ワーテルローへの道 9

 承前。同じ4月30日、オラニエ公はフレデリックに対し、司令部をブレーヌ=ル=コントへ移すよう要請した。オラニエ公自身も幕僚とともに5月2日にそこに到着している。5月1日、ウェリントンはバサーストへの手紙で、ナポレオンの攻撃目標はこちらではなくバイエルン軍ではないかとの予想を述べているが、5月2日にナポレオンがパリを出発するとの情報を得て、オラニエ公にモンス、ヘント、トゥルネー周辺の氾濫を指示している(p3)。
 ニューポールなどは既に4月17日時点で氾濫が命じられていたようだ。6月に入ってウェリントンは、オステンドとニューポールの氾濫に関する不満に対して対応を強いられている。ウェリントンが早いタイミングで氾濫を命じていたのは「真水で氾濫させるのは時間がかかることが知られており、海水を氾濫させて土地を永遠に痛めないと決めたから」(p4)だという。
 4月29日にはバサースト宛の情報で、ボナパルトが2、3日のうちに出発し、その目的が準備のできていない連合軍を攻撃することにあるという話が伝えられた。新聞では彼が視察のため北方に向かうと報じられているが、彼がそのまま現地で指揮を執る可能性もあるという。ナポレオンが第1、第2、第4、第6軍団に集まるよう命じたという話もあり、その兵力は11万4200人に達していたという(p4)。

 フランス軍が攻めてくる可能性が高まったのを受け、連合軍側ではもう1つの対応策が取られた。英連合軍とプロイセン軍司令部の会合だ。4月の29日か30日にウェリントンからブリュッヒャーに対し、5月3日にブリュッセルとリエージュの中間にあるティールモンで会談を持とうという申し出があった。4月30日、ハーディングからソマーセットへの手紙には「ブリュッヒャー公は次の水曜日[5月3日]11時にティールモンを訪れる」(p4)と、プロイセン側が会談を受け入れたことが書かれている。
 会合はおそらく午前11時から午後1時までの2時間にわたって行われた。新聞記事によると、多くの将軍や士官たちを連れた両者はほぼ同時に到着し、「2時間の会談後に食事をとって再び出発した」(p4)という。プロイセン側には少なくともブリュッヒャー、グナイゼナウ、ミュフリンク、ハーディング及びフォン=ノスティッツがおり、英連合軍側にはウェリントン以外に少なくともレーダーがいたという。
 会談の正式な記録は残っていないが、ウェリントンが同日クランカーティに宛てた手紙では「私は本日、ティールモンでブリュッヒャーと会い、彼から最も満足のいく支援についての言質を得た。ベルギーでの戦闘についで私は今や戦場に7万人を、ブリュッヒャーは8万人を配置できる。ブオナパルテ相手でもうまくやれるだろうと期待している」(p5)と書いている。またオラニエ公に対しては簡潔に「ブリュッヒャーとの会談はとても満足いくものだった」と説明したという。
 ハルデンベルクに対しては同日に「ブリュッヒャー公とプロイセンの士官たちは、私が多数の敵にやられるままにしておくつもりはないようで、私は満足している」と記しており、そしてブリュッヒャー自身に対しては午後9時に書いた手紙で、前線から新しいニュースは届いていないことを知らせている。
 翌4日、ウェリントンはオーストリア大使のビンダー男爵と会った。ビンダーは9日付で記した報告書の中で彼との会話を記しているが、ウェリントンは自分たちの戦力やフランス軍の想定される兵力、プロイセン軍が投入できる戦力などについて語っているだけで、特にティールモンで何が話し合われたかについては言及しなかったようだ(p5-6)。
 5日、ウェリントンがバサーストに書いた手紙には「一昨日に行なったブリュッヒャーとの会談で、彼は[ハーディングに]充分満足しており、彼がとどまることを認めてほしいと頼んできた」(p6)とある。同日、ブリュッヒャー自身がウェリントンに宛てて記した手紙では、彼が担当している戦線における敵の動きや、ザクセン兵に対する対応策などが簡単に記されているだけで、やはりティールモン会談の内容について触れている部分はない。
 会談に参加していたかどうかは分からないが、フォン=ブロックハウゼンはプロイセン王宛の手紙でティールモン会談について「2人の最高責任者が互いに会い、あらゆる友情と信頼の印の下に別れることで合意したのは、あらゆる意味で価値があった」(p6)とシンプルに紹介している。そしてウェリントンが8日にハーディング宛に書いた手紙には「前にティールモンで私は[ブリュッヒャー]元帥に、フランス軍からの脱走者を迎えるために国境にどうやってフランス王の士官たちを配置したかのやり方を説明した」(p6)とある。
 ブリュッヒャーの副官であったノスティッツは日記に「共通の戦役のために必要な取り決めをウェリントン公が行った後で、我々はリエージュに戻った。(中略)ブリュッヒャー公は司令部をナミュールに移し、各軍団の配置換えを命じた。ナポレオンの戦力に対してベルギーの防衛を可能ならしめるのは両軍の完全な連携だけであるという理由から、ウェリントン公がそうするよう求めたためである」と書いている。
 そして会談には参加しなかったが、プロイセンの司令部にいたバイエルンの士官トゥルン=ウント=タクシスは「2日前にティールモンでウェリントン公との会談が行われ、もし敵が攻勢を取るならば、連携し戦いを挑むことで合意した。ただし事態はそこまで切迫していないように見える」(p6)と書いている。さらに彼は一方の軍だけでもいくらかの数的優位は確保できるので、両軍が合流しなくても大きなリスクなしに戦えるのではないかとの見解も示している。

 その後も4日には親衛隊6000人がシャルルヴィユへ向かっており、ナポレオンのパリ出発が延期され、そしてフランス軍の兵力が24万3000人に達しているという情報があった。だが5日になると新しい情報は途切れ、ウェリントンはヘンリーに向けてまたブルボン家ではなくオルレアン家の中継ぎ登板がらみの話を繰り返している。6日にはマーストリヒトの武装に関する話が出ているが、フランス軍に関する情報は再び落ち着きを見せるようになった。
 しかしオランダ軍司令部では状況は違った。コンスタン=ルベックは4日、配下の全部隊に対して各師団が司令部に集まるのに必要な時間、可能な限り兵を近くに置いておくための手段、兵の健康を悪化させることなく彼らを大きな建物に集める可能性などについて問い合わせている。また6日には特にペルポンシェの第2師団に対し、より集結する必要があると命令。いざという時には第1旅団がニヴェルに、「第2旅団がキャトル=ブラに」(p7)集まって命令を待つのがオラニエ公の意向であると伝えている。これを受けて7日にペルポンシェは改めて集結に関する命令を出しており、これが戦役開始時に大きな影響を及ぼした。
 ウェリントンの司令部ではフランス軍への対応が落ち着いてきたところで、再びウィレム1世とのトラブルが大きな問題になってきた。4日のバサーストへの手紙で彼は「日々、国王に不満を抱くより多くの理由」(p8)が生じていると指摘し、バサーストは引き続きアントワープとオステンドの確保が重要だとウェリントンに指示を下した。
 英国側の厳しい姿勢が効いたのか、ウィレム1世はオランダ軍の指揮権もウェリントンに預けると表明(p9)。5月5日にはウェリントンがウィレムに対してこの任命に感謝する手紙を書き(p10)、6日にはバサーストにこの指揮系統の変更を報告している。また彼は同日、おそらくこの任命をルイ18世に報告すべくヘントを訪れている。正式な任命が決まったのはその後で、8日のバサーストへの手紙には「[オランダ王]陛下が私を、オランダ軍の元帥として軍の司令官に任命した」とある。
 そのころウィーンではフランス侵攻計画についてクネーゼベックとシュヴァルツェンベルクが立案を進めていた。また5月5日にはロシアのトール将軍がやはり侵攻計画を作っている。ウェリントンとブリュッヒャーはナミュールから互いに最大でも3日行程以内の距離を維持しつつ侵攻し、シュヴァルツェンベルクはマンハイムとシュパイアーでラインを渡るといった内容だ(p11)。

 以下次回。
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