彼によれば使える兵力は、歩兵が英軍4000人、レギオン(King German Legion)3600人、ハノーファー軍6800人の計1万4400人と、ベルギー軍3700人、オランダ軍1500人。騎兵はレギオン2400騎、ハノーファー軍700騎の計3100騎、及びベルギー軍1700騎だったという(p2)。後にウェリントンが「評判の悪い軍」infamous armyと呼ぶことになる彼らの中身が寄せ集めであったことがよくわかる。
3月22日、ナポレオンのパリ入城を知ったオラニエ公はクライストへの手紙の中で、リールへと逃げてきたルイ18世に支援を申し出るつもりだと述べている。さらにフランス軍がすぐ攻めてくる可能性にも言及したうえで、リエージュではなくナミュールまでプロイセン軍を進めるよう要請もしている(p2-3)。しかし血気にはやる若者にはすぐ水が浴びせられた。
英国にいるバサースト大臣も、ネーデルランド防衛のためのあらゆる準備を進めることを求める一方で「殿下はどのような状況でもフランスの領地に侵攻してはならず、[フランス王]陛下の政府からさらなる指示と権限を受け取ることなく攻撃的な対応を取ってはならない」(p3)と釘を刺している。とどめは他ならぬルイ18世自身が22日に書いた手紙で、そこには「彼ら[連合軍]がフランスに入らないことを希望し(中略)欧州の安定とフランスの独立を保証することを期待する」(p3)とあった。
一方、ハドソン・ローは引き続きプロイセン軍の支援を求めていた。23日付のミュフリンクへの手紙において彼はデルンベルクの情報に基づいて「3日のうちにリールとヴァランシエンヌ付近に5万人の兵がやってくるのを妨げるものはない」(p3-4)と指摘。改めてナミュールまでプロイセン軍が進出するよう要請している。ただオラニエ公はフランス軍の戦力はそれほど多くないと判断していたようで、可能な限りアトにとどまりつつ、プロイセン軍の接近を待つという方針で臨んでいたという(p5)。
オラニエ公の積極的過ぎる考えについてステュアートはウェリントン宛てに記した25日付の手紙で指摘すると同時に、同じ日付で出したオラニエ公への手紙でも改めて「クライスト将軍指揮下のプロイセン軍と協力して前進しようとする殿下の意図は、軍事的経験から望ましいと思われるベルギー国境内の陣地を占拠するという決断の結果であると考えている」(p5)と述べ、回りくどい言い方ながら国境を越えることがないよう求めている。
同日、編成中だったオランダ軍が3個師団に再編された。第1師団の司令部はナミュールに、第2師団はトンヘレンに、第3師団はルーヴェンに置かれ、さらにインド旅団がハッセルトにも配置された。その他に騎兵が3個旅団あった。彼らはいわばプロイセン軍とブリュッセルの間に展開した格好となる。
同時期、クライストは先に約束した「ユーリヒ周辺への集結」を進めていた。3月18日にツィーテンの第2軍団はリエージュへ向かうよう命じられ、ティールマンのザクセン軍はユーリヒへ行軍を行った。19日付のプロイセン王への手紙でクライストは、ネーデルランドに展開している連合軍の状況や、彼自身が行っている戦力集結について説明した(p6-7)。翌日、ミュフリンクはローに対してプロイセン軍の動向(ツィーテン軍団がリエージュに向かうこと)を伝え、それに対してローは21日付の手紙で必要な情報をツィーテンに伝えることを約束している(p7)。
さらに3月23日、今度はナミュールまで前進してほしいとの要望が届いたのを受け、クライストは兵を以下のように展開させることを決めた。即ち、ツィーテンの第2軍団がナミュール周辺に、その補給部隊はユイに配置する。ボアステルの第3軍団はリエージュ周辺のムーズ右岸に展開。ティールマンの第3ドイツ軍団はアーヘンとルール地域に、ヤーゴウ指揮下のベルク兵はデュッセルドルフ周辺に、シュタインメッツのヴェストファーレン兵はヴェーゼル付近に配置し、ピルヒの第1軍団は現在地にとどまる。司令部は引き続きアーヘンに置く(p7)。
この命令を受け、ツィーテンは23日にローに自軍団の今後の動きを伝える手紙を記した。その中で彼は27日頃にナミュールに集結すると記したうえで「ナミュール市を我が兵で占拠できるかどうか、オラニエ公殿下の返答を待つ」(p7)と記し、また一部の兵がムーズ左岸に宿営することができるよう対応を求めている。
クライスト自身も同日、オラニエ公に対してプロイセン軍の新たな対応を伝えている。その中で彼は、フランス国内にいる王党派が連合軍と協力するという条件をルイ18世が満たさない限り、フランスに入って攻勢を始めることはほぼ不可能だと改めて指摘し、そのうえでナミュールへの前進とそれに対する対応を求めている(p8)。ミュフリンクもローへの手紙の中で「フランスへの攻撃的移動を行わぬよう請う」(p8)と記している。
3月24日、ミュフリンクとクライストは現状分析のため30分ほど話し合った。その内容をミュフリンクはロー宛に記している。彼らはまずルイ18世のリールへの逃亡によって、フランス北方に王党派勢力と連合軍というナポレオンにとって恐るべき存在が集まったと指摘。それによってナポレオンが早いタイミングで北部フランスとネーデルランドに兵力を派遣する可能性が高まったと分析している。
そこでミュフリンクが英連合軍に提案したのが、敵の攻撃を待つことなく後退する作戦だ。トゥルネーとモンスは撤収し、アントワープ、ニューポール、オステンドには守備隊を残す。後退の目的地はティールモン(ティーネン)。彼らの後退に合わせてプロイセン軍はリエージュとナミュールからティールモンへと前進し、ここで両軍が合流する。ナポレオンがここまで追撃してくれば、そこで「大砲200門と1万の騎兵」(p9)とともに敵を攻撃できる。奇襲のためにこの配置を最大限隠蔽するすることが必要だ。もしこの戦闘が4月1日に行われるなら、その時には4万人を集めることができる。4月5日なら5万人、もし4月15日になれば6万人を配置できるだろう、というのが彼の案だ。
上記の「ティールモン会戦」案は、両軍の間で最初に浮上してきた具体的な作戦案といえる。それ以前からオラニエ公のフランス侵攻作戦は存在していたが、具体的な進撃目標などが示されていたわけではない。ここで重要なのは、ティールモン会戦の案はナポレオンのパリ入城という新たな状況を踏まえて、いわば急遽提案された作戦であることだ。実はこの後も両軍の間で話し合われる作戦案は、その時々の状況に合わせて急ぎ作り上げられたものが多い。それだけに話し合いが行われたその時点での状況がどうであったかを理解していないと、話し合いの内容について間違った解釈をしてしまう可能性が高い。
ミュフリンクはさらに、フォン=レーダーを連絡将校としてブリュッセルに送り込むことも伝えている(同日付のクライストからローへの手紙でもこのことに触れられている)。レーダーがブリュッセルに到着したのは25日(p10)。結果的にレーダーはミュフリンク自身が連絡将校の役割を引き継ぐまでおよそ2ヶ月にわたり、ブリュッセルにあって両軍の仲立ちを務めることになる。
以下次回。
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