実と見なしてしまうと、ではなぜウェリントンは来援しなかったのかが問題になる。そこで生まれるのが一種の陰謀論。ウェリントンは最初からプロイセン軍を見捨てるつもりだった、とまでは言わないにせよ、その約束は嘘だったという指摘は、特にプロイセン寄りの歴史家から何度も提示されている。ウェリントンはいかにも英国人らしく二枚舌を使う人物であり、プロイセン軍はそれに翻弄された結果、本当なら勝てる戦いに敗れたという主張だ。
 一方、英国側の歴史家の多くはプロイセン側の無能に問題をなすりつけている。双方が協力して敵を叩く計画だったのに、プロイセン軍が功をはやってナポレオンと正面衝突した結果、英連合軍が救援に駆け付けるより前に勝手に負けてしまったという理屈だ。プロイセン側からウェリントンに向けての情報伝達に齟齬が多かったことも、責任が相手にあることを示す論拠として使われている。最終的に勝った側の論争としては、随分みっともない内容だと思える。
 実際はどうだったのか。そもそもウェリントンとプロイセン軍の約束は極めて大雑把なものであり、詳細は実際にフランス軍が攻めてきてから決めるしかなく、しかも地域的にも限定的な範囲を対象にしたものだった。ウェリントンはキャトル=ブラに兵を集めると事前に約束したことはない。そもそもフランス軍がどこから攻めてくるか分からない時に、そんな個別の集結地点を自分たちの都合だけで決めるわけにはいかない。
 主導権がフランス側にあり、どこから攻めるのも彼らの自由であるという状況下で、シャルルロワからの侵攻一本に絞り込んで防衛計画を立てるなど愚の骨頂である。実際、連合軍が事前に行なったのは、フランス軍の侵攻ルートを大雑把に3つ想定し、それぞれに合わせて大まかな方針を定めるというところまでだった。英連合軍はアンギャンからブレーヌ=ル=コントとその周辺、プロイセン軍はソンブルフからジャンブルー、さらにその東方といったところにまずは集まり、後はフランス軍の動きを見て方針を決める。それ以上の詳細を事前に詰めておくのは、未来を予知できない限り不可能だ。
 互いに支援するという約束はあったが、それもあくまで「一般論」での約束だった。そもそもナポレオンの帰還から以降、少なくともティールモン会議の頃まで、フランス軍の攻撃対象になる可能性が高かったのはプロイセン軍ではなく英連合軍側であり、従って両者の話し合いにおいてもほぼ常にウェリントン側が支援を要請→プロイセン側が支援を約束→ウェリントンがその対応に満足の意を表明、とうい流れが繰り返されている。実際にフランス軍が攻めてくる以前において、両者の間で行われた話し合いの内容は、せいぜいその程度のものだったのだ。

 以下次回。
スポンサーサイト



コメント

非公開コメント