ワーテルローへの道 5

 承前。さらに5日になるとウェリントンについての細かい言及も出てくる。レーダーはウェリントンが「首都を犠牲にした退却がもたらす士気への影響に計り知れない価値を置いている」(p3)と言及。その1日後にはデュムーランのグナイゼナウへの報告にもウェリントンの名前が出てくるが、デュムーランは交渉役としてはうまく機能していなかったようで、中身も愚痴が多い。
 愚痴が多いのはローも同じだ。彼は4日の手紙でプロイセン軍が相変わらずティールモンにこだわっていることなどを述べたうえで、「[オラニエ]公は彼自身で考えて行動する。彼の父親である国王は彼なりの行動手順を持っている。(中略)そして私はどちらのコミュニケーションについても何も知らない」(p5)とこぼしている。それにしてもセント=ヘレナの獄吏とされている人物が、ここまでくどくどと愚痴を並べるタイプの人物だとは思わなかった。
 ウィーン会議に参加していたウェリントンがベルギーへ向けて出発したのは3月29日だ。彼はまず4月4日にアーヘンでグナイゼナウと会っている。どちらも新たに舞台に登壇してきた役者だが、この会合では早速グナイゼナウがウェリントンに対して「ティールモンあるいはシント=トルイデンで合流して敵を攻撃する」(p6)方針を提示した。プロイセン側がこれまで主張してきたティールモン会戦を引き続き推してきたわけだ。
 同日、彼はシント=トルイデンで新たに司令部を開設したオランダ軍のところを訪れ、フレデリックと彼の参謀長であるコンスタン=ルベックと会った。そして4日夜、ブリュッセルへと到着した。彼はすぐに状況把握に努め、5日の夕方には早くもグナイゼナウへの返答を記している。
 彼は「我々がブリュッセル前面に置いている兵を後退させ、フランス王と王家の人々を追い払い、この地に作られたネーデルランド王と新たな体制を排除することに敵が最大限の重要性を置いているのは疑いない」と状況を分析。「全プロイセン軍は英=オランダ連合軍とブリュッセル前面で合流すべきであり、この視点に従って閣下[グナイゼナウ]の指揮下にある兵たちは遅滞なくムーズに沿って進み、シャルルロワ、ナミュール、ユイ間に宿営すべきである」(p6)との方針を示した。
 ウェリントンは「連合国にとって大いに利害があるこの国を救う」ためにはこの対応が必要だと主張し、それによってプロイセン軍が不利になることはないと述べている(p6-7)。ベルギーを守ることが全体の大義にとっても欠かせないという理屈だろう。6日にこの手紙を受け取ったグナイゼナウは「純粋に軍事的な観点からは正当化できない移動だ」としながらも、ウェリントンへの信頼と忠誠から「可能な限り遠くまで前進するようプロイセン軍に命令を与える」(p7)と返答している。あれだけデッドロック状態にあった両軍の協力方針は、グナイゼナウとウェリントンの登場によってあっさりと達成された。
 この鮮やかな問題解決に感銘を受けたトレンス少将は、バサーストに宛てた手紙の中で「プロイセンの司令官との間で、まるで彼[グナイゼナウ]が実際には自分の指揮下にあるかのような理解を確立した」ことに感嘆している。実際にはグナイゼナウはウェリントンのいうことを何でも聞くわけではなく、この後も色々と彼に注文を付けることになるのだが、それでも目先の大きな問題が一つ解決したのは確かだ。

 とはいえ解決すべき問題は他にも山ほどある。6日にウェリントンがバサーストに宛てた手紙でも、オランダ兵の拙い状態や、彼らと英軍を混合して運用することに対するウィレム1世の反対、戦争に備えて英国内でしなければならない多大な努力が理解されておらず、民兵の招集がなされていないことなど、彼が抱いている多数の不満が述べられている(p8)。彼は守備隊を除き、戦役に備えるためには衛兵とKGLの歩兵4万人、騎兵1万5000騎、大砲150門が必要だと主張し、それをかき集める役割はトレンスに委ねられた。面白いことにこの時点でウェリントンは1万5000人のポルトガル兵を呼び寄せることも求めている(p8-9)。
 一方のグナイゼナウはウェリントンとの了解を得たうえで、その後の対応について4月7日にロー宛に手紙を記した。11日には命じられた場所に兵を配置できるとしたうえで、彼は「この移動は我々にとって敗北時には危険なものとなる」(p9)と指摘。それだけウェリントンの才能を信じているからこその対応であると、いわば英軍に対して恩を売るような言い方をしている。
 8日にプロイセン王に宛てた手紙の中で、グナイゼナウはこの移動を行った理由として、ウェリントン自身が掲げた理由に加えて英国との関係を根拠に上げている。一方で「幸運に恵まれない場合」にナミュール、ユイ、リエージュ、マーストリヒトの渡河点を全て失い、オランダ経由でドイツへと後退しなければならなくなるし、退路にそのような懸念を抱えた状態ではしぶとく戦うことはできないと指摘。ウェリントン公の慎重な性格から彼もこうした懸念には注意しているだろうし、大胆な戦いによって戦争を危険に晒すことはないだろうとの希望的観測を述べてはいるものの、ウェリントンの判断に不安を抱いていることを吐露している(p9-10)。
 この懸念はレーダー経由でウェリントンにも伝えられていた。彼はプロイセン軍がムーズから敢えて離れたくはないものの、ウェリントンのたっての依頼で前進するのだということを強調したうえで、ツィーテンの軍団が11日にはシャルルロワとナミュール間及びローマ街道までの宿営地に前進すると説明。ボアステル軍団は同日にナミュールへ、ティールマンの軍団はリエージュ周辺に集まり、司令部も11日にリエージュへ向かう。そのうえで今後の作戦や敗北時の対応について教えてほしいとしている(p10-11)。

 4月7日、英国政府からウェリントンとの協議のために送り込まれたハロービーとウェリントンが交わした一問一答が記録に残されている。ウェリントンはフランス侵攻について、5月初頭には下ラインにプロイセン軍20万人近く、それより1週間か10日ほど早く上ラインにオーストリア軍約10万人、バイエルン軍3万人、より少数のヴュルテンベルク軍及び他の諸侯軍が、同じ頃に英国、ハノーファー、オランダ及びベルギー軍約6万人が、そして5月10日頃にはロシア軍28万人がライン河畔かその近くに集結できると指摘。ロシア軍の到着まではフランス侵攻は控えておいた方がいいとしている(p11)。
 この時点ではまだ対仏戦役計画は定まっておらず、ウェリントンは基本的な考えとして「プロイセン軍が中央、オーストリア軍が左翼、英軍が右翼、ロシア軍が主に予備を構成する。これはボナパルトが各個に攻撃することをできなくさせるための策だ」(p12)とも述べている。
 フランス侵攻についてはグナイゼナウもアーヘン到着(4月3日)の直後にプロイセン王にアイデアを伝えている。曰く「ベルギーに1軍、ライン中央にもう1軍、上ラインに3つ目の軍、ライン中央軍の背後に大きな予備軍があり、これが最も強力である」というのが基本配置。最初の3軍は隣接する他の軍の状況を気にすることなくパリへ前進し、予備軍がトラブルに遭遇した軍を支援する。
 ナポレオンが3軍の1つを破って追撃しても、残る2軍が彼の背後へと進む。彼がそのどちらかへ向かえば、予備軍がその支援に駆け付ける一方、打ち破られた軍も再編して前進を始める。最初の3軍は互いに接近しすぎないように配慮し、ナポレオンを駆けずり回らせる(p12-13)。
 要するに基本的にはトラッヘンベルクプラン"http://www.asahi-net.or.jp/~uq9h-mzgc/g_armee/trachenberg.html"の継続だ。さらに攻勢に当たる軍の編成も含め、その発想はほぼウェリントンと同じと言える。この連合軍によるフランス侵攻計画は、この後でより具体化し、連合軍各司令官の意識の多くを占めるようになっていく。

 グナイゼナウの舞台への登壇もウェリントンとほぼ同じ時期だった。彼をその場へ引き上げたのはプロイセン王フリードリヒ=ヴィルヘルム3世。国王はクネーゼベックやクライストらと同じ保守的な考えの持ち主だったが、ナポレオン相手の戦争においてはより革新的なグループ、つまりグナイゼナウやボイエン、グロルマン、そしてクラウゼヴィッツといった面々から人材を選んだ方が有効であると判断した。彼はグナイゼナウを参謀長に、司令官としては改革派と近しいブリュッヒャーを選び、クライストはドイツ諸侯軍の司令官へと転属することになった。
 3月15日に国王の決断を知ったグナイゼナウは19日に国王からの命令を受け取った。クライストへの命令も同日に出され、それを受け取ったクライストは29日にグナイゼナウ宛の手紙を書いている(p15)。また19日には後にプロイセン軍に加わることになる第4軍団をフォン=ビューローの下に組織することも正式に命じられている。
 4月2日にグナイゼナウはアーヘンに到着した。クライストは早速、指揮権をブリュッヒャーに(彼の到着まではグナイゼナウに)譲ることを記した命令を発し、兵たちに別れを告げた(p15)。さらに引き継ぎの文章も記しているが、基本的にはミュフリンクらに聞いてくれという内容であまり詳細に現状を説明しているわけではない(p16)。そもそもこうした手続きは形式的な面もあり、実際にはクライストはグナイゼナウ到着後も数日間、彼の承認を前提として司令官としての活動を続けている。この引き継ぎ期間は司令部がリエージュへと移動する4月11日まで続き、その時点でグナイゼナウが最終的に指揮を引き継いだことになる。それから間もなくブリュッヒャーも司令部に到着した。

 以下次回。
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