ワーテルローへの道 14

 承前。ミュフリンクは実は4月時点で既に英連合軍司令部に送られる人事が決まっていたのだが、仕事が残っているということを理由にこのタイミングまで異動しなかったようだ。27日に彼がプロイセン王に宛てて記した報告には、米国にいた軍勢が英連合軍に合流すべく出帆していること、そしてブラウンシュヴァイク公の軍勢が既に到着していることなどが言及されている(p3)。
 この期間中もフランス軍絡みの情報は続々と届いている。中にはバーゼルからの情報もあり、それによれば第1軍団がヴァランシエンヌ、第2軍団がアヴェーヌ、第3軍団がメジエール、第4軍団がメス、第5軍団がストラスブール、第6軍団がパリ、第7軍団がべフォール[?]、第8軍団がシャンベリー、第9軍団がアンティーブ、第10軍団がペルピニャンにおり、全戦力は25万人と伝えられている。また帝国親衛隊は2万人で、3万5000人までは簡単に増やせるという情報もある(p4)。
 ウェリントンが21日にオランダ国王に記した手紙では、ベルギー内の各要塞指揮官への指示が盛り込まれている。アントワープ、オステンド、ニューポール、イープル、トゥルネーの要塞、ヘントの要塞及びアトの守備隊指揮官は「少なくとも都市本体に対する襲撃を1回は持ちこたえるまで」(p5)降伏してはならないと述べている。攻城戦に対する考えとしてなかなか面白い話だ。

 この週の中で重要なのは、ブリュッヒャーの幕僚であったグレーベンがポアン=デュ=ジュールの陣地について5月22日付で記した覚書だろう。歴史家の中でもOllechのみが取り上げている史料だが、後のワーテルロー戦役におけるプロイセン軍の行動を理解するうえで役に立つ史料だ。グレーベンはこの地域について4月下旬もしくは5月初旬に調査をしている。
 覚書によればこの地点は右にソンブルフの教会、左にトングリネルの古い城が稜堡のように存在し、シャルルロワからの道が陣地の真ん中を直角に横切っている。またナミュールからニヴェルへの街道が近くを通り、リエージュやマーストリヒトへの退路もある。正面は幅約3000歩で、敵の接近は把握しやすい。ソンブルフの西にあるブリーからはリーニュ川を越えて敵左側面を攻撃する準備が可能だ。だがリーニュ運河という深い水路が攻撃にとっては障害となるため、渡河点の準備が必要。
 第2軍団はソンブルフとトングリヌ間を占拠できる。第3軍団は予備として第2軍団の背後、ポアン=デュ=ジュールでジャンブルー街道の両側に移動する。第1軍団はリーニュ運河を渡り、ブリー高地の北方をカバーする。彼らはリニー村も占拠しておく。第4軍団はブリーにいる第1軍団の予備としてシャペル=デュ=ロゼールとエルヴォー間に布陣し、攻勢にも使えるようにする。
 この配置の目的はまずリエージュとマーストリヒトへの退路を確保し、一方で敵の攻撃に対して第1、第4軍団を(必要なら第3軍団も)使って敵左翼へと反撃し、これを撃退するところにある。一方敵は、最も脅威となり、戦場のカギとなるプロイセン軍右翼(つまりブリー高地)に、サン=タマンやリニー経由で攻撃をしてくる可能性が高い。英連合軍とプロイセン軍の連絡を遮断するうえでもこの方面が重要となる。
 もし敵が完全に右翼を迂回するのなら、第1及び第2軍団はマルビジュー[マルビスー]高地に布陣し、残る2つの軍団が攻勢に出ることができる。しかしこれよりシャルルロワに近い地点はあまり有利ではない。リニーの墓地は大掛かりな攻勢に出るには視界が限られており、フルーリュスはシャルルロワ方面が開けすぎていて防御に向かない。しかも戦闘になるとすぐ背後にリーニュ運河の隘路がある(p5-6)。以上がグレーベンの覚書に関する大雑把なまとめだ。
 27日に第2軍団の視察を行ったブリュッヒャーは、ハルデンベルクに対してすぐにでもフランス侵攻を始めるべきだと改めて書き記した。続いて28日から30日までのブリュッセル訪問中に敵が攻撃してきた場合の対応について指示を書き残している(p7)。

 グレーベン覚書についてde Witは、どうやら本文は修正なしに採録しているが、前文と結論が抜けているのではないかと想像している。この覚書がまとめられたのはムーズ近辺でナポレオンと戦う可能性が増してきたのを受け、より詳細な記述が必要になってきたためかもしれない。またこの覚書はシャルルロワ方面からの攻撃を想定したものであり、ジヴェからナミュールへ攻撃がなされるケースは考えていない。
 退路についての言及もあるが、覚書は基本的に戦闘結果について楽観的である。またウェリントン軍の役割についてほとんど言及がないのも特徴だ。さらにフランス軍がプロイセン軍左翼を迂回する可能性に触れておきながらその際の対処については全く語っていないなど、全ての可能性を想定して書かれたものでもない。
 Ollechによればこの文章は、連合軍の戦力が整う前にナポレオンが攻撃する場合を想定。彼がスヘルデ河畔で英軍相手に陽動を行い、一方でシャルルロワを越えてプロイセン軍に主攻撃を向けてきた時、優勢な敵に対して有利な場所で自らを守りつつ英軍と連合する可能性も失わないために必要な策として、グレーベンが提案したものだという(p8)。
 だがde WitはこのOllechの説明に疑問を抱いている。グレーベンの記述を見る限り連合軍の戦力が整う前の攻撃を想定したものには見えないし、英軍に対して陽動を行っていると思わせる文章もない。そして何より、Ollechが言うような英軍との連合を想定した作戦ではなく、プロイセン軍が単独でフランス軍を破る方策について書かれているという事実がある。そこにはウェリントンの支援が来るまで陣地を守るという記述は全然見当たらない。
 グレーベン覚書は第4軍団を除けば実際のリニーの戦いの経緯と非常に似ている。だがこれを英軍との連携を前提とした作戦案と見なすのは難しく、つまりOllechがやろうとしているように5月中頃の時点でウェリントンがプロイセン軍を支援することが合意されていた証拠とするのは無理がある。むしろリニーの戦いにおいてプロイセン軍が英連合軍の増援なしでも勝てると考える根拠になった作戦案に見える、と言った方がいいくらいだ。
 それにプロイセン軍の行動がグレーベン覚書後に変わった様子もない。5月26日にグロルマンが、その2日後にブリュッヒャーが書いた文章を見る限り、ナポレオンがスヘルデ河とサンブル河の間で攻撃に出た場合には第1軍団がフルーリュスに、第2軍団がボシエールとオノに、第3軍団がシネーとナミュールに、第4軍団がアニュに集まることになっていた(p9)。この方針は3週間前に打ち出されていたものと変わっていない。互いに協力することの必要性はウェリントンとブリュッヒャーの間で共有されていただろうが、グレーベン覚書がその具体的な指示書だと考えるのは難しそうだ。

 5月28~6月3日、ウェリントン軍の予備が次第に集まって来た。6月3日にはブリュッセルで予備軍団の閲兵が行われている。またオラニエ公がオランダの重騎兵部隊について、機動の練習を行いやすい場所へ動かしたいと6月1日に要望。ウェリントンが承認している(p1)。
 5月末にはウェリントンとブリュッヒャーが再び直接対面した。5月28日、ブリュッセルを訪れたブリュッヒャーをウェリントンは歓迎し、翌日にはグラモンの北東3キロのデンドル河畔で英=ハノーファー騎兵の閲兵が行われた。オラニエ公、アクスブリッジ、ベリー公、ブラウンシュヴァイク公、グナイゼナウなどが同道したという。その夜はニノヴェでディナーが振舞われた。30日、ウェリントンとブリュッヒャーはブリュッセルに戻り、そこで別れた。ウェリントンは翌日にヘントを訪問している。
 そしてこの頃、ウェリントンに嫌われていたハドソン・ローがひっそりと退任し、ド=ランシーが後を継いだ。逆にミュフリンクはこの時期にウェリントンの司令部に到着し、ウェリントンに挨拶してレーダーから仕事を引き継いだ。この時期にはもう1人の人物が表舞台から去った。ウィレム1世は6月2日か3日にブリュッセルからリエージュへ出発し、そこからオランダ各都市を経由して13日にデン=ハーグに戻っている(p1-2)。

 以下次回。

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