1815年6月16日 その2

 前回「入手しにくい」と書いたHoussayeの本だが、私は英訳本を入手済み。ただし時間はかかった。最近はBernard Coppens"http://www.1789-1815.com/"のようにHoussayeに対して批判的な意見の持ち主も目立つし、UffindellもHoussayeについて毀誉褒貶相半ばする評価をしている。確かにHoussayeの歴史書には危うい部分があるのは確か。しかし、一方で鋭い指摘もある。一読の価値があるのは確かだろう。
 そのHoussayeはデルロン軍団へ送られた伝令の正体をフォルバン=ジャンソンだとしている。どのような根拠に基づくのか、他の意見はないのか。その辺りについてはHoussayeの方がUffindellよりも詳しい。まずはこの伝令の正体について、各一次史料がどう触れているかを調べてみよう。Houssayeは以下のようにまとめている。

「ガモーとエイメはこの士官はローラン大佐だと言っている。ド=サールは親衛隊の軍曹としている。デルロン(最初の記録)はラ=ベドワイエール将軍(中略)。二番目の記録は帝国司令部の士官。
 この点に関して詳細で緻密なボーデュの記録によれば、それは疑いなくフォルバン=ジャンソンである」
Houssaye "Napoleon and the Campaign of 1815" p365

 伝令の固有名詞に触れているのはガモーとエイメ(ローラン)、デルロン(ラ=ベドワイエール)、ボーデュ(フォルバン=ジャンソン)らがいる。その中でHoussayeはボーデュが最も信頼性が高いと判断している。ラ=ベドワイエールに関してはUffindellの本を紹介した時にも述べたように、デルロンが別のタイミングで出会った彼を勘違いした可能性がある。ではガモーとエイメが記した「ローラン説」を否定する理由は何だろうか。
 ガモーは1819年に出版した"Refutation en ce qui concerne le marechal Ney"の16ページに「[ネイ]元帥は既に、鉛筆書きの命令を運んできたローラン大佐を通じて、最早デルロンに頼れないことを知っていた」、同19ページに「皇帝が積極的に伝えた命令に従いデルロン伯は移動を行った。私はこの命令を運んできたのがローラン大佐である証拠を持っている」と記している(Houssaye "Napoleon and the Campaign of 1815" p363)。
 一方のエイメは1829年出版の"Relation de la Campagne de 1815"の14ページで「帝国司令部から派遣された伝令のローラン大佐が訪れ、彼がデルロンに伝達した皇帝からの命令を遂行するため第1軍団がサン=タマンの方角へ進んでいることをネイに知らせた」(Houssaye "Napoleon and the Campaign of 1815" p364)と書いている。この両者はいずれもネイに関係ある人物(ガモーはネイの義弟、エイメはネイの副官)であり、彼らの主張はもしかしたらネイの認識と一致しているかもしれない。
 この両者に対しHoussayeは「大変混乱しているガモーと、いつも不正確なエイメを信頼することはできない」(p366)と記している。そういうHoussaye自身もエイメの記録からかなり不正確な引用をしていたりするのだが、とにかくHoussayeはこの両名を信用しないことにしたらしい。ただ、ローラン大佐が鉛筆書き命令書の「写し」を持ってきた可能性については否定していない。ガモーとエイメがネイと一緒に行動していたのだとしたら、写しを持ってきたローランがデルロン軍団の進行方向を変えた当事者だと思い込んだとしても不思議はない。
 ではHoussayeから「詳細で緻密」と評価を受けたボーデュはこの件に関してどのような文章を記しているのだろうか。ボーデュの記した"Etudes sur Napoleon"は手元にないのだが、Houssayeが引用した部分があるのでそれを見てみよう。

「(前略)フォルバン=ジャンソン大佐は、第1軍団をプロイセン軍の右翼後方へ行軍させる命令を運ぶという、重要な任務を受けた。(中略)戦闘が全戦線で猛威を振るっていた時、皇帝はスールト元帥に対し、デルロン伯に関する命令の写しをネイ元帥に運ぶため、経験のある士官を求めた。参謀長は私を呼び、皇帝は私に言った。『私はデルロン伯に対し、プロイセン軍の右翼後方へ全軍団と伴に前進するよう命令を送った。ネイは既にこの命令を間違いなく受け取っているだろうが、そなたはこの命令の写しを彼の下へ運ぶように。彼自身の状況がどうであれ、この命令を実行することが極めて緊要だと彼に告げよ。私はプロイセン軍と決着をつけようとしているのだから、彼のいる方角で今日何が起きようとさして重要ではない。全ての関心は私のいる場所に集中しているのだ。もしそれ以上できないのであれば、彼はイギリス軍を牽制するだけで満足すべきである』」
Houssaye "Napoleon and the Campaign of 1815" p353

 もしHoussayeが伝令に関する部分をそれぞれの史料からきちんと(過不足なく)引用しているのであれば、確かにボーデュの記録は最も詳細かつ緻密である。と言ってもその詳細さの大半はナポレオンの台詞を長々と引用したことに由来しており、それ以上のものではない。なぜフォルバン=ジャンソンが選ばれたのか、彼はいつ出発したのか、ネイへ命令書を手渡したのか否か、そしてUffindellが書いているように後に司令部へ戻ってきたとしたらそれはいつなのか。そうした疑問に対する答えはここにはない。
 伝令に送り出された後のフォルバン=ジャンソンについては、実はボーデュ以外の記録に登場する。ジェローム・ボナパルト副官であるブールドン=ド=ヴァトリの残した記録だ。キャトル=ブラの戦いが終わった後の出来事について、彼は以下のように記している。

「我々がつましい食事を始めようとしたちょうどその時、フォルバン=ジャンソン伯がネイにブリーへの行軍を命じた皇帝の命令書を持ってきた」
Antony Brett-James "The Hundred Days" p65

 この命令書は午後3時15分のもの。前回紹介したUffindellの本でも夜になってフォルバン=ジャンソンがネイの下にたどり着いたと指摘していたが、それはこの史料が論拠になっているのだ。問題になっている命令書(鉛筆書き)とは異なるが、その命令書が出されたタイミングでフォルバン=ジャンソンが伝令をしていたことは間違いなさそうだし、何らかの理由でネイの下への到着が大幅に遅れたこともまた事実だ。
 Houssayeによればフォルバン=ジャンソンは1814年に至る迄、「いくつかの取るに足らない小規模戦闘」(Houssaye "Napoleon and the Campaign of 1815" p118)を除けばほとんど戦闘に参加したことがない人物だった。そういう経験不足の人物に重要な報告を任せたのが皇帝の失敗だったとHoussayeは結論づけている。逆に言えば、ここでも1815年の大陸軍における人材不足という問題点が露呈したと言えるかもしれない。

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コメント

No title

シェヘラザード
6月16日のデルロンの一件については、かねてから疑問に思っていました。手元にあるEdith SaundersのThe Hundred Daysでは、ナポレオンはデルロンに方向転換する命令は出していないという立場をとっています。でもde Chaboulonによると「ナポレオンはデルロンに命令を出した」と書いてあるのですね。de ChaboulonはGallicaに入っているようなので、今、確認中なのですが、重い! 該当箇所がわかったら、ブログにでもアップします。

No title

シェヘラザード
書き忘れました。ネイの義兄ガモーは当時、ヨンヌの県知事だったと思います。ワーテルローには同行していませんから、ローラン大佐のことはエイメから聞いたのかもしれません。

No title

desaixjp
ナポレオンがデルロンに命令を出した証拠を、Houssayeは11個も上げています。ただ、ナポレオン自身はセント=ヘレナで命令は出していないと主張しているとか。後にリニーに接近してきたデルロンを敵と見まちがえる失敗を犯した皇帝が、それを糊塗するため「そんな命令は出していない」と言い出したのではないか、とHoussayeは推測しています。

No title

desaixjp
そうですか、ガモーは現場にいなかったんですか。では彼の記録は一次史料ではないということで、以後は考慮の対象から外した方がよさそうですね。
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