トーマス・グレアム

 Thomas Grahamの書いた"A Contemporary Account of the 1796 Campaign in Germany and Italy"を読んでいる。カール大公、ジュールダンに次いで1796年のドイツ戦役を記したものはこれが3冊目であるが、前2者の本が出版時期が遅いとはいえ当事者の書いたものであるのに対し、グレアムの本は正確に言えば二次史料である。
 グレアム自身はこの時、英国からの派遣将校としてイタリア戦線にいた。彼はボナパルト相手の戦争を見ていたのであって、ジュールダンとモロー相手の戦争に同行していた訳ではない。だが、一方でグレアムの本は出版時期がおそらく最も早い(初版は1797年出版、私が読んでいるのは1800年出版のものの英訳本)。彼が連合軍側の資料にアクセスしやすい地位にあったことを考えるなら、参考になる本だと言える。
 面白いのは後の歴史家が指摘するような話がグレアムの本の中で既に紹介されている点だ。たとえばPaddy Griffithの説。彼はフランス革命政府が相次ぐ戦争を繰り広げた理由について、大量動員によって成り立った軍隊そのものが戦争を欲したと指摘している。軍隊が存在し続けるには戦争を起こして戦場を拡大し、その拡大した戦場で現地調達をして自らを養うしかなかった、という訳だ。
 そして実は、まだフランス革命戦争が継続していた時点で、Griffithと同じ事をグレアムが早くも言及している。

「そのため、目的達成にどれほどの代償を払おうとも、フランス軍は必需品、馬、衣類、そして何より金を探すため他の国へと前進することが絶対に必要だった。この見方は総裁政府が将軍たちに発した命令の中で明白に述べられている。彼らは自分の兵を勝利によって養わなければならない、と」

 グレアムの発言を見る限り、革命政府が戦争を拡大する要因について同時代人はGriffithと同じ認識を持っていたようだ。となると戦争を終わらせるためには大量動員自体をやめさせるしかなくなる。革命体制にそれが可能かどうかが戦争と平和の分かれ目だったのだろうが、そもそも体制成立時に軍の力を借りた総裁政府と、その後の執政政府、帝政には無理だったようだ。

 もう一つ、グレアムが指摘していることに、1796年にフランス軍が採用した作戦が2年前に行われていたものと同じだ、ということがある。

「この作戦は、兵力の大きな優勢があって初めて可能なものだが、各戦役において敵の中央を迂回してそこを放棄するか包囲される事態に追い込むため敵の両翼にあらゆる努力を集中するというものだ。
 1794年にフランス軍はその兵力の大半をサンブルと西フランドルに集め、連合軍を強力な中央から引き上げさせ弱体な両翼へ引き寄せた。同様に1796年、ドイツに侵入するに当たり彼らはマンハイムやマインツを正面から攻撃しようとはせずに、そこから遠く離れた場所でライン河を渡った。そうすることで彼らの時間と労力を要塞包囲に使う代わりにスワビアとウェストファリアに素早く前進した」

 この話は、後にPhippsが「カルノー好みの作戦」として紹介することになる。ただ、Phippsが単にカルノーの嗜好を述べただけなのに比べるとグレアムの説明の方が説得力がある。正面にある強力な要塞群(1794年ならヴァレンシエンヌ、コンデ、ランドレシー、ケノワ。1796年ならエーレンブライトシュタイン、マインツ、マンハイム、フィリップスブルク)は無視して両翼を攻撃し、そのまま深々と前進して要塞群は孤立させる。理屈は成り立つ。
 要するに後の時代の研究者も、そんなに独創性のある説を思いつくものではないということだ。これは歴史研究のあり方としては地味だが堅実なものと言えるだろう。ある時代に起きたことに関しては同時代人の見方を尊重する。その時代の空気を吸ったことのない人間(歴史家)のスタンスとしては悪くない。
 逆に「独創的」と主張するような説を唱える歴史家に対しては注意を払っておいた方がよさそうだ。きちんと裏付けがあるなら同時代の見解と異なる説を唱えるのも結構だが、単に突拍子もない思いつきだったりする可能性も高いからだ。個人的に通説に異論を唱えるものは大好きなのだが、その妥当性を判断するうえでは慎重であった方がいいのだろう。

 おまけ。グレアムは1796年戦役におけるカール大公の成功について、彼を支える二人の人物がいたとしている。一人はベレガルデ将軍。サヴォイ生まれの彼についてグレアムは「皇帝の信頼を絶えず受けており、いつの日にか一軍を率いる身になるだろう」と指摘している。実際、彼は1814年にイタリア方面軍を指揮した。
 もう一人は、Dave Hollinsも書いていたが参謀大佐シュミットである。Hollinsに言わせればこの時期のオーストリア軍参謀の中で最も有能だった彼は1805年にデュレンシュタインの戦いで戦死することになる。同時代の連合軍メンバーがこれだけの評価を与えているのだから、Hollinsの指摘もそうおかしくはないのだろう。もっとも、グレアムもマックに対する評価は間違えていたようだが。

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