承前。プロイセン側が強硬に「ティールモン会戦」を主張する間、遅くとも31日までにはウィレム1世がプロイセン軍による「ムーズ渡河とこの河及びニヴェル間の地域を占拠すること」(p8)を認めるのにようやく同意した。31日にはまたオラニエ公がレーダーに対して再びナミュールをプロイセン軍が占拠するよう求め、さらに4月1日には現在ナミュール守備に当たっているオランダ軍が撤収することも決まった。
レーダーとオラニエ公はユイに司令部を置くツィーテンに対してナミュールへ向かうよう手紙を送ったが、ツィーテン自身はこの役目が政治的なものであることを理解しており、1日未明にクライストに対してどう対応すべきか問い合わせる手紙を書いている(p9)。またレーダーはミュフリンクに、オラニエ公はクライストに対しても同じくナミュール関連の情報を伝えている。これによってプロイセン軍との連携場所をニヴェル周辺にしたいというのがオラニエ公の考えだった。
だが31日付でクライストからローに宛てて書かれた手紙は、ニヴェルでの合流を否定し引き続きティールモンでの戦闘を提案するものだった。「親愛なる将軍よ、問題は欧州をいかに救うかであり、1つの都市[ブリュッセル]の問題ではない」(p9)というのがプロイセン側の理屈。クライストが後任となるグナイゼナウに宛てて記した31日付の手紙にもティールモン会戦の覚書が記されており、プロイセン側がなかなか頑固だった様子が窺える。
一方の英連合軍もそう簡単には譲れなかった。英軍にとってはアントワープが重要な退路となっており、プロイセン軍による「ティールモン会戦」案はこの退路を放棄することにつながりかねなかったからだ。ローは4月1日付のミュフリンクへの手紙において「ベルギーは欧州の地図においてはほんの1つの点にすぎないが、そこは常に最初のポーンが指される場所でもある」(p10)と指摘。ベルギーが全欧州の中でも重要な点であると主張することでプロイセン側の理屈に対抗しようとしている。
以後も両軍の基本的なやり取りは変わらない。1日にはレーダーからローに宛てた手紙の中で、再び「ティールモン会戦」の必要性を主張している。彼はまずフランス軍の侵攻の連絡を受けてナミュールのプロイセン軍がニヴェルに到着できるのは早くても4日目であり、だがその数は5000人から6000人にしかならないと指摘。他の部隊はもっと後にならなければ到着できないため、プロイセン軍がブリュッセルとヴァランシエンヌ間の会戦に間に合うことはないと結論付けている(p12)。各個撃破されるよりは全力で襲い掛かるべく数日間後退した方がいいという理屈だ。
少しでも妥協点を見出そうと考えたのだろう、ローは1日付のクライストへの手紙の中で、集結点をニヴェルではなくもう少しプロイセン側に近いジュナップやフルーリュス、さらにはジャンブルーまでずらす案を提示している(p13)。これらの地域ならティールモンに集めるのと同じくらいの兵力を集結させられるというアイデアだ。
プロイセン側も妥協の努力をしていないわけではない。彼らはハルデンベルクの友人であるデュムーランをブリュッセルに送り込んだ。レーダーがプロイセン軍の代表としてブリュッセルにいるのに対し、デュムーランはプロイセン政府を代表する立場にあり、彼とウィレム1世との間で妥協を図ることができるという期待が存在したのだろう。だが実際にはデュムーランとウィレム1世はお互いを苛立たしい相手と認識してしまったようで、むしろ妥協の空気は遠ざかってしまった。ナミュールを通じた両軍の合流はほとんど不可能になっていたのである。
それでもプロイセン軍はナミュールまでは進んだ。4月1日、クライストからナミュールの占拠を許可されたツィーテンはすぐにこの町を押さえ、周辺に部隊を送り出した。
一方、英国側では引き続きオラニエ公のフランス侵攻を抑え込もうとする努力が続けられていた。3月27日、ステュアートからウェリントンに宛てた手紙の中ではウェリントンの到着まで「今の状況」(p14)を続けるよう取り組みがなされていることが書かれている。ウェリントン自身もオラニエ公への手紙(28日付)で「兵を前方遠すぎるところに置かないよう推奨する。必要な時に前進するのは簡単だが、後退するのはとても難しく、不愉快である」(p14)と釘を刺している。
ヒルは4月1日にブリュッセルに到着した。彼はすぐにオラニエ公と話し合い、トゥルネー方面に大きく前進していた英連合軍をアンギャンまで後退させた(p16)。いささか大げさなくらいの警戒ではあったが、英国の政治家たちはどうにかオラニエ公の首に鈴をつけることに成功したようである。
英連合軍、プロイセン軍ともナポレオンを相手にするうえで協力こそが重要である点に異論はなかった。ローがプロイセン軍に譲歩した案を考えたのも、彼の権限を考えた場合に許容範囲であったかどうかは分からないが、成功のためには協力が欠かせないという考えを持っていたからだろう。
だが一方で両者とも譲れない部分を抱えていたことも事実だ。プロイセン軍にとっては本来の担当地域、つまりムーズ河、モーゼル河、ライン河に囲まれた地域から離れすぎることは彼らの任務に悪影響を及ぼす(例えばマインツ方面を攻撃された時に駆け付けられなくなる)という懸念があった。一方の英=ハノーファー軍にとってはブリュッセル放棄は政治的影響が大きすぎ、またアントワープやオランダ国境を守るという目的にも反するものだった。プロイセン軍が協力のために乗り出せる限界の線があり、しかし英連合軍がそれよりもさらに踏み出すことを望む状況下で、事態は手詰まりとなっていた。
膠着状態となっていた両軍の関係に比べ、より変化があったのはオラニエ公のフランス侵攻に対する態度だ。当初はかなり積極的に侵攻策を考えていた彼だったが、英国政府関係者によるあの手この手のロビー活動もあって彼はどんどん防御重視となり、最終的にはフランス国境からより遠いアンギャンへと兵を後退させることにも同意している。
基本的にオラニエ公は同盟国であるプロイセンの「意図」そのものを疑うことはなかった。議論が生じたのは、それを実現する具体的な方法を巡ってである。また自らの政治的立場を優先していたウィレム1世も、時間とともに妥協する姿勢を見せている。少なくともナミュール問題については、プロイセン軍の協力なしに自らの王国を守ることはできない点を了解してプロイセン軍による占拠を認めている。ただし彼の頑固な態度はこの後も消えてなくなったわけではなく、ウェリントンはこの気難しい国王を相手にするのにかなりの苦労をしている。
結局のところ、3月末時点でこの舞台にいた登場人物たちに膠着状態を打開する力はなかった。彼らはその権限も持たなかった。状況を変えるためには英連合軍側にウェリントン、プロイセン側にグナイゼナウという2人の重要人物が登場する必要があった。彼らの登場により、両軍の協力関係がそれ以前よりはスムーズに動くようになる。
興味深いのが、ウィレム1世は「プロイセン人を心の底から憎んでいる」というレーダーの説明だ。だがこれはどこまで本当なのかよくわからない。彼はプロイセン王のフリードリヒ=ヴィルヘルムと義理の兄弟であり(彼の妻はフリードリヒ=ヴィルヘルムの妹)、1806年戦役の際には師団長としてアウエルシュテットで戦っている。過去の経緯を見る限り、1799年のホラント戦役で失敗した英国よりも、プロイセンの方に親しみを感じていてもおかしくないように思われるのだが。
以下次回。
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