ワーテルローへの道 13

 承前。この時期のフランス軍についてウェリントンが得ていた情報は以下の通り。デルロンの第1軍団(歩兵1万9200人、騎兵3600騎)はヴァランシエンヌとコンデ間に、レイユの第2軍団(同2万4000人、5400騎)はアヴェーヌなどに、ヴァンダンムの第3軍団(1万4000~1万5000人)はメジェールとロクロワ間に、ラップの第4軍団(歩兵1万4400人、騎兵1800騎)はメスに、あまり強力でない第5軍団はストラスブールと上ラインに、ロボーの第6軍団(1万9200人、3600騎)はランに、第7軍団(9600人、騎兵いくらか)はシャンベリーに、クローゼルの第8軍団(8400人、2400騎)はピレネー国境に、ブリュヌの第9軍団はエクス、トゥーロン、タラスコンに、そして帝国親衛隊2万人はパリにいた。
 これらの部隊のうち第1~3及び第6軍団と予備騎兵3個師団は北方軍を構成していた。モーゼル方面軍は第4、ライン方面軍は第5、アルプス方面軍は第7軍団が充てられ、ルクルブ指揮のジュラ方面監視軍団がベルフォールからジュネーブまでの出口を見張り、ヴァール方面監視軍団がヴァール河を、ピレネー方面監視軍団がピレネーを守っていた。また5月初週には騎兵が4万1300騎まで増える見通しだとしている(p2)。
 その後もフランス軍に関する情報はいくつも届いているが、興味深いのは5月19日にグナイゼナウから知らされた情報だろう。17日時点の数字として、デルロン第1軍団の司令部はヴァランシエンヌにあり、戦力は2万4000~2万5000人、レイユ第軍団はマルヴィユで3万5000人、ヴァンダンム第3軍団はメジエールで2万~3万人、ジェラール第4軍団はメスで1万5000~2万人、ラップ第5軍団はストラスブールで戦力不明、ロボー第6軍団はパリまたはランでやはり戦力不明、第7軍団はシャンベリー、クローゼルの第8軍団はボルドーにいるという。ウェリントンの下に届いている情報とは微妙に異なっていることが分かる。
 5月14日、オラニエ公が行った視察についてウェリントンに報告した。彼はアルケンヌについて敵の攻撃を食い止められる場所ではないと判断した一方、ニヴェルについては効率よく敵を止められると述べている。またブレーヌ=ル=コントからニヴェルへの道は天候に恵まれれば非常にいい状態であり、さらにニヴェルからブレーヌ=ル=シャトーを経てハルへ至る道も、乾燥時には砲兵も利用可能としている(p3)。

 一方で連合軍側のフランス侵攻の話も継続して論じられている。中にはステュワート卿のように実際の軍の指揮とは無関係な人物が、ウェリントン宛の18日の手紙で、まずミュラを巡るイタリア情勢を完全に終わらせ、ピエモンテの作戦を上ラインから切り離し、それから左翼(オーストリア)と中央(プロイセン)とともに最大限の迅速さで前進すべきだとの方針を示している例もある(p5)。
 ブリュッヒャーは20日、シュヴァルツェンベルクへの手紙で、最終的にパリで合流することになる各軍のスタート地点を定めるべきだと提案し、その場所はいずれもパリから同じ距離、具体的にはオーストリア軍にはオーセールとトロワ、ロシア軍はシャロン、英=プロイセン軍はランとアムを割り当てることを申し出ている。一方で6月16日まで攻勢が延期されることに対しては「極めて残念」と述べ、「我々が時を失うことは敵にとって勝利であり、彼らはその国内で権力を確立するであろう」(p5-6)と警告を発している。
 侵攻の準備は舟橋(プロイセン軍)やロケット部隊(英連合軍)も含むものだった。特に要塞攻囲用の装備が不足していたプロイセン軍は英軍にその補給を要請しており、ウェリントンからは20日付でそれらの手配に関してグナイゼナウへと連絡が行われている(p6)。5月末には76門、6月中旬には245門の艦船に搭載された攻城用大砲がアントワープに準備されていた。
 5月16日にはローマ街道の向こう側まで宿営地を広げたいという第1旅団の要望に対し、グロルマンが許可を与えた(p6)。また14日にグロルマンは各部隊の宿営地変更に関して、どんなものでも司令部に伝えるよう命令を出している。

 de Witはここで連合軍側がどのようにして情報を集めていたかについて説明している。ウェリントンは個人的なネットワークやヘントにいるフランス王家を経由したもののほか、英軍士官の姪が嫁いでいたベルトラン、自ら情報を送ってきていた警察大臣フーシェを通じてパリからも情報を得ていた。ベルギーではモンスを拠点としたハノーファーの情報将校デルンベルクが様々な方法で情報を仕入れており、彼はツィーテンともやり取りをしていた。さらにツィーテンはウェリントン自身とも情報を交換していた。
 ウェリントンの司令部ではローが4月25日の時点で情報を扱う部局を作るべきだと提案していた。ウェリントンがこの任務に充当したのは第11連隊のグラント中佐(p7)。彼は半島戦争でも同じ役割を果たしており、5月12日にはブリュッセルに着任し、それからモンスに移って仕事を始めた。プロイセン軍経由の情報はハーディングがウェリントンに伝えた。
 オランダ軍で情報を集める役割を果たしたのはモンスにいたベーア男爵だった。また哨戒線にいたファン=マーレンの騎兵旅団もフランス軍の動向について情報を集めており、プロイセン側で同じ役目を果たしていたフォン=シュタインメッツとも情報を交換していた。さらにオランダ軍はシャルルロワにいたド=ヴェーゼナーにも情報を集めさせており、彼は当初はブリュッセルのティンダル将軍に、後にはブレーヌ=ル=コントのコンスタン=ルベックに報告した(p8)。
 プロイセン軍が入手していた情報は、ハーディングに言わせると「あまりに不十分で、ほとんど信用できないソースからきているため、閣下[ウェリントン]の報告が最も満足のいくもので、かつ唯一重視されているもの」(p9)となる。実際にはツィーテンがフランスに送り込んでいた者たちから得た情報などもあったようだが、全体としてプロイセン軍はブリュッセル及びヘントから来る情報にかなり頼っていた面があるようだ。
 ウェリントンはシャルルロワが自分の担当区域ではなく、プロイセン側の担当と認識していた。両軍の境界線はバンシュから北東に伸びるローマ街道であり、それより東の防衛に関してウェリントンは基本的にプロイセン軍に任せる方針を取っていたようである。

 5月21~27日の動向を見ると、まず21日にウェリントンがシュヴァルツェンベルクに宛てて自軍の兵力を「7万6000人」と紹介し、さらにナッサウ兵(3000人)、オルデンブルク兵(1000人)、ハンザ同盟市兵(3000人)が到着予定だとしている(p1)。さらにフレイザーが22日に書いた文章を見れば、新規に第5及び第6師団も編成されたことが分かる。
 一方、ウェリントンが要請していたポルトガル軍の参加は残念ながら進まなかった。彼は3月時点でカッスルレーに対し、ポルトガルが動員する2万人のうち1万2000~1万4000人をベルギーに呼びたいと伝え、4月にはトレンスが1万5000人の歩兵を輸送する件について言及している(p2)。この要望は駐ポルトガル英大使のカニングを経由してポルトガル元帥の地位を持つベレスフォードに伝えられ、実際に4月末には1万5000人の部隊が編成された。
 しかしカニングやベレスフォードの骨折りにもかかわらず、ポルトガル政府はこの部隊をベルギーに送るべきかどうか決められなかった。5月16日にはウェリントン自身がポルトガル摂政に決断を促したが、それでも事態は進まなかった。最終的に6月には、ブラジルに疎開している政府の命令がない限り、兵をベルギーに送ることはできないと拒否されている。
 一方、ベルギーにいる両軍の首脳は5月28~30日に再び直接顔を合わせることになった。おそらく24日にレーダー経由でウェリントンがブリュッヒャーを招待した(p2)。そのレーダーは5月25日をもって連絡将校の役割をミュフリンクと交代した。レーダーは第1軍団予備騎兵の指揮官になり、ミュフリンクが務めていた役割はグロルマンが引き継いだ。

 以下次回。

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