ワーテルローへの道 6

 承前。ウェリントンが「ティールモン会戦」案を拒否したのは、ブリュッセルの重要性故であった。ベルギーはライン河畔に集結する連合軍を守る重要な回廊であり、ブリュッセル陥落はライン諸国への連絡も難しくする。「ブリュッセルこそネーデルランド防衛の真の要である」(p18)というのがウェリントンの考えだった。たとえ本格的な会戦で勝利するとしても、それ以前に放棄した地域がもたらす士気への影響、そしてその際に失われる物資が後のフランス侵攻に与えるマイナスなどを踏まえると、ブリュッセルを守ることには軍事的にも意味があるというわけだ。
 ブリュッセル防衛を最優先に考える場合、プロイセン軍との連携は欠かせない。そのためにウェリントンはナミュールまででなくシャルルロワの先までプロイセンが踏み込むことを求めた。これにグナイゼナウが応じたのは、彼らがウェリントンに対して抱いていた善意が背景にある(p19)。もちろん英国との関係を悪化させたくないという政治的な理由もあるが、それだけではなくプロイセン側が常に繰り返し主張してきた「大義」も背景にあると考えるべきではなかろうか。
 もしウェリントンの要請を断り、英連合軍を単独で放置するような行動を取れば、それこそ欧州全体の利害に大きなマイナスをもたらす。それまでベルギーだけでなく欧州全体を考えろと主張してきた彼らが、自分たちの利害のみを優先するような行動を取ったのでは、今まで言ってきたことが全部嘘になってしまう。グナイゼナウがそう考えたという証拠は別にないのだが、それまでしつこく自分たちの考えを強調していた彼らがあっさりウェリントンの要請に応じたのは、そうした発想法が背景にあったからかもしれない。
 とはいえグナイゼナウはシャルルロワへの前進によってプロイセン軍が受ける不利についてローに説明している。おそらくアーヘンでウェリントンに会ったときにもその話をしているのではないかというのがde Witの想像だ(p20)。さらにグナイゼナウはこの不利についてどうするつもりか自らウェリントンに問うことはせず、レーダーを通じてウェリントンの考えを質す方法を採用した。レーダーは「戦争における共通の利害」を優先し、ウェリントンとの対立ではなく協力を図った。
 グナイゼナウが国王に手紙を記した8日の時点では、ムーズ左岸でどう戦うつもりなのかウェリントンの考えははっきりしておらず、プロイセン軍はいわばリスクを抱えたままの状態だった(p21)。このあたりは両者が駆け引きをしながら、なおかつ協力体制だけは崩さないよう苦労している様子が窺える。協力しなければ成功できないという基本的な認識を共有していたからこそ、グナイゼナウもウェリントンもこの状態を維持することができたのだろう。
 ウェリントンの兄であるウェレズリー=ポール"https://en.wikipedia.org/wiki/William_Wellesley-Pole,_3rd_Earl_of_Mornington"はカッスルレーに宛てた4月7日付の手紙で、ウェリントンは「彼ら[プロイセン軍]が公に渋々ながら自分の指揮下に入るよりも、彼らに及ぼすコントロールは全体の大義にとってより効果的かつ利益のあるものになるだろうと考えている」(p21)と記している。大義という言葉を使うのは別にプロイセン側の専売特許というわけではなく、英国側でも使われていたのだ。
 協力は強力だ。そのことを連合軍の関係者たちはおそらく心の底から理解していたのだろう。だから彼らは色々懸念や不満を抱えつつも、必要な協力は惜しまずするという原則から決して外れようとはしなかった。彼らが使う大義という言葉は、単なる建前ではなかったことが分かる。

 4月9~15日"https://www.waterloo-campaign.nl/bestanden/files/preambles/blucher_wellington.5.pdf"、プロイセン軍の協力を確保したウェリントンは、次に自軍の強化を図った。まずザクセン兵を自軍に取り込むことを考えたが、こちらは結局のところ達成できなかった。4月10日にはブラウンシュヴァイク軍を編入すべくブラウンシュヴァイク公に手紙を記している。一方で彼はトレンスに対し、使えない幕僚ではなく兵を送れと文句を言っている(p1)。
 4月11日にはウェリントンが正式にオラニエ公から英=ハノーファー軍の指揮権を引き継いだ。同時にフレデリックの指揮下にあるオランダ軍との統合もテーマに上った。統合に際しては軍を大きく2つの軍団にまとめ、第1軍団をオラニエ公が、第2軍団をヒルが指揮する。第1軍団には英=ハノーファー軍の第1及び第3師団と、オランダ軍の第2、第3師団、騎兵師団が所属し、第2軍団には英=ハノーファー軍の第2及び第4師団、第2KGL騎兵旅団、オランダ軍のインド旅団と第1師団が所属する。
 フレデリックは第2軍団に所属するオランダ軍の指揮を担い、現在オランダ軍の司令部を構成している幕僚たち(参謀長のコンスタン=ルベックら)は主にオラニエ公の司令部に引き継がれ、さらに必要な人員は第2軍団のフレデリックの下に所属する(p1-2)。この再編によってベルギーに展開する連合軍は基本的にウェリントンの指揮下に入ることになる。
 9日の時点でオランダ軍はルーヴェンとマーストリヒト間に展開していたが、11日から14日にかけて彼らは南西へと向かった。第1師団はジュナップとモンス間に、第2師団はニヴェル、フルーリュス周辺に、第3師団はソワニーとブレーヌ=ル=コント付近に宿営し、インド旅団はジュナップ周辺に展開し、司令部も14日にはシント=トルイデンからニヴェルに移った。
 ウェリントンの手元に入っている情報によれば、フランス軍は2個軍団(第1と第2)をダンケルクからリールにかけて、第3軍団をメジエールに、2個軍団(第4と第5)を北東国境付近に展開していたという。パリにいる予備を含め、野戦軍の戦力は歩兵6万8000人、騎兵1万8000騎、砲兵1万2000人と見積もられている(p2)。

 グナイゼナウからウェリントンへ問い質す役目を任されたレーダーは4月9日付のローへの手紙で、プロイセン軍が抱いている懸念(敗北時の問題)に触れ、具体的な計画を知らされる前にウェリントンの命令に従って兵を前進させるつもりはあるものの、それは「あらゆるケースにおいてブリュッセル前面の会戦に運命を委ねることに同意したと思われるべきではない」(p3)と釘を刺している。さらに今後はウェリントンとグナイゼナウのコミュニケーションが重要であり、可能な限り早く連絡を取るべきだとも述べている。
 ウェリントンがこのプロイセン側の要請に応じて返答を記したのは10日だ。ウェリントンはまず戦争になればプロイセン側からの支援を期待するだけでなくこちらからも必要に応じて支援をすると表明。続いて5日の手紙で依頼した件(プロイセン軍のシャルルロワへの前進)は政治的配慮もあるが、決して軍事的な問題を政治面のために犠牲にするものではないと説明している。
 続いて自軍の配置を述べたうえで、ウェリントンはウィーンの君主たちが方針を定めるまで主導権は敵にあると指摘。敵がどこから来るかを予測するのは容易でないことを認めたうえで、ありそうな展開としてフランス軍がサンブル河とスヘルデ河の間から出撃する場合に、ツィーテン軍団がシャルルロワに、他のプロイセン軍がナミュールに集結するのが適切だと記している。
 そしてグナイゼナウが懸念している敗北時の対応としては、全軍がリエージュとマーストリヒトへ、そして必要ならユーリヒで退却することを提案し、ナミュールにプロイセン軍が予備として展開していればこの行動は難しくないとしている。そして最後に、ハーディング大佐を連絡将校としてプロイセン軍司令部へ送ることを述べて、手紙を終えている(p3-4)。ここで重要なのは、敗北時に「全軍」toute l'arméeがムーズ河へと退却する方針を示しているところだろう。
 11日にローがグナイゼナウに宛てて記した手紙が、その部分についてさらにきちんと言及している。曰く「もしあなたがムーズ対岸の陣地にとどまっていたなら、彼[ウェリントン]は敗北時にアントワープへ、あるいはおそらくオランダの各要塞へと下がることを余儀なくされていたでしょう。今や彼はマーストリヒトまで、あるいはユーリヒ近くのあなたが選ぶ場所まで、プロイセン軍の動きに追随することが可能になりました」(p4-5)。つまり敗北時に英連合軍がプロイセン軍を見捨てて自分たちだけ北方へ逃げ出すことはしない旨を、ウェリントンはグナイゼナウに伝えたのである。

 以下次回。
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