まだ詳しく書いていなかったと思うが、Andrew Uffindellが"The Eagle's Last Triumph"で、1815年6月16日にデルロンに対する命令を運んだ伝令の正体について色々と記している。Uffindellによれば、デルロン軍団に混乱を引き起こしたこの伝令はフォルバン=ジャンソン大佐だということになる。
まず3時15分、スールトが記したネイへの命令書を持ち運ぶ人物としてフォルバン=ジャンソンが選ばれた。だが実際に彼が出発する前に、ナポレオンはデルロンに対して直接リニーの戦場へ向かうよう命じた鉛筆書きの命令をフォルバン=ジャンソンに委ねた。フォルバン=ジャンソンはまずこの鉛筆書き命令書をデルロンに渡し、その後でネイのところへ向かって3時15分の命令書を渡すと同時にデルロンに対して直接命令が出されたことを伝える。以上のように命じられ、フォルバン=ジャンソンはナポレオンの司令部があったフルーリュスから出発した。
3時30分、今度はローラン大佐が同じ3時15分の命令書と、デルロンに対する直接命令に関する伝言を委ねられ、フルーリュスを発った。確実を期すための対応だろう。一方、先行するフォルバン=ジャンソンは4時15分にフラーヌ南方にいた第1軍団に到達し、その進軍方向をリニーへと変更した。さらにフラーヌへ進んだ彼は、そこでルフェーブル=ドヌーエットと伴にいたデルロンに出会い、鉛筆書きの命令書を示した。
鉛筆書きの命令書は残っていないが、Henry Houssayeがその文章を再現しているという。
「デルロン伯殿、敵[ブリュッヒャー]は私が用意した罠に頭から飛び込んできた。すぐに全部隊を率いてサン=タマンの高地へ向かいリニーを攻撃せよ。デルロン伯殿、貴公はフランスを救い、栄光を得るであろう。
ナポレオン」
Uffindell "The Eagle's Last Triumph" p154
問題はこの後。フォルバン=ジャンソンはこの命令書をデルロンに手渡した後でフルーリュスへ戻ってしまったのである。3時15分の命令書をネイに渡し、デルロン軍団の行動について知らせるという役目を完全に忘れてしまったのだ(Uffindellによると)。
ネイに話が伝わったのは午後5時。デルロンが送り出した第1軍団の参謀長デルカンブルから教えられ、初めて第1軍団がリニーへ向かったことを知った。自分を無視したこの行動に激怒したネイは第1軍団にキャトル=ブラへ引き返すよう命じる。3時30分にフルーリュスを出たローラン大佐がネイの下にたどり着いたのはこの後の5時30分。フォルバン=ジャンソンがきちんとネイの下に行って事情を説明していれば、生じなかったであろう混乱がここで起きた。
フォルバン=ジャンソンはネイへの命令を渡さないままフルーリュスへ午後5時頃に帰還。ナポレオンは任務を果たせなかったこの士官に対して怒りを示し、より信頼できるボーデュ大佐に鉛筆書き命令書の複写を渡してネイの下に向かわせた。ボーデュは午後7時頃にネイのところへたどり着き、事情を説明して第1軍団を引き返させないよう要望したが、既に時は遅かった。
最後に、フォルバン=ジャンソンは再びフルーリュスを出てネイのところへ向かった。出発時間は午後5時から7時の間。彼がネイのところにたどり着いたのは午後9時。既にキャトル=ブラの戦いが終わった後、デルロン軍団が終日遊軍と化した後になって、ようやく彼は午後3時15分の命令書をネイに手渡した。
以上がUffindellの描き出した一連の経緯である。まず特徴的なのは、現在広く受け入れられている「ラ=ベドワイエールが伝令だった」という説を完全に否定していること。Uffindellによれば一次史料の中でラ=ベドワイエールの名を上げているのはデルロンだけであり、しかも彼が記した2つの記録の片方にしか載っていないという。1829年2月9日に彼がネイの息子に宛てて書いた手紙がそうで、そこには「ラ=ベドワイエール将軍は既に我が部隊に対して方向転換しこの移動を行うよう命じたことを私に知らせた」(Uffindell "The Eagle's Last Triumph" p249)と書かれている。
だが、同じデルロンが1844年に出版した自叙伝には、固有名詞は出てこない。伝令については単に一人の「幕僚士官」(Uffindell "The Eagle's Last Triumph" p249)としか書かれていないのである。Uffindellは1829年の手紙でデルロンがラ=ベドワイエールの名を記したのは、第1軍団がリニーに接近してきた時にこの部隊の正体を確かめるためにナポレオンの司令部から送り出された人物と勘違いしたためではないかと見ている。午後5時にナポレオンの近くにいたラ=ベドワイエールが、午後5時30分に第1軍団の正体を探るため送り出され、そこでデルロンに出会った、とUffindellは考えている。
問題は、ラ=ベドワイエールでなければ誰なのかという点。なぜかUffindellの本には、ラ=ベドワイエール以外の名を記した一次史料からの引用がほとんどない。巻末におまけとしてネイ、デルロン、デュリュット、ド=シャブロン(ナポレオンの秘書)の残した史料の英訳が載っているのだが、固有名詞が出てくるのはデルロンの記した「ラ=ベドワイエール」だけで、フォルバン=ジャンソンの名は見当たらない。ド=シャブロンの記録から、一部で唱えられている「伝令の士官が命令文を勝手にでっち上げた」というのは否定できそうだが、伝令の名は分からない。
Uffindellの本はその分析の大半をHoussayeの著作に依存している。そのため、彼の主張をきちんと理解するにはHoussayeの本を読まなければならない格好になっているのだ。Uffindellの本だけ読んでも、論拠が分からないまま主張のみを聞かされる印象が強い。おそらく論拠はほとんどHoussayeが指摘しており、改めてそれを繰り返す以上の材料がなかったのだろう。結局「後はHoussayeを読んでくれ」といった感じの本になっている。
Houssayeの本は、おそらくUffindellの本に比べれば入手しにくい。フランス語版ならまだ楽だが、英訳本は復刻版を上手く手に入れられるかどうかにかかっている。そうした実態を踏まえるなら、現代の読者の利便性を考えてもう少し著作の中に一次史料を織り込んでもらいたかったものだ。今更言っても詮無いことだが。
長くなったので、Houssayeの本について紹介するのは次回に。
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