ワーテルロー戦役といえば1815年6月中旬からの4日間に焦点が当てられることが多く、それ以前については簡単な説明で終わるのが珍しくない。だが実際にはナポレオンがフランスに上陸した3月からベルギーに侵攻する3ヶ月強の期間が存在し、その間に両軍とも戦争に向けた様々な準備をしていた。そのあたりについてde Witは詳細な「前文」"
https://www.waterloo-campaign.nl/preambles/"をまとめている。中でも連合軍側の状況については1週間単位で何があったかについて記しており、詳細な経緯を追えるようになっている。
一連の流れを把握したうえでワーテルローに関する歴史書を読むと、人間がいかに後知恵で解釈しがちであるかが分かる。未来を知らない人間たちの取り組みについて、あたかも未来を知っていて行動していたかのように解釈すれば、そりゃ奇妙な結論も生まれてくる。できるだけ後知恵を排して何があったかを見る必要がある。
ナポレオンのフランス侵攻を知った彼は当初、ネーデルランドの防衛に向けた準備を進めるだけでなく、ナポレオンがフランスの政権を奪うのを妨げるべくフランスへの軍事介入も考えた。彼は父親やフランス王ルイ18世、さらにはウェリントンに対してそのように主張したという。3月13日に書かれたウェリントン宛の手紙で、彼は「もしナポレオンが優勢になり続けるようなら、彼[ルイ18世]を支援する努力をフランスへと進めるべきだ」(p1-2)と主張している。
17日には英国の陸軍・植民地大臣バサーストへの手紙でも、同じ主張を繰り返している。曰く「もし彼[ナポレオン]が我々を攻撃しないのなら、我々が遅滞なく彼に向かって動くべきだ」(p2)。そのために彼は、隣接するプロイセン軍(この時はフォン=クライストが指揮を執っていた)のところに英=ハノーファー軍の主計総監を送り込んでいる。後にセント=ヘレナにおけるナポレオンの監視人として知られるようになるハドソン・ロー"
https://en.wikipedia.org/wiki/Hudson_Lowe"だ。
当時、クライストの司令部はアーヘンにあった。ローは3月13日にそちらへと出発し、15日か16日には戻って来たという。ローが16日にクライストに宛てて書いた手紙の中には「パリへの行軍」(p3)という言葉があり、オラニエ公の進軍に合わせてプロイセン軍も前進するならば倍以上の効果が期待できるとも述べている。
可能な地域では都市の要塞化だけでなく、氾濫も利用した防衛の準備が行われた。実際にいくつかの地域では水を氾濫させ、フランス軍の行動を制限するという方法で侵攻に対処しようとしている。またオーデナールデ及びアフェルヘムでスヘルデに架かる橋を確保しておく策も取られた。後にルイ18世が避難してくるヘント、英軍のいざという時の退路であるアントワープの防衛も強化された(p6)。
当時クライストが指揮をする下ライン軍はモーゼル河、ムーズ河、ライン河に囲まれる地域に展開しており、ピルヒの第1プロイセン軍団がコブレンツ付近に、ツィーテンの第2プロイセン軍団がアーヘンとヴェルヴィエ付近に、ボアステルの第3プロイセン軍団がクレフェルト、クレーフェ、ヴェーゼル周辺に展開していた。その戦力は約3万人で、ケルン周辺にはさらにテイールマン率いるザクセン兵1万4000人(第3ドイツ軍団)がいた。クライストの司令部はアーヘンにあり彼の参謀長は後にウェリントンの司令部に連絡将校として送り出されたフォン=ミュフリンクだった(p7)。
若きオラニエ公がいきなりフランス侵攻というアイデアに熱中していたのに対し、老獪なクライストはずっと慎重な態度を取っていた。ローの訪問を受けたクライストは、フランス兵が三色旗を掲げたとしてもあくまで国境を封鎖するにとどめると返答し、フランスへ攻め込むことに対しては慎重な言い方にとどめている。またオラニエ公がプロイセン軍に対し、連携を取りやすくするためムーズ河へ接近するよう要請したことへの返答(3月18日)においても、クライストはフランス国境へ向けて攻撃的に移動することは自らの権限を超えるものであるとしている(p8)。
ミュフリンクも16日付のローへの手紙において、「フランス人に疑惑を与えることに対しては用心深くあるべきだし、1792年のくり返しは避けなければならない」(p8-9)と指摘。ナポレオンがスイスやマインツ方面に向かう可能性もあり、それに備えるためにはプロイセン軍がムーズ河に接近しすぎるのは拙いと述べている。
面白いのはナポレオンがベルギーよりスイスへ向かう可能性の高さを示すために彼が持ち出している理屈だ。真っ先に紹介しているのがフランスの北部国境に並ぶ要塞群で、これが国境を守っているためにこの方面ではなく別の場所に向かう方が合理的であるという。逆にベルギーに向かう場合、ナポレオンは要塞群のない地域を敵に晒すことになる、とミュフリンクは主張している。18日にはクライスト自身もローへの手紙において、緊急時には協力するとしながらも、理由もなしに侵略者の役を演じるつもりはないと言明している(p9)。
オラニエ公はネーデルランド防衛のためにアトに戦力を集めていたが、その狙いはブリュッセル防衛にあるというのがミュフリンクの解説だ。ブリュッセルを守るためには国境に近いトゥルネーとモンスの強さ、及びアトにいて敵と対峙する軍の能力にかかっているというのが彼の指摘だ(p9-10)。
しかしオラニエ公の楽観的な方針(いざとなればフランスに侵攻する)は、後に述べるように英国政府及びルイ18世から拒絶される。またクライストが彼の方針に便乗しなかったのは上にも述べた通りで、彼はあくまで自分に与えられた持ち場(ムーズ河、モーゼル河、ライン河の間)から大きく動くつもりはなかったようだ。1つには移動することで自軍への補給について保証が得られなくなることがあり、また必要な資金も欠いていたという(p11)。
ナポレオンがベルギーではなくマインツ方面に移動してきたとき、それにすぐ対処できるようにすることもクライストの役目だった。それでもオラニエ公の要請を受けたクライストは3月18日、軍の主力をライン左岸のユーリヒに集め、さらに1個軍団をムーズ右岸のリエージュまで接近させることを決めた。ただしクライストが19日付でプロイセン王に書いた手紙を見る限り、あくまでマインツ方面への移動の柔軟性を失わない範囲での対応だったようだ(p11)。
結局、アトに集まっている英=ハノーファー連合軍と、最も近いところでもリエージュまでしか接近していないプロイセン軍との間には巨大な隙間が空いていたことになる。それ以外にオランダ軍がマーストリヒト及びハッセルトで編成中。もちろんナポレオン自身もこの時点ではまだパリにすら到着しておらず、すぐにこの隙間が問題になる状況ではなかった。それでも両軍の協力関係をどうするかは今後の大きなテーマとなり、一時はこの問題が暗礁に乗り上げる場面も生じることになる。
以下次回。
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