神から奪い返した地

 「世界は神が作ったがオランダはオランダ人が作った」という言葉はよく聞く。国土の20%以上が干拓地になっている"https://www.y-history.net/appendix/wh0603_1-004.html"ことがこの言葉の背景にあるのだが、オランダの歴史を見るとむしろ「神が奪った土地をオランダ人が取り戻した」と言った方が実情に合っているような気もする。
 こちら"https://en.wikipedia.org/wiki/History_of_the_Netherlands"に載っている紀元前5500年から紀元50年までの地図を見ると、アイセル湖のある場所のみならず、西フリースラント諸島とオランダの間にあるワッデン海までもが実は陸地であったことが分かる。紀元前500年頃からアイセル湖のある付近にフレヴォ湖"https://en.wikipedia.org/wiki/Lake_Flevo"が生まれ、それが次第に拡大してきたことは見て取れるが、とにかくオランダの陸地が決して狭くはなかったのは確かだろう。
 だが柔らかい泥炭で形成されていたこれらの土地は、次第に水の浸食を受けるようになった。また中世期の温暖な気候によって海面が上昇したのも、海抜の低いこの地域にとっては深刻な影響をもたらした。中世の中頃から増えていた洪水"https://en.wikipedia.org/wiki/Floods_in_the_Netherlands"はいよいよ人間から土地を奪い、1170年の万聖節の洪水"https://en.wikipedia.org/wiki/All_Saints%27_Flood_(1170)"によって北海とフレヴォ湖がつながってゾイデル海が生まれた。
 水によって奪われた土地がどれだけ多かったかはこちら"https://brilliantmaps.com/netherlands-land-reclamation/"に載っている1300年頃の地図を見てもよくわかるだろう。北西部からゾイデル海までごっそりえぐり取られているほか、スヘルデ、ムーズ、ラインという多くの大河が流れ込んで三角州となっている地域は名前の通りゼーラント(海の国)と化している。
 度重なる洪水災害は多くの被害を出したようだ。1287年の聖ルチア祭の洪水"https://en.wikipedia.org/wiki/St._Lucia%27s_flood"では5万人から8万人の、1421年の聖エリーザベト洪水"https://en.wikipedia.org/wiki/St._Elizabeth%27s_flood_(1421)"では2000人から1万人の被害が出たという。洪水で失われた村や町のリスト"https://en.wikipedia.org/wiki/List_of_settlements_lost_to_floods_in_the_Netherlands"もかなりの量にのぼる。 
 だがオランダ人もやられっぱなしだったわけではなさそうだ。こちら"https://www.scisnack.com/2015/02/03/flood-management-below-sea-level-strategies-from-the-netherlands/"を見るとオランダのかなりの地域が海抜ゼロメートル地帯であることがわかるし、現代のオランダはもし堤防がなければこのような"https://commons.wikimedia.org/wiki/File:The_Netherlands_compared_to_sealevel.png"状態になる。時代が違うとはいえ、上に紹介した1300年頃の地図と比べてもかなり海の浸食度合いが大きい。
 容赦なく土地を奪う水狼"https://en.wikipedia.org/wiki/Waterwolf"を相手に、オランダ人は古代から対策を立ててきた。堤防以外にも人工的に作った丘の上に家屋を設けるTerp"https://en.wikipedia.org/wiki/Terp"などを建造。こちら"http://dutchdikes.net/history/"ではその歴史を色々と紹介しているが、古くは鉄器時代から堤防を設置してきたことがわかっている。
 ローマ帝国崩壊後、中世初期においては堤防作りの動きが鈍ったが、8世紀頃からは再び人口が増え、堤防の建造も再び加速した。一方で上でも書いたように海面上昇や洪水の発生もあり、トータルでは土地を削り取られていったのは間違いない。それでも堤防をきちんと構築していた地域の中には水に囲まれながらも生き残った土地があったようだ。その一例が現在の北ホラント州にある西フリースラント地方"https://en.wikipedia.org/wiki/West_Friesland_(region)"である。
 元々この地は名前の通りフリースラントの一角であった。北海沿いの沿岸部に存在したフリースラント王国"https://en.wikipedia.org/wiki/Frisian_Kingdom"にはフリース人が居住しており、フランク王国に敗れるまで独立した国として存在していたという。その後もフリースラントという名は残っていたが、やがて海進によってその西部がフリースラントから切り離されていった。現在、オランダのフリースラント州"https://en.wikipedia.org/wiki/Friesland"はアイセル湖を挟んだ東側に存在している。
 切り離された土地のうち「西フリースラント円堤」"https://en.wikipedia.org/wiki/Westfriese_Omringdijk"と呼ばれる堤防で囲まれた地域があった。この堤防は1250年頃に完成し、おかげで聖ルチア祭の洪水の際にもそれに囲まれた場所は島として生き延びることができたという。全長126キロという長大な堤防は、今では観光地のような扱いをなされている"https://leidraadlc.noord-holland.nl/structuren/westfriese-omringdijk/"。
 やがて今度は水に対するオランダ人の逆襲が始まる。北ホラント州では16世紀頃から干拓事業が広まり"https://nl.wikipedia.org/wiki/Lijst_van_inpolderingen_Noord-Holland"、その過程で西フリースラント内に残っていた湖や、さらにSchermer、Beemster、Purmerなどといった内陸部にまで食い込んでいた水"http://www.omringdijk.nl/historische-kaart-2/"が次々と干拓され、陸地へと変わっていった。さらにはゾイデル海に広がる浅瀬も陸地に変えられ、20世紀には北ホラント州の地形は大きく変わった。
 最終的にオランダの干拓事業が終結したのは1986年である。20世紀のゾイデル海開発"https://en.wikipedia.org/wiki/Zuiderzee_Works"では湾口に堤防を築くことでゾイデル海を淡水のアイセル湖へと変えてしまい、さらにその中を次々と干拓した(新しい州ができるほどの土地が増えた)。現代のオランダ地図は、だからほんの100年ほど前と比べても大きく異なっている。そしてこの事実は、歴史について調べる時に面倒を引き起こす。

 ここまで長々とオランダ、中でも北ホラント州の地勢について述べてきたのは、1799年に北ホラント州で行われた第2次対仏大同盟戦争中の戦闘について触れるためだ。英ロシア連合軍がフランス=バタヴィア軍と交戦し、ベルヘンの戦いやカストリクムの戦いなどを経て最終的にオランダからの撤収を迫られたこの戦役"https://en.wikipedia.org/wiki/Anglo-Russian_invasion_of_Holland"だが、実は現在の地図と照らし合わせながらその経緯を調べてもよく理解できない。
 当時は海の中だったところが現在は陸地になっていることがその背景にある。こちら"https://commons.wikimedia.org/wiki/File:2016-P07-Noord-Holland.jpg"が現代の北ホラント州の地図なのだが、例えばwikipediaで1799年戦役の地図"https://commons.wikimedia.org/wiki/File:1799_Anglo-Russian_invasion_of_Holland_map-fr.svg"を見るとかなり違うことがわかる(ちなみにこの地図も実際の地形とは微妙に違っている)。
 実際の1799年時点での地図は、17世紀の地図になるがこちら"https://www.geheugenvannederland.nl/nl/geheugen/view?coll=ngvn&identifier=KONB01%3A231"やこちら"https://mapy.mzk.cz/mzk03/001/048/112/2619269716/"が実態と近い。あるいは1825年製作のこちら"http://objects.library.uu.nl/reader/index.php?obj=1874-274246"の地図が、簡略すぎる感はあるが一応は参考になるだろう。
 現代の地図と比べた大きな違いは、西フリースラントより北方の干拓地の大半が、1799年時点ではまだ海だった点にある。こちら"https://qph.fs.quoracdn.net/main-qimg-b45053e5f5b6645f3fa1f53c722d07c3-c"を見ればどの部分が海だったかが分かると思うが、見ての通り大半は19世紀以降に陸地となっている。つまり1799年時点ではまだ海だった地域が多い。
 英ロシア連合軍はこの現北ホラント州の北端近くに上陸し、それから南へ向けて次第に進出していく形で戦域を広げた。半島部の突端から根本へ向かって進んだわけで、普通に考えれば半島を横断するように戦線を敷き、その戦線を南へ押し下げるように前進したと思える。だが当時の半島は今とは形状が違っていた。だから連合軍が「海から海まで」戦線を敷いたと書かれていても、現在の地図では陸地の途中で戦線が切れていたかのように見えてしまう。
 ナポレオンの時代と現代とでは、河川の流れが変わっているとか、森が消滅しているとか、村落名が違っているといった変化は珍しくない。だがさすがに海岸線がここまで大きく変化しているのはそうそう見かけない事例だ。歴史について調べる前にまず地理について調べなければ、この戦役についてきちんと理解するのは難しい。
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