ワーテルローへの道 22

 承前。時系列での記述以外に、ワーテルロー戦役が始まる前の連合軍の防御配置がどう推移したかについて、de Witは別に文章をまとめている。まず4月20日にウィレム1世が息子に宛てた手紙が紹介されているが、それによると彼がオランダ軍を最初にムーズ河畔で編成したのは、フランドルの軍事については全て英国に任せることにしたためだという(p1)。
 アントワープをはじめとした海沿いの要塞はそれ自体が強力なのでそちらには兵を割かず、敗北時にはムーズ河沿いに兵を守備隊を集めながら兵をナイメーヘンまで下げるというのがオランダ王の考えだった。だがウェリントンに強く要求されたこともあり、オラニエ公はムーズ河畔にいたオランダ軍をブリュッセル南方へと移している。ウェリントンはあくまで、使える兵をすぐ集められる状態にし、一部が分断されることのないように配置するのを重視したようだ。
 そのウェリントンの防御コンセプトについてde Witは3つの要素があるとしている。まずは英国、オランダ、ドイツとの連絡線確保。政治的にはできたばかりのオランダ王国と、ヘントに避難しているルイ18世を守る意味もある。2つ目は最後の局面で最大の兵力を集められるように部隊を配置することだ。彼は「あらゆる方角への移動に備え、どの方角に攻撃が行われるかを見定め、そして攻撃に抵抗するため、あるいは集め得る最大の戦力で敵を攻撃するため、軍を可能な限り早く集める」(p2)ことを重視していた。
 3つ目の要素は、プロイセン軍と連携あるいは共同して行なう大会戦という目的のために防御配置を崩すことに対する抵抗だ。これはまずオラニエ公とクライストの間で、後にウェリントンとグナイゼナウの間で議論された「ティールモン会戦」案に対する反対をもたらした。もちろんウェリントンはプロイセン軍との協力を否定しているわけではないが、ブリュッセル防衛を優先するうえでは防御配置を固める方がいいと考えたのだろう。
 ウェリントンがベルギー防衛のための調査を始めたのは1814年の夏だった。彼が注目したのは西フランドルの要塞や、オーデナールデとハレルベーケ間の高地だ。後者についてはカーマイケル=スミスが1814年12月に提出した覚書でも触れられている。また工兵大佐チャップマンに対する命令ではスヘルデ河とデンドル河の防衛についても調べるよう指示しており、どうやらウェリントンはフランス軍がスヘルデ西岸を攻撃し、それから東に転じてブリュッセルを目指すと想定していたようだ(p2)。ただし1815年4月になるとウェリントンはスヘルデ西岸の防衛は諦めている。
 1814年9月にはウェリントンは今度は南部の国境線に関心を向ける。彼はモンスとナミュール間が「国境線の中で最も脆弱」と判断していた。その3ヶ月後、カーマイケル=スミスがトゥルネーからモンス間で最も望ましい防衛拠点として提示したのはハルだった。彼はこの地について「野戦築城によって極めて強固にできる陣地であり(中略)正面からの突破はできないだろう」(p3)と述べている。3月下旬にはコルボーンが「ハルですぐに堡塁を建設する」と述べており、百日天下の当初から英連合軍がこの地を重視していたこともわかる。
 カーマイケル=スミスはもう1つ、フランス軍がシャルルロワ方面から来た時には、まだ調査はしていないもののモン=サン=ジャンが戦闘の候補地になるとも見ていた。「ニヴェルとジュナップは極めて開けている(中略)。だがブレーヌ=ラ=ルー付近は注意深く偵察することが望ましい(中略)この地を守る最良の方法は(中略)野戦築城によって強化することだ」(p3)と、彼は記している。それ以外に彼はナミュール周辺に塹壕を構えた宿営地を作ることも主張している。
 1815年4月時点のウェリントンはスヘルデ河とサンブル河間から攻撃された場合、最終的にはハルに下がる考えを抱いていた。一方1814年12月のカーマイケル=スミスは、トゥルネーとモンス間から攻撃された場合はハルで、モンスからシャルルロワ間から攻撃された場合はモン=サン=ジャンで迎え撃つことを想定していたらしい(p3-4)。これを受けて4月にウェリントンはカーマイケル=スミスに対しモン=サン=ジャン地域の調査を命じている。
 一方、海への連絡線としてはオステンドへの道が重視されていた。ただし3月下旬にはアントワープが英軍の兵站拠点とされており、いざという場合の退路はブリュッセルの北方に向いていたと思われる。4月中旬にアントワープへの途上に舟橋が架けられたことにはすでに言及している。またカーマイケル=スミスも1814年12月にアントワープへの退路をカバーするための堡塁の重要性を指摘している。ウェリントンも1816年にウィレム1世に宛てた手紙で、ブリュッセル前方で持ちこたえられなければアントワープかマーストリヒトへ退却していた、と記している(p4-5)。
 ウェリントンがプロイセン軍にシャルルロワまで進出することを求めたのは、単にベルギー南方国境全てを守るには戦力が少なかったためである。彼の部隊はまず最前線に騎兵の哨戒線があり、その後方に第1及び第2軍団が展開していた。騎兵部隊は戦線の右後方に当たるニノヴェに、ウェリントン直率の予備軍団はブリュッセル周辺に配置されていた。
 レイエ河の西側にはイープル、ニューポール、オステンド、ヘントといった要塞群があり、氾濫も含めて防衛拠点となっていた。軍主力が展開する地域ではモンスとトゥルネーにも守備隊があり、そして後方アントワープにも守備隊は配置されていた。英連合軍の東側の境界線はブリュッセルからフラーヌ付近までと、そこからローマ街道沿いに連なっていた。彼らが展開している地域に向き合うフランス側の拠点はリール、ヴァランシエンヌ、モブージュだ。
 ナポレオンによるベルギー侵攻には大きく3つの選択肢があったことは既に書いている。1つはスヘルデ左岸の海沿いのルート、2つ目はスヘルデ河とサンブル河間、3つ目がムーズ右岸からラインを目指すルートだ。ウェリントンは特にリールからクルトレー経由でヘントへ至る道、リールからトゥルネー経由のヘントへの道、トゥルネーからアトを経由してブリュッセルへ至る道、ヴァランシエンヌからモンスを経てブリュッセルへ至る道などを警戒していたようだ(p6)。

 一方、後にプロイセン軍に委ねられることになるムーズ地域について、英連合軍はほとんど何の対応もしてない。1814年や1815年の前半において、英軍工兵部隊はこれらの地域について優先して調査する必要性を感じていなかったようだ。ようやく1815年の5月になってプロイセン軍がソンブルフ周辺などを調査した程度である(p7)。
 3月以降、プロイセンの下ライン軍がムーズ沿いに展開を始め、一方で国内からラインへと部隊が送られてきた。当初、オラニエ公の英=ハノーファー軍とクライストのプロイセン軍との間には大きな隙間が空いていたが、ウェリントンとグナイゼナウの到着後にプロイセン軍がシャルルロワまで進み、英連合軍と接触した。一方プロイセン第3軍団は引き続きモーゼルとのリンクを形成しており、この状況は5月中旬まで続いた。
 第3軍団がムーズに接近し、さらに後方から第4軍団が進出してきた段階で、モーゼル方面の防衛はクライスト軍団に任されるようになった。プロイセン軍主力は第3軍団がムーズ右岸、他の軍団が左岸の連絡線をカバーするように配置された。左岸の退路として想定されていたのはリエージュまでの道と、北東のマーストリヒトへの道だ。
 ムーズ右岸からフランス軍が攻撃してきた場合の対処としてグナイゼナウが5月13日に記したのは、フランス軍をアルデンヌに進ませておいて、自分たちはウェリントンと一緒にフランスに攻め込むという対応策だ。もしウェリントンが一緒に行動しないのであれば、その時はムーズを渡ってくる敵を待って戦うか、彼らをライン方面へ進ませた後にムーズを渡河してその背後に出、不利な戦いを強いるつもりだった(p7-8)。
 1ヶ月後にミュフリンクがグナイゼナウに宛てた手紙では、ウェリントンと一緒にムーズ河を越えて敵に向かうか、あるいは直接フランスの要塞に進んで敵の背後に出るという案が示されている。グナイゼナウのアイデアと割と似ており、de Witは「両連合軍司令官が合意しない可能性はおそらくなかっただろう」(p8)と指摘している。

 以下次回。
スポンサーサイト



コメント

非公開コメント