ワーテルローへの道 21

 承前。以上で日単位の状況説明を終える。見ての通り大量の情報が飛び交っていたのだが、ウェリントンは基本的にフランスの攻撃がないと考えていた。自分たちが強すぎるというのが理由。一方、フランス軍の切迫した動向はウェリントンの下にも届いていたはずで、レーデはモンスに対する攻撃の可能性に言及しているし、ツィーテンは14日に、必要ならニヴェルに兵を集めるという報告をミュフリンク経由で受け取っている(p21)。
 ミュフリンク自身も14日に「フランス軍全てが[ツィーテンの]前哨線の前に集まっており、おそらく彼らの攻撃は彼に対して振り向けられる」との報告があったと回想録に書いている。さらにPflugk-Harttungによれば、デルンベルクが14日午後9時半にウェリントンとブリュッヒャーに宛てて「フランス軍によれば明日早朝に攻撃が行われる」との情報を伝えたという。ブリュッヒャーの司令部にそれが到着したのは15日の朝一番だったそうだ。ただしde Witはこの話について、具体的な史料の裏付けに乏しいと疑問を呈している(p21-22)。
 一方、プロイセン軍もウェリントン同様に事態を楽観視していたというのがde Witの主張。14日朝にツィーテンは、集結のための準備態勢を敷いているが、この時点では実際に集結が行われているわけではない。具体的な集結場所については既に5月2日に最初の指示が出ているため、改めて命令する必要もなかった。
 フォン=ライヒェは14日のうちに第1軍団の各旅団が既に集結していたかどうかについて検討しており、ツィーテンがそうした命令を出していないことを認めている(p24-25)。一方、16日にプロイセン軍司令部に送られたティンダルは、フランス軍の脱走兵が16日に攻撃があるとシャルルロワの憲兵に伝え、ツィーテンがそれを知って「武器を取った」(p25)と記している。シュタインメッツは14日に書いた手紙の中で「敵に攻撃の機会を与えたくない」と記しておりこれが集結しなかったことを示す可能性もある。
 一方第2旅団のピルヒは14日夜にかなり切迫した集結準備命令を出しており、ライヒェも彼らは14日のうちに集結したとみている。第3旅団のヤーゴウも14日午後に集結に向けた命令を出しているのだが、こちらは逆に切迫しすぎている内容から実際に出されたのは攻撃が始まった段階、つまり15日早朝だったのではないかとde Witは推測している。ただし第29連隊のヴェルマンは14日午後に実際に兵力の集結が行われ、15日の午前3時にいったん朝食のため兵たちが宿営地に戻されたと主張しており、どちらの見方が正しいかは判断しがたい。
 第4旅団の指揮官は14日のうちに集結が命じられたと主張しているが、一方で集結地に向かったのは15日に砲声が聞こえてからとも書いており(p26)、また第19連隊は14日のうちに集結命令を受けたとは主張していない。ハーディングの14日午後10時の報告にもそうした話は書かれておらず、ツィーテンが間違いなく進めたのは14日夕方に行なわれた荷物の後送だけだった。
 de Witはツィーテンが集結のための準備こそしたものの、14日に集結自体を実行するには至らなかったとの印象を持っている。公式な報告などが論拠で、ただし第2旅団については実際に集結をした可能性を認めている。第2軍団についてはさらに状況が明確でなく、結局のところ14日時点で集結をはっきりと命じられたのは戦場から最も遠い第3、第4軍団だった(p26)。
 グナイゼナウとブリュッヒャーが14日の真夜中近くになってさらに命令を出すことを決めた理由が何なのかははっきりしない。ただこれらの命令がプロイセン軍をムーズ左岸に集めるものだったことから、モブージュやボーモン近辺のフランス軍によるプロイセン軍への攻撃切迫が理由ではないかとde Witは推測している。第2軍団がマジーとオノ間に、第3軍団がナミュールのムーズ左岸に集められたことから、確かにその可能性は高そうだ。
 一方、ブリュッヒャーが15日午前9時にツィーテンに宛てた手紙に「まさにこの夜の間に、第2、第3、第4軍団に集結を命じた」(p27)とあることから、de Witは第1軍団に対して命令は出されなかったと想像している。またこの時期にプロイセン軍司令部からミュフリンクやウェリントンに宛てて連絡がなされた証拠も見当たらない。

 と、以上がde Witの考えだ。彼の指摘は比較的妥当なものが多いと思うが、このフランス軍攻撃直前の動向についての解釈にはいささか疑問を感じる。特にプロイセン軍の行動に対する評価は、考えすぎを通り越して牽強付会に見えてくるところもある。
 フランス軍が攻撃を仕掛けてくる少し前までウェリントンとプロイセン軍司令部のいずれも事態を楽観視していたのは確かだろう。だが直前になると、両司令部の対応はかなり異なっていた。ハーディングの報告より前の時点で第3、第4軍団に対しては既に集結命令が出されており、14日の真夜中までには第2軍団に対してもマジーとオノへの集結が命じられている。第1軍団については各旅団ごとに対応が異なっているが、少なくとも第2旅団が集結していた可能性はde Witも認めており、第3及び第4旅団については集結の準備までは行われていたと見られる。要するにプロイセン軍は少なくとも警戒態勢は敷いており、そして大半は既にフランス軍の攻撃に対する準備を始めていたのだ。
 一方、英連合軍で警戒態勢を敷いていたのはオラニエ公の第1軍団だけだ。確かに彼らはおよそ1週間前からいつでも集結できるよう対応を取っていた。だが第2軍団(少なくともその大半)と予備軍団については、集結準備命令すら出ていた様子はない。そしてブリュッヒャーの司令部と異なり、ウェリントンの司令部は14日夜になっても彼らに対して集結命令は出していない。
 モブージュに集まっているフランス軍の近くにいるのは英連合軍第1軍団であり、プロイセン軍第1軍団である。それぞれがいざという時に備えて警戒態勢を敷いていることは不思議ではない。またフランス軍の動きが切迫してくるまで、彼らから離れた位置にいた部隊、つまり英連合軍第2軍団と予備軍団、及びプロイセン軍第2、第3、第4軍団があまり警戒していない状態にあったのもおかしくはない。でもフランス軍の攻撃が近づいてきた時の対応は、英連合軍とプロイセン軍との間で明白に違っていた。
 プロイセン軍の方がより詳細な情報を得ていた面はあるだろう。フランス軍逃亡兵から話を聞いていた彼らが14日の段階で反応していたのは、それだけ彼らがナポレオンの動きについて詳しく知っていたためと考えられる。だが一方でウェリントンの下に情報が行っていなかったわけではない。ハーディングの報告より以前、14日の時点でツィーテンがミュフリンク経由でフランス軍の準備状況についてウェリントンに知らせていたのは間違いない。
 このツィーテンの14日の報告の内容は今となっては分からないが、おそらく各旅団に命令があり次第集結するよう伝えたこと、及びボーモンとモブージュの北側にかなりのフランス軍部隊が集結していることが知らされたのだろうとde Witは推測している(p21)。またファン=レーデの報告に従うなら、彼らが連合軍を攻撃する可能性も既に推測されていたとみられる。プロイセン軍ほどではないにせよ、ウェリントンが警戒を強めてもおかしくない情報は存在していたのではなかろうか。
 少なくともハーディングの報告が届いた15日朝の時点で、ウェリントンがブリュッヒャーと歩調を合わせ、第2及び予備軍団に集結を命じることは可能だった。実際にウェリントンが配下の軍に集結命令を出したのはフランス軍の攻撃がはっきりした後、おそらく15日の午後6時から7時の間(p1-2)だ。
 しかもその命令が実際に各部隊に到着するにはさらに時間がかかった。第2師団長のクリントンが命令を受け取ったのは16日の午前6~7時頃であり、師団がアトに集まったのは午前9~10時頃、ブレーヌ=ル=コントに到着したのは午後9時過ぎだったという(p1-2)。また第4師団のコルヴィルが行軍命令を受け取ったのは16日午前6時だったという(p2-3)。
 ブリュッセルにいた予備軍団にはもっと早く命令が到着しており、ピクトンの第5師団には15日午後9~10時に集結命令が到着し、彼らが行軍を始めたのは16日午前4時だった(p1)。またブラウンシュヴァイク部隊には午後11時頃に集結命令が下り、午前7時には実際に出発したという(p2)。もし12時間早くに命令が下っていれば、彼らはキャトル=ブラの戦いにもっと早いタイミングで参加できていた可能性がある。
 de Witはプロイセン側の問題点(例えば第1旅団の集結や、プロイセン司令部からウェリントンへの連絡が不十分であること)について色々と指摘しているが、フランス軍の動きに対するウェリントン自身の反応が鈍すぎることに対してはあまり責めていない。だがウェリントンの対応の遅れが16日の戦闘に影響を及ぼしたのは間違いないし、その結果としてウェリントンはもう一度18日に運試しをしなければならなくなった。de Witはプロイセン側の問題と同じくらい、英連合軍側の問題についても言及すべきだったのではなかろうか。

 以下次回。

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