ワーテルローへの道 10

 承前。フランス軍が攻撃してくるという情報は、英連合軍の担当戦区だけでなくプロイセン軍のいる地域にも伝わった。中でも最も突出した場所にいるツィーテン軍団にとって事態はかなり切迫しており、5月2日には敵の前進に合わせて各旅団がどこに集結すべきか指示が出ている。敵がバンシュ方面から来る場合、第1旅団はフォンテーヌ=レヴェクの背後に、第2旅団はシャルルロワ背後、第3旅団はフルーリュスの背後、第4旅団はオノの背後、そして予備騎兵はジャンブルーの背後が集結地点とされた(p11)。また哨戒線や騎兵の配置なども詳細に命じられている。
 敵がさらに進んできた場合、第1旅団はルーを経てジュメとゴスリーまで後退し、前衛部隊としてゴスリーに布陣する。第2旅団はフルーリュス前面まで後退し、第3旅団はフルーリュスの背後、街道の右側(北側)に位置取る。第4旅団は左翼において縦隊を組む。
 敵がボーモンやフィリップヴィユから来る場合も基本は同じ。もしフィリップヴィユから来たフランス軍が第4旅団の守るサンブル渡河点を攻撃するのなら、他の軍団が集結を終えるまで彼らはそこを守る。第1軍団がフルーリュスに集結することになった場合は司令部もフルーリュスへと移動する(p11-12)。
 さらにその9日後には第2旅団の配置に関する詳細もまとめられた。彼らが防衛に当たるシャルルロワの橋は石造りで破壊することができないため、そこの防衛は狙撃兵のみで行うとしている。また隣接する第1旅団との連絡の取り方まで定め、互いに連携しながら後退することを重視している。敵の攻撃を知らせる砲兵哨戒線についても命令が残されており、敵が哨戒線を突破したら合図として3発の砲声を鳴らすよう指示されている(p12-13)。
 5月5日、ツィーテンは敵の接近に対して第1軍団はフルーリュスとジャンブルー間に集結するのが望ましいとグナイゼナウに申告。さらに改めて第1軍団の配置に言及し、各旅団の合流地点について2日の命令とは少し違う場所を記している。第1旅団はアンデルリュとフォンテーヌ=レヴェク、第2旅団はサンブル左岸のシャルルロワ、第3旅団はランビュサールとフリュールス間、第4軍団はジャンブルー、そして予備騎兵はゴスリーに、予備砲兵はソンブルフとなっている(p13-14)。
 5日にはブリュッヒャーもいくつかの命令を出した。ツィーテンに対してはフルーリュス前面に兵を集めることに対して了解したと伝えるとともに、常に英=オランダ連合軍及び第2軍団との正確な連絡を欠かさぬよう求めている。第2軍団に対してはナミュールに集結するよう命じ、他の対応についてはより正確な敵の情報を得てから伝えるとしている(p14)。
 ブリュッヒャーは6日にクライストへも命令を出している。それによるとティールマンの軍団はルクセンブルクからアルロンとバストーニュに、フォン=ハーケの軍団(第4)はコブレンツからマルメディへと行軍するよう命令されていたことが分かる。クライスト自身に対しては使える兵全てとともにトリーアへの移動を命じている(p14-15)。
 同日午後7時にハーディングがまとめた文章によれば、プロイセン軍は以下のように展開していたことになる。即ちツィーテン軍団がフルーリュス周辺に集結し、ボアステル軍団が(リエージュ周辺の20個大隊を除き)ナミュールに、ビューローの第4軍団がコブレンツからマルメディへ移動して11日にはそこに到着し、ティールマンの第3軍団は7日か8日にはアルロンに集結する(p15)。
 ブリュッヒャーの命令を受け取ったツィーテンは6日、第1軍団をフルーリュス周辺に集めると返答する一方で、前衛部隊として第1旅団をフォンテーヌ=レヴェクに、第2旅団をシャルルロワに配置し、自分も情報を集めるためシャルルロワにとどまるとしている。そして各部隊に対して予定の場所に集結するよう命じ、また輜重はタンプルー方面へ後退させている。命令を受けた第1旅団の返答や、第2旅団の配置状況も採録されており、当時の軍内でどのように命令がやり取りされていたかが分かる(p15-16)。
 ティールマンが7日に書いた返事からは第3軍団の展開状況も見える。騎兵は8日にアルロン周辺に、歩兵は10日にアルロンとバストーニュ間のマルトランジュに移動することになっていた。また分遣隊や哨戒線をフランス国境方面に派出している。第3軍団の戦力は歩兵7200人、騎兵1800騎だ(p16)。

 フランス軍の動きを受けてウェリントンが「秘密覚書」を記した時、彼の手元にある戦力は6万人から7万人規模だった。その部隊は以下のように展開していたことになる。即ち英=ハノーファー軍の第1師団はアンギャン周辺、第2師団はアト周辺、第3師団はランス周辺、第4師団はスヘルデ河とグラモン(ヘラールズベルヘン)間、その他に騎兵が各地に展開していた。またオランダ軍は第1師団がモンスとシャルルロワ、インド旅団がジュナップ周辺、第2師団がニヴェルとティリー間、第3師団がブレーヌ=ル=コント周辺に展開し、騎兵も主にブリュッセル南方地域にいた(p16-17)。
 「秘密覚書」はウェリントンが以前から抱いていたフランス軍の攻勢に対する対応策を明らかにしたものだ、というのがde Witの解釈だ。まずレイエ河とスヘルデ河の間から攻めてきた場合、重要になるのはルイ18世のいるヘントと、スヘルデ渡河点であるオーデナールデだ。このシナリオにおいてウェリントンはスヘルデを防衛線として使い、オーデナールデとアフェルヘムを橋頭堡として利用する。ブリュッセルを守ることを優先しながら、必要ならプロイセン軍から遠ざかることを前提として2つの橋頭保から出撃するという作戦だ(p17-18)。
 第2のシナリオはスヘルデ河とサンブル河の間からフランス軍が進出してくるもの。ブリュッセルへの距離は近く、途中に防衛線となる河もない。ウェリントンはモンスからトゥルネーまでの要塞線を第1線に、アンギャン、ソワニー及びブレーヌ=ル=コントに集めた兵力を第2線に、さらに後方のハルに集結させる予備騎兵を第3線として防衛線を敷く。一方、左翼は完全にプロイセン軍に任せるようにしている。どちらのシナリオでも結局のところ最も重点を置いて守るのはスヘルデとサンブル間の地域で、その最大の目的はブリュッセル防衛だ(p18-19)。
 とはいえこの時点でウェリントンがどこまで本気でフランス軍の攻勢を心配していたのかはよく分からない。オラニエ公が5月1日の時点で、つまりまだオランダ軍の指揮権をウェリントンが手に入れる以前にブリュッセルを離れブレーヌ=ル=コントへ向かった点を見るのなら、それなりに懸念していたのは事実なんだろう(p20)。ウェリントンとウィレム1世との対立に際して、両者の中間に立つことができるオラニエ公は重要な存在だったはずだが、その彼が最前線近くにいかなければならないだけ事態は切迫していた。

 もう1つ、歴史的に大きなテーマになるのがティールモン会談だ。ウェリントンがこれを望んだのには2つの背景がある。1つは彼の軍に対するフランス軍の脅威が増したこと、もう1つはフランス侵攻の日程がウィーンで6月1日に決まったこと。前者については実際にフランス軍が攻めてくる可能性が高まった時点で、改めてプロイセン軍の支援を確認したかったと考えられる。実際にウェリントンが会談後に書いた手紙などを見ると、プロイセン軍の支援について満足しているという内容のものが多く、これが会談のテーマであったのは間違いない。
 同時にここで話し合われたのが、あくまでこのタイミングでの協力についての相談だったことも見逃せないだろう。ウェリントンは5月11日にオラニエ公に宛てた手紙で、現在の状況では敵の突然の攻撃に備えて容易に集まることができ、また他の部隊から切り離されないようにするのが重要だと記している(p21)。ティールモン会談は具体的に英連合軍側に圧力がかかっているタイミングで開かれたものであり、まさにその状況にどう対処するかを話し合う場だったのだ、とde Witは見ている。
 さらにティールモン会談の直後にプロイセン軍がフルーリュスからジャンブルー周辺への兵力集結を図っているところから、英連合軍を支援する場合はこの周辺にプロイセン軍を集結させるというアイデアが会談で提示された可能性もある。ただしベルギー防衛に関して長期にわたる詳細な作戦計画が語られたとは解釈しがたいだろう。この時点で連合軍は6月1日にフランス侵攻を予定しており、つまりその時に至ればベルギー防衛についての詳細はもう必要なくなるのだ。

 以下次回。
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