ローマ街道は軍事目的のために建設されたものであり、経済活動が元から盛んだった地域を結んだものではない。むしろインフラこそが経済成長をもたらしたのだ、という理屈だそうだ。日本でもまず大都市と郊外を結ぶ鉄道が建設され、その鉄道沿いに住宅地が増えるという流れが存在するし、以前紹介"
https://blogs.yahoo.co.jp/desaixjp/56739617.html"した「歴史は実験できるのか」の中にも、フロンティア開発ではまず鉄道のようなインフラが先行し、その後に経済的実体がついてくることを紹介した論文があった。だからインフラが重要だという議論に異論はない。
ただし「2000年も前から繁栄が決まっている」と読むと間違いになる。論文自体の中で指摘されているらしいが、同じローマの版図でも中東や北アフリカでは街道と現在の繁栄との相関は低くなっている。これらの地域では西暦500~1000年頃にかけて車両の利用が減り、ラクダの背に乗せて物資を運ぶ方法が広まったという。そのため石で舗装した道路の必要性が減り、ローマ街道も補修されることなく朽ちていったところが多いそうだ。たまたま西欧ではローマ時代の街道がそのまま使われ続けたため、その地域沿いに経済発展が生じたと見るのがいいんだろう。
node(結び目)となる都市と、それをつなぐ道路や運河・河川、海路などのデータをまとめ、両帝国のネットワークの特徴についていろいろと書いている。例えばそれぞれの首都がネットワーク論におけるgrade(他のnodeとの接点の多さ)、betweenness(他のnodeとつながる道筋の多寡)、closeness(他の全nodeとの距離)でどういったポジションにあるかの分析(p9-11、table 3及び4)がある。ローマ帝国においてはローマよりコンスタンティノープルの方がネットワーク上の利点が高かった様子がわかる。
もう一つ、各nodeをクラスター化したらどうなるかについての分析もしている(p13-14、table 5と6、Figure 15から18)。ただこちらはアルゴリズムに当てはめるとどうなるかの分析だけで、それと史実を比較するところには踏み込んでいない。より踏み込むのは、そこから帝国の分裂まで話を広げたところ。まずbetweenness(各nodeをつなぐという意味で重要なもの)上位のnodeを外すとどうなるかという分析だが、ローマの場合トップ50を除いた段階で帝国が大きく2つに分裂する。面白いのはそれぞれの領域がフランク王国とユスティニアヌス時代の東ローマとかなり似ているところか(Figure 19)。
もう一つはネットワーク維持のコストに注目した分裂モデルだ(p16-17)。1日以内で移動できるネットワークのみが残された場合、ローマ帝国だとその大半はネットワークから外れてしまうが、エーゲ海を中心にレバントや南イタリアまでの地域は1つのまとまりとして残る(Figure 21)。ビザンツ帝国が最後までこの地域で生き残ったのも、こうしたネットワーク的な特質のためかもしれない。一方中国では、2日行程であればまだ広範囲のまとまりが存在するが、1日行程になるとほぼ完全にバラバラになる(Figure 23と24)。
後はネットワークのつながりと、過去の疫病の広まった地域とを重ねた図(Figure 11から14)も興味深い。実は中華帝国のネットワーク図は具体的な時代を定めずにデータを定めたもので、実際には時代ごとにネットワークの在り様が違っていた様子が、疫病の範囲から想像できるのだ。7世紀の疫病は洛陽を中心に東西に広がっているが、16世紀になると長安が外れる一方で南京や杭州が入り、17世紀に至っては洛陽すら外れる一方で北方の北京近くまで範囲が広がる。歴史とともに中国経済の中心地と、それに伴うネットワークの変化が起きていたことが窺える。
この記事では宗教改革が原因だとしている。プロテスタントの登場によってカトリックは「市場シェアを維持する」必要に迫られた。そこで彼らが取った方策が魔女裁判だったのだそうだ。「自分の方が現世におけるサタンの邪悪の顕現から市民を守る能力に優れていることを世に知らしめる」アピール策として採用されたのが魔女裁判であり、それをプロテスタントも模倣したことによって両派による魔女裁判が急増したのだそうだ。この流れはヴェストファーレン条約によって両派の政治的境界線が定まるまで続いたという。
原因が新旧両派によるアピール合戦にあるとしたら、それが最も盛んだったのは「カトリック―プロテスタント対立が最も強烈なところ」になる。最初からカトリックでずっと安定していた南欧諸国では低く、逆に激しい宗教戦争が行われたドイツや、カルヴァン派が猖獗を極めたスイスといった地域ではかなり増えた。また論文pdfのp2079には魔女狩りと宗教上の争いをプロットした地図が載っているが、両者がかなり重なることもわかる。魔女狩りは宗教上の争いの一形態だった、のかもしれない。
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