神の誕生

 以前、進化論的な包括適応度の向上と道徳との関係について触れたことがある"https://blogs.yahoo.co.jp/desaixjp/56671690.html"。このエントリーでは道徳という書き方をしてきたが、実際のところそれは宗教とも絡んでいる。そして世の中には、モラルを重視する宗教こそが大規模な社会における協力を担保してきたという説もあるらしい。
 NorenzayanのBig Gods"https://press.princeton.edu/titles/10063.html"という本(2015年出版)がまさにそうしたテーマで書かれたものだそうだ。日本語ではこちら"http://davitrice.hatenadiary.jp/entry/2016/01/16/205622"に内容の要約を翻訳したものが掲載されているので参考になるだろう。全知全能の存在である「大きな神々」への信仰こそ、少人数の集団が大規模な社会へ発展する道を開いた、という説だ。
 狩猟採集社会のように構成メンバーが互いの顔を全部把握しているような社会においては、フリーライダーはすぐに発見され罰せられる。だが社会が大きくなり匿名性が高まると、そうした顔見知りを前提とした4枚カードのような方法でフリーライドを防ぐことは困難だ。そこで代わりの役目を果たすのが大きな神々。彼らは「知り合いの目」の代わりとして人々を見張り、人々に道徳的なふるまいを強いる。大きな神々こそが匿名性の高い巨大な社会からフリーライダーを排除するシステムになっているわけだ。
 要約紹介ページを見ても「見張られている人は善人である」「地獄は天国を上回る」「神を信じる人を信じる」など、神が知り合いの代わりとなってフリーライダーを罰する機能を果たしていることを示す原則が示されている。かくして大きな神のいる集団は内部で緊密な協力関係を構築し、外部との競争で優位に立つ。そして最終的に地球上に存在する大きな社会は軒並み「大きな神々」を崇拝する社会ばかりになる、そのような進化のメカニズムが働くという理屈のようだ。

 英語ではBig God Theoryと呼ばれるこの主張はなかなか興味深いものだが、この見解が必ずしも定説となっているわけではない。社会的な協力関係と宗教とが相互に密接に関係してきたことは特に否定されてはいないようだが、問題になるのは「大きな神を崇拝する集団が大きな社会になる」という因果関係の部分だ。少なくとも歴史的な事例を見る限り、一方にはこの説と辻褄の合う研究結果がある"https://royalsocietypublishing.org/doi/full/10.1098/rspb.2014.2556"が、他方でむしろ因果関係が逆であることを示すような研究もある"https://www.ncbi.nlm.nih.gov/pubmed/25496963"。
 そこで登場してきたのが、Peter TurchinもかかわっているSeshat"http://seshatdatabank.info/"だ。彼らが築き上げたデータバンクには社会の複雑性に関するデータだけでなく、宗教や儀式といったものに関する定量的なデータも多く含まれている。それを使えば、人々にモラルの高い行動を強いる神々の存在と、巨大な社会の成立との間に存在する時系列的な関係が分かる、というわけだ。そしてその結果が、このほどNatureに掲載された"https://rdcu.be/brZ1Q"。
 結論はBig God Theoryを否定するものだった。歴史上の様々な時代や地域において、複雑な社会の方が道徳を強いる神々よりも先行して登場したという。それどころか「大きな神々」は、人口で約100万人に達するほどの大きな社会が出来上がった直後に生まれるケースが大半だったという。因果関係でいうのなら、複雑な社会こそが大きな神々を作り出したということになる。
 分かりやすいのはこちらのツイート"https://twitter.com/PatrickESavage/status/1108430660006342656"で紹介されている2つの図だろう。最初のものはSeshatがデータを集めている世界30の地域で、いつごろ「大きな神々」が登場してきたかを示したものだ。欧米などの植民地になって初めてそうした神々が押し付けられた地域を除き、世界の各地で様々なタイプの「大きな神々」が登場してきたことが分かる。
 もっと重要なのは次のグラフだ。こちらは複数の社会において、道徳を強いる神の登場前後に社会の複雑さがどのように変化したかが示されている。見ればはっきりと分かる通り、社会の複雑さが一気に増したのは、道徳を強いる神が登場した後ではなく前だ。つまり神々の存在が大きく複雑な社会を生み出す前提条件になったのではなく、むしろ大きく複雑な社会の誕生こそが神々を作り出す原動力になったと考えられるのだ。
 一例となるのがアショーカ王"https://en.wikipedia.org/wiki/Ashoka"だという。彼はカリンガ王国を支配し、広大な王国を築き上げた後になって、仏教へ帰依した。複数のエスニシティを含む複雑な政治体が出来上がった後になって、その複雑な社会を安定させるための道具として宗教が引っ張り出された、という格好だろう。先に複雑で大きな社会があり、後から神々がやって来たという点については、Walter Scheidelも同意している"https://twitter.com/WalterScheidel/status/1108552143844376577"。
 むしろSeshatのデータを使って見えてきたのは、社会の複雑さが増す前に多くの社会で宗教的な儀式の導入が行われていた点だろう。これが何を意味するかについて、論文では「社会の複雑さが最初に増加する点については、誰を崇拝するかではなく、どのように崇拝するかこそが究極的により重要」だと記している。神が誰であり、その教えがどんなものであるかよりも、神を崇める儀式において何を行うかの方が実は重要なわけだ。
 実際、儀式の内容は時に宗教戦争すら引き起こすほどの騒ぎになる"https://twitter.com/kouichi_ohnishi/status/931080776719802368"。どうやら社会をスムーズに動かすためには、まず形から入る必要があるらしい。格式ばった儀式に何の意味があるのかと思う現代人は多いだろうが、意味はある。動物であるホモ・サピエンスにとって、皆と一緒に約束事に従って体を動かすことは、一体感を生み出すうえで大切な行為なのかもしれない。

 ちなみにこの論文筆者のうち1人"https://twitter.com/PatrickESavage"は慶応大に務めている人物で、音楽や進化といった様々な分野の研究に取り組んでいるらしい。彼は今回の研究についてこちら"https://natureecoevocommunity.nature.com/users/233752-patrick-savage/posts/44985-cooperation-and-resilience-from-music-to-religion"にエントリーを上げているのだが、そこでは自身のキャリアについても触れている。
 興味深いのが大学時代に一緒に過ごしたアカペラグループとの友情についての言及だ。儀式や踊り、あるいは軍による歩調を合わせた行進など、大勢と一緒に体を動かすことが人間関係の緊密化に役立つことを、どうやらこの研究者は自身の体験から理解しているらしい。彼は日本の伝統的な音楽について学ぶために訪日し、陸前高田市の盆について研究をしていたそうだ。東日本大震災で大きな被害を受けたこの地が復興へ向かう過程で、儀式や音楽が果たした役割をリアルタイムで見てきたのだろう。
 そうした経歴を持つ人物がSeshatの今回の調査に関与したわけで、社会が複雑化する過程で儀式が果たした役割の重要性を窺わせる結果が出たことは、おそらく我が意を得たりといったところだろう。本人自身も「協力を容易にするうえで音楽と踊りが果たした役割に関する持論」を持っているそうで、今回の研究結果はその持論にとってもプラスになるかもしれない。
 もう一つ、教義ではなく形式が重要なのだとしたら、現在世界中で進んでいる無神論の増加傾向が長い目で見て「協力の破壊」につながるとは限らない、と主張することもできそうに思う。神が不在でも共有できる儀式的な体験があればいいのなら、それこそこの筆者が書いているように「芸術教育とコミュニティーの祭」に投資することで、世界がよりよくなる可能性だってある。
 つまり今こそ火の民の大いなるマツリ、「ヤマタイカ」の復活が望まれているのであり(文章はここで途切れている)
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