ローマ帝国崩壊後、中世初期においては堤防作りの動きが鈍ったが、8世紀頃からは再び人口が増え、堤防の建造も再び加速した。一方で上でも書いたように海面上昇や洪水の発生もあり、トータルでは土地を削り取られていったのは間違いない。それでも堤防をきちんと構築していた地域の中には水に囲まれながらも生き残った土地があったようだ。その一例が現在の北ホラント州にある西フリースラント地方"
https://en.wikipedia.org/wiki/West_Friesland_(region)"である。
最終的にオランダの干拓事業が終結したのは1986年である。20世紀のゾイデル海開発"
https://en.wikipedia.org/wiki/Zuiderzee_Works"では湾口に堤防を築くことでゾイデル海を淡水のアイセル湖へと変えてしまい、さらにその中を次々と干拓した(新しい州ができるほどの土地が増えた)。現代のオランダ地図は、だからほんの100年ほど前と比べても大きく異なっている。そしてこの事実は、歴史について調べる時に面倒を引き起こす。
英ロシア連合軍はこの現北ホラント州の北端近くに上陸し、それから南へ向けて次第に進出していく形で戦域を広げた。半島部の突端から根本へ向かって進んだわけで、普通に考えれば半島を横断するように戦線を敷き、その戦線を南へ押し下げるように前進したと思える。だが当時の半島は今とは形状が違っていた。だから連合軍が「海から海まで」戦線を敷いたと書かれていても、現在の地図では陸地の途中で戦線が切れていたかのように見えてしまう。
ナポレオンの時代と現代とでは、河川の流れが変わっているとか、森が消滅しているとか、村落名が違っているといった変化は珍しくない。だがさすがに海岸線がここまで大きく変化しているのはそうそう見かけない事例だ。歴史について調べる前にまず地理について調べなければ、この戦役についてきちんと理解するのは難しい。
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