承前。英連合軍がプロイセンの司令部に連絡将校としてハーディングを送ったのにはもう1つ背景がある。11日にウェリントンがバサーストに宛てて記した手紙には「ウィーンで1月3日に締結された条約」(p4)がプロイセン軍の手に落ち、これが彼らの妬みと不機嫌を呼び起こすことへの懸念が書かれている。この条約がどのような状況下て結ばれたのかについてプロイセンの軍人たちに説明し、納得してもらうためにハーディングを送り込んだというわけだ。
1815年1月3日の条約とは、いわゆるポーランド=ザクセン危機に関連して英仏墺の3ヶ国が普露両国に対抗して結んだものだ。ロシアがポーランドの大半を手に入れ、代わりにプロイセンはザクセンを併合するという交渉をしていることを知った3ヶ国が、彼らの計画を防ぐために必要なら戦争に訴えることで合意した条約である(p5)。結局このポーランドとザクセンを切り取る案は実現せず、そもそも戦争の準備をしていなかった3ヶ国も武力に訴えることなく、いったんこの問題は消えたかに見えた。
そんな数ヶ月前の亡霊みたいなものがこのタイミングで生き返ったのにはウェリントンも困惑したことだろう。事態の鎮静化を任されたハーディングは、それが恒久的な政策につながるものではなく、あくまでウィーン会議がのっびきならない事態になるのを防ぐために一時的に取られた対応にすぎないとグナイゼナウに説明し、納得してもらおうとした。グナイゼナウは色々と文句も言ったが、最終的には「現在の状況下で重要になっている利害の中で、[1月3日の条約の]全ては忘れ去られたと信じている」(p6)と述べたそうだ。足元の状況ではより重要な問題があり、それへの対処こそが最優先というわけで、これもまた彼らの言う「大義」に基づく判断だろう。
4月13日、ウェリントンから今後の方針を示されたグナイゼナウがそれへの返答を記した。彼はまず、戦いになった時はシャルルロワのツィーテン軍団だけでなく、ナミュールにいるボアステル軍団をはじめ「利用可能な我らの戦力全てによる支援に頼ってほしい」と表明。ブリュッセル前面の会戦にプロイセン軍が全面的に関与する姿勢をはっきりと示した。そして最も心配していた敗北時の対応については「閣下が海[への退路]を捨てムーズ河へと機動すると決断したことにより、全ての困難が消えました」(p7)と記している。
晴れ晴れとしたグナイゼナウの表情が思い浮かぶような言葉だが、この手紙に対してウェリントンは「現下の状況であれば全ての退却は一時的なものにすぎないでしょう(中略)。我々は退却や、あるいは攻撃されることすら考えることもないほど、十分に強いのです」(p7-8)と返答。自分たちの状況にかなりの自信を持っている様子を示した。とはいえ一方で彼はこの後もアントワープへの退路の防衛を強化するなどの対応を取っている。司令官としては最悪のケースも想定しなければならなかったのだろう。
いずれにせよベルギー防衛の方針が固まったことにより、連合軍司令官たちの関心は来るべきフランス侵攻へと向けられるようになった。ハーディングが15日付でウェリントンに宛てた手紙にはグナイゼナウの侵攻案が紹介されている。各20万人の軍を上ライン、ライン中央、ネーデルランドに展開し、中央軍の背後に予備軍を置く。数的優位を生かして各軍は独自にパリへと移動し、反撃を受ければ防御を行いつつ予備軍の方角へと下がる。それぞれ3~4日行程の間を開けておくところなど、以前からグナイゼナウが抱いていたアイデアを改めてハーディングに開示したことが分かる(p8)。
攻撃開始が遅れるほど、フランス内でナポレオンに抵抗している王党派の勢いが衰える。4月末に連合軍が戦場に投入できる兵力が27万人に達するのに対し、フランス側は18万人と想定されるなどが、ウェリントンが攻撃を急がせた理由。一方で11日には海軍のマーティン准将に宛てて「我々がこの国で攻撃される可能性はない」(p9)とも述べている。
ウェリントンの仕事は軍事が中心だが、それに関連した周辺業務も彼の担当だった。1つが英国から各国に支払う補助金。兵力を提供する代わりに金で貢献するというのが、陸軍の少ない英国が選んだ策だ。4月17日には英国政府が同盟国に対し、軍務の提供に対して補助金を支払う具体的な方針を示した。兵1人あたり11.2スターリング・ポンドを補填するという内容だったが、ハノーファーの軍勢は違う計算方法を取っていたようで、ウェリントンがそのあたりについて交渉を行っている(p10-11)。
ウェリントンとの合意に基づきツィーテンがシャルルロワに到着したのは4月11日だった。ボアステル軍団はそれまでツィーテンがいたナミュール、シネー、ユイに宿営し、ティールマンの軍団はリエージュとエルヴ間のムーズ右岸にやって来た。コブレンツにいたピルヒ軍団は10日に行軍をはじめ、16日にディーキルヒ(現ルクセンブルク領)に到着し、それから21日にかけてトリーアまでの地域に展開してモーゼル南岸にいるバイエルン=オーストリア軍と連携できるようにした。また第4軍団がコブレンツ近くに集結を始めた。
グナイゼナウが14日付でプロイセン王に宛てた手紙の中では引き続きオランダやベルギー兵に対する不信を述べつつも、英連合軍が行っている再編によってこれらの不利はカバーできるとの見方を示している。またウェリントンとのやり取りによって懸念が薄れたことも紹介し、自軍の再編に際してレーダーの後任をどうすべきか悩んでいるとも述べている。最後に、ウェリントンと同じように、早期に対仏戦役を始めるように勧めている(p11-12)。
また15日にフォン=ティーレ中佐に宛てた手紙で「クライストは全てを見事に準備しており、ミュフリンクはあらゆる注意を払って仕事を進めている」(p12)と述べ、自軍の状態には満足していることを示している。一方でザクセン軍の間に広まっている不満についても触れ、「もし戦いを行う場合、彼らをそこへと導くことには躊躇する」(p13)と心配を抱いている。後にザクセン軍は反乱を起こし、ブリュッヒャーの軍から切り離されることになる。
ウェリントンとグナイゼナウの間のやり取りは、レーダーを通じて行われたためにいささか面倒な流れをたどった。そして両者間では退却については多少詳細なやり取りが行われたものの、どこでどのように戦うかについての話は実はかなり曖昧なままにとどまっている。唯一、ウェリントンが示したのは、フランス軍がスヘルデ河とサンブル河の間からやってくるという想定だけであり、そこから推測できるのは英連合軍がアト、ブレーヌ=ル=コント、ニヴェル付近で敵を迎え撃つつもりらしいという点くらいだ(p13)。
退却についてはウェリントンもローもムーズ河への後退に言及している。それを受けてグナイゼナウは、退却する場合もウルト河とムーズ河の合流点(リエージュ)の東に陣を敷けば、ユーリヒまで下がる必要はないと述べている(p14)。このやり取りによって両者の合意が固まったのは確かであり、de Witが指摘するように2人は「両国それぞれに自分たちの利益があるとしても、共通の目的を達成ための共通の土俵を見つけなければならない」(p14-15)ことに気づくことができるプロフェッショナルだったのだ。
4月16日、ウェリントンは視察のためにブリュッセルを発し、オステンド、ニューポール、イープル、アトを経て20日にブリュッセルに戻った。21日にはトレンスに向けて「これ以上の将官を送るより前に、もっと多くの兵を見せてくれ」(p1)と要望。バサーストには大砲と馬匹、御者などを要求した。英連合軍にとって御者の不足は深刻だったようで、砲兵指揮官のフレイザーも21日に「200頭の馬はいるが御者がいない」と嘆いている。
以下次回。
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