ワーテルローへの道 8

 承前。ベルギーにいる英軍は5月初旬には4万人になる見通しだった。フランス軍についてはいくつかの軍団に関する情報がウェリントンの下に届いていた。17日にはボーム近くに舟橋が架けられたが、これはアントワープへの退却の際に重要な役目を果たすものだった。
 グナイゼナウは16日にクラウゼヴィッツに手紙を書いているが、彼もまたすぐには戦役が始まりそうにないとの見方を示している(p2)。18日にボイエンに宛てた手紙では、フランスへ侵攻する際のふさわしいルートについて議論しており、アルデンヌを通るルートが通行不能で食料不足の懸念がある一方、そこが「フランスでも最弱の国境の1つであり、そして戦争においては予想外というのは常に機能するものである」(p2-3)と述べている。第二次大戦時の対仏戦争を見通したかのような指摘である。
 4月19日、ブリュッヒャーがようやくリエージュのグナイゼナウと合流した。さらに21日からはプロイセン軍の再編が始まり、5月末になってようやく完了した。この再編過程で各軍団の数字が変更され、かつての第2軍団(ツィーテン)は第1に、第3(ボアステル)は第2に、同じくかつての第1(ピルヒ指揮)は第3となり、指揮官はティールマンに交代した。3月初頭時点で約3万人だった兵力は4月末には5万人から5万3000人に増え、第4軍団の合流で5月半ばには7万8000人に、そして戦役が始まった6月半ばには11万5000人まで膨らんだ。
 ウィーンではクランカーティがウェリントンによる5月1日侵攻案を提示したが、19日夕の会議ではこの案は採用されず、攻撃開始は6月1日となった。ハーディングは30日付のソマーセット"https://en.wikipedia.org/wiki/FitzRoy_Somerset,_1st_Baron_Raglan"への手紙の中で「オーストリア軍は5月末にならないとライン河畔に到達できない」(p4)と事情を説明している。

 4月23~29日の週も、戦争準備という点では比較的静かに過ぎていった"https://www.waterloo-campaign.nl/bestanden/files/preambles/blucher_wellington.7.pdf"。4月25日にはアクスブリッジ卿がベルギーに上陸し、3日後に正式に英連合軍の騎兵指揮官に任じられた。ウェリントンは4月末の状況について弟のヘンリー"https://en.wikipedia.org/wiki/Henry_Wellesley,_1st_Baron_Cowley"に伝えているのだが、それによるとウェリントンが持っていた兵力はオランダ軍を含めてこの時点で6万人に達していたという(p1)。
 面白いことにウェリントンはこの中で、パリのジャコバン派がオルレアン公を元首にしようと考えているとの噂を紹介し、「ロシア皇帝があまり反対しないことを恐れている」(p2)と述べている。ウィーンでもイングランドでも人々はブルボン家に対して冷たいというのが彼の見解であり、つまりブルボン家の王位への復活は必ずしも連合国共通の大義ではなかったことが分かる。
 一方、28日付のバサーストへの手紙で愚痴っているのはウィレム1世との関係。軍の前進時にこの国をどう守るかについての準備に関して「多大な困難を強いられた。彼[ウィレム1世]との他の調整も全てそうだった」と記している(p2)。国王は「私が提案する全てのことに反対し、それから1週間に及ぶ交渉が必要な事態と化し、そして最後に彼が望むように私が手配することでようやく落ち着く」という。ウェリントンは国王について「かつて会った中で最も取引するのが難しい人間」とまで言っている。
 国王とウェリントンの対立は、ベルギー各地に配置する守備隊の問題を巡っても浮上した。ヘントをウェリントン軍が占拠することに対してウィレム1世が反対した時にはウェリントンも激怒し、そしてなぜかオラニエ公を通じて両者が苛立ちをぶつけあう事態に至ったという。オラニエ公にしてみればいい迷惑で、最終的には彼を通さず直接やり取りが行われた。ウェリントンはアントワープ、オステンド、ニューポールという海への退路を確保するうえで重要な拠点については英軍が、イープル、トゥルネー、ヘント、モンスについてはオランダ軍が駐留することを提案した(p4)。
 だが問題はさらに大きくなった。ウェリントンが国王との交渉において妥協点としてアントワープ、オステンド、ニューポールの守備隊指揮官を「英国士官もしくはフランスの軍務に就いたことのないオランダ士官から国王が選ぶ」(p5)ことを提案したのが、英本国の政治家たちの逆鱗に触れてしまったのだ。バサーストは5月2日のウェリントン宛の手紙で「これらの要塞を英国の指揮官が占拠することは(中略)極めて重要」(p5)としたうえで、オランダ軍士官に指揮権を譲ることには何としてでも抵抗せよと命じた。司令官という立場が決して羨ましがるようなものでないことを示す一例と言えようか。
 4月22日にウェリントンの下に届いたフランス関連の情報によると、彼らの全戦力は43万人。各地に必要な兵力を配置した後に残るのは23万人で、これが26万人の連合軍と対峙する格好になる。ちなみに5月20日前後にはそれぞれの数がフランス軍は28万人、連合軍は37万人となっている。その他にも21日にリール付近でナポレオンが奇襲を計画しているとの情報も入って来た(p2-3)。
 だがウェリントンが23日付でブリュッヒャーに宛てて書いた手紙には、こうした情報を気にかけた様子は見られない。「国境の敵は同じ状態で、数も同じ」(p3)というのがウェリントンの見方で、ヴァランシエンヌで将官と幕僚が増えていることについても何かを意図したものではないと判断している。
 一方、プロイセン軍司令部ではフランス侵攻の遅れに苛立ちを募らせていた。グナイゼナウが23日付でローに書いた手紙には「この呪われた[ウィーン]会議は、敵が我々と戦うことができるようになるまで熟考するつもりではないだろうか」(p6)と悪態をついている。
 ブリュッヒャーも可能な限り早く攻撃すべきと考えている点ではグナイゼナウと同じだが、一方で彼は甥への手紙の中で「君主たちが一体である限り、物事は上手くいく」とも述べており、協力の重要性についてきちんとした認識を示している。そして面白いことに、彼はブルボン家については「彼らが国民の支持を勝ち取る方法を知ろうとしない限り、ブルボン家を玉座に置くのは常に難しい。フランスから切り離し、彼ら[フランス人]が共和国政府を設立できるようにするのが最も賢明ではないか」(p6)と指摘している。人々がブルボン家に対して冷たいというウェリントンの懸念は、確かに当たっていた。

 4月中旬以降、静かな状態が続いていたベルギーだが、5月に差し掛かる頃から再び事態が動き始めた。4月30日から5月6日の週"https://www.waterloo-campaign.nl/bestanden/files/preambles/blucher_wellington.8.pdf"には注目すべき出来事がいくつも発生している。ナポレオンが北部国境を訪問するという噂、老親衛隊の一部がボーヴェ方面へ行軍するという話など、比較的静かだった国境が再び騒がしくなりつつあった。
 これを受けてウェリントンが4月30日にオラニエ公、アクスブリッジ、ヒル、主計総監らに宛てて出したのが「秘密覚書」(p1-2)だ。まず敵の攻撃がレイエ河とスヘルデ河の間、スヘルデ河とサンブル河の間、そしてその両方のルートを経てやってくると想定。最初のケースの場合はまずスヘルデ沿いのアフェルヘムとオーデナールデの橋を確保しつつ、その周辺及びヘント地域を氾濫させるよう指示している。レイエ西岸の監視騎兵はオステンドやトゥルネーへと後退し、第1から第3歩兵師団はそれぞれの司令部に集結していつでも行軍できるようにする。オランダ兵はソワニーとニヴェルに集結する。
 2番目のケース、つまりスヘルデ河とサンブル河の間を敵が攻撃してきた場合、英及びハノーファー軍はアンギャン周辺に、オランダ軍はソワニーとブレーヌ=ル=コント周辺に集まる。第2及び第3師団は司令部に集まったうえで、ハノーファー旅団とともにゆっくりとアンギャンに後退する。モンスとトゥルネーの守備隊はそこにとどまるが、アトの守備隊は奇襲に耐えられないなら第2師団とともに後退する。ポンソンビーらの騎兵はハルへ行軍し、第4師団と第2ユサールはアフェルヘムの橋に拠った後でオーデナールデへ後退する。
 もし攻撃が両方のルートで行われれば、第4師団と第2ユサール、及びヘントの守備隊は第1のケースに従って、第2師団と第3師団、騎兵及びオランダ兵は第2のケースに従って対処する。ウェリントンはアクスブリッジに対し、もしフランス軍が「レイエとスヘルデ間を攻めてきた場合、我々が十分に強ければ後者を渡って敵を攻撃する」(p2)と述べている。

 以下次回。
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