ヴァンデの共和国軍人 その18

アンリ=フランソワ=モーリル・ド=ブラール
 1746年パリに生まれる。62年に軍に入隊し、同年少尉、75年大尉、82年少佐に昇進。革命後の1791年には中佐になっている。
 ヴァンデ内乱が起きた1793年3月時点ではマルセの下に所属し、対王党派戦に参加。マルセが敗北した時には大砲を放棄せずに退却するのに成功している。21日に派遣議員から暫定的に准将に任命される。29日にサーブル=ドロンヌへ王党派が攻撃を行った数日後にはサーブル=ドロンヌに増援を率いて到着。以後、サーブル=ドロンヌを中心に作戦を遂行する。
 4月、共和国軍が攻撃を行った際には4000人を率いてサーブル=ドロンヌから出陣。左翼の指揮をエスプリ=ボードリーに任せ、自らは右翼を率いて前進した。7日にはジョリー麾下の王党派軍を撃退してモト=アシャールを占領。さらに王党派軍の抵抗を排除しながら9日にはボードリーの左翼部隊と伴にサン=ジル=シュール=ヴィーへ、12日にはシャランまで到達した。13日、シャレット麾下の王党派軍4000人の反撃をシャランで受けるが砲撃により撃退。14日にはさらに前進し、ノワールムーティエ島への進軍準備を進める。
 だが、この時点で王党派軍がモト=アシャールに集結しサーブル=ドロンヌを危険に晒しているとの連絡がブラールの下に到着。15日には8000人の王党派軍がサン=ジェルベでエスプリ=ボードリーを破る。ブラールは反撃に出てシャレットの部隊を退却寸前まで追い込むが、ジョリーの増援で態勢を立て直した王党派軍の前に最後はシャランへと退却。20日には派遣議員の命令や背後の連絡線を脅かされたことなどを理由に退却を始め、22日にモト=アシャールまで後退した。
 25日にダヤ将軍らがサーブル=ドロンヌへ到着。ベセールらからの要請もありブラールは26日に再度前進を始める。エスプリ=ボードリーの部隊をサン=ジルやシャラン方面へ送り出したほか、ボーリュー街道へも偵察を実施。29日にはムワレールの王党派軍を撃退し、2つの縦隊で前進してエズネーまで到達。さらにパリュオーまで進んでベセールの支援をしようとしたが、悪天候もあって共和国軍同士の連携は取れなかった。他の共和国軍が敗北したこともあってブラールは再びサーブル=ドロンヌ方面への後退を強いられた。
 5月15日、正式にラ=ロシェル沿岸軍准将の地位が確定。だが7月30日には辞任を申し出ており、8月14日に認められて職権が停止されている。おそらく病気のために辞めたのではないかと思われるが、詳細は不明。11月29日、ラ=ロシェルで死去。

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