天候、街道、魔女

 海外の研究にはいろいろと面白いものがある。例えば古代ローマ。1つはこちらの記事"https://www.telegraph.co.uk/news/2018/08/02/beware-heatwave-droughts-roman-empire-led-emperors-assassinated/"で紹介されているやつで、曰く「雨が降らないとローマ皇帝が暗殺されるリスクが高まる」。
 元になる論文はこちら"https://www.sciencedirect.com/science/article/pii/S0165176518302532"でpdfは購入しなければ読めないようだが、論文素案はこちら"https://brocku.ca/repec/pdf/1703.pdf"で確認できる。ガリアやゲルマニアの降水量が減る→特にゲルマニアで収穫が減る→帝国北西部国境への蛮族襲撃が増える→兵士の不満が高まり反乱が増える→皇帝暗殺、という「風が吹けば桶屋が儲かる」的なメカニズムが働くそうだ。
 今年の夏は欧州でも猛暑とそれに伴う干ばつが起きていたそうで、この研究がちょうどタイムリーだったということもあるのだろう、あちこちでこの話が取り上げられていた。こちら"http://www.dailymail.co.uk/sciencetech/article-6034867"に載っているグラフを見ると分かるのだが、確かに暗殺が集中した3世紀は雨量の少ない時期であった。イグノーベル賞くらいは狙えるかもしれない研究だ。
 同じくローマ時代と関連する話として、こんなもの"https://www.washingtonpost.com/business/2018/08/06/how-year-old-roads-predict-modern-day-prosperity/"もある。2000年前のローマ街道が現代の繁栄とつながっているという研究で、論文はこちら"http://web.econ.ku.dk/pabloselaya/papers/RomanRoads.pdf"。衛星画像で調べた夜間の明かりが集中している地域が、ローマ時代の街道の結節点だったという話だ。特にフランスではその傾向が強いという。
 ローマ街道は軍事目的のために建設されたものであり、経済活動が元から盛んだった地域を結んだものではない。むしろインフラこそが経済成長をもたらしたのだ、という理屈だそうだ。日本でもまず大都市と郊外を結ぶ鉄道が建設され、その鉄道沿いに住宅地が増えるという流れが存在するし、以前紹介"https://blogs.yahoo.co.jp/desaixjp/56739617.html"した「歴史は実験できるのか」の中にも、フロンティア開発ではまず鉄道のようなインフラが先行し、その後に経済的実体がついてくることを紹介した論文があった。だからインフラが重要だという議論に異論はない。
 ただし「2000年も前から繁栄が決まっている」と読むと間違いになる。論文自体の中で指摘されているらしいが、同じローマの版図でも中東や北アフリカでは街道と現在の繁栄との相関は低くなっている。これらの地域では西暦500~1000年頃にかけて車両の利用が減り、ラクダの背に乗せて物資を運ぶ方法が広まったという。そのため石で舗装した道路の必要性が減り、ローマ街道も補修されることなく朽ちていったところが多いそうだ。たまたま西欧ではローマ時代の街道がそのまま使われ続けたため、その地域沿いに経済発展が生じたと見るのがいいんだろう。
 こちら"https://www.dartmouth.edu/~dcomin/files/wealth_nations.pdf"の論文では「西暦1500年時点の技術は現在の富と相関している」との結論を出している。だから500年くらい前の歴史との相関が広範囲で見られるのは確かだと思う。しかし2000年前の道路が現代の繁栄を予測すると言い切ってしまうのは、さすがに無理がありそうに思える。
 さらにローマと中華帝国をネットワーク論の視点から比較したのがこちら"https://arxiv.org/ftp/arxiv/papers/1809/1809.08937.pdf"。上記の論文に比べるとより理論寄りというか、史実との比較よりも実際の両帝国のネットワークに理論を当てはめてみるとどのようなことがわかるかについて分析している。
 node(結び目)となる都市と、それをつなぐ道路や運河・河川、海路などのデータをまとめ、両帝国のネットワークの特徴についていろいろと書いている。例えばそれぞれの首都がネットワーク論におけるgrade(他のnodeとの接点の多さ)、betweenness(他のnodeとつながる道筋の多寡)、closeness(他の全nodeとの距離)でどういったポジションにあるかの分析(p9-11、table 3及び4)がある。ローマ帝国においてはローマよりコンスタンティノープルの方がネットワーク上の利点が高かった様子がわかる。
 もう一つ、各nodeをクラスター化したらどうなるかについての分析もしている(p13-14、table 5と6、Figure 15から18)。ただこちらはアルゴリズムに当てはめるとどうなるかの分析だけで、それと史実を比較するところには踏み込んでいない。より踏み込むのは、そこから帝国の分裂まで話を広げたところ。まずbetweenness(各nodeをつなぐという意味で重要なもの)上位のnodeを外すとどうなるかという分析だが、ローマの場合トップ50を除いた段階で帝国が大きく2つに分裂する。面白いのはそれぞれの領域がフランク王国とユスティニアヌス時代の東ローマとかなり似ているところか(Figure 19)。
 もう一つはネットワーク維持のコストに注目した分裂モデルだ(p16-17)。1日以内で移動できるネットワークのみが残された場合、ローマ帝国だとその大半はネットワークから外れてしまうが、エーゲ海を中心にレバントや南イタリアまでの地域は1つのまとまりとして残る(Figure 21)。ビザンツ帝国が最後までこの地域で生き残ったのも、こうしたネットワーク的な特質のためかもしれない。一方中国では、2日行程であればまだ広範囲のまとまりが存在するが、1日行程になるとほぼ完全にバラバラになる(Figure 23と24)。
 後はネットワークのつながりと、過去の疫病の広まった地域とを重ねた図(Figure 11から14)も興味深い。実は中華帝国のネットワーク図は具体的な時代を定めずにデータを定めたもので、実際には時代ごとにネットワークの在り様が違っていた様子が、疫病の範囲から想像できるのだ。7世紀の疫病は洛陽を中心に東西に広がっているが、16世紀になると長安が外れる一方で南京や杭州が入り、17世紀に至っては洛陽すら外れる一方で北方の北京近くまで範囲が広がる。歴史とともに中国経済の中心地と、それに伴うネットワークの変化が起きていたことが窺える。

 今度はもう少し現代に引き付けよう。こちら"https://voxeu.org/article/witch-hunts-western-world-past-and-present"に紹介されているのは魔女狩りの話だ。元になっている論文はこちら"http://www.peterleeson.com/Witch_Trials.pdf"。なぜか現代の米国政治の話を絡めて言及されているが、それは歴史に興味のない読者に読ませるための苦し紛れの手段だろうし、そんなことは気にせずに純粋に魔女狩りに関する話に注目すればいいと思う。
 幸い最初の記事については日本語訳がこちらのツイッター"https://twitter.com/econ101jp/status/1040943140595814401"からたどり着ける。これを参照しながら内容を見ていきたい。まずは魔女狩りが盛んだった時期だが、グラフ(論文pdfではp2081参照)からわかる通り、主に17世紀がメーンだった。魔女狩りが中世より近代初期の現象だったことは少し歴史に詳しい人なら誰でも知っていると思うが、それを裏付けるデータだといえる。
 それよりも興味深いのは欧州内の地域別のデータだろう。絶対数で圧倒的に多いのはドイツ、スイス、フランス、スコットランドといった国々で、10万人当たりの数でいうとスイス、スコットランド、フィンランドやルクセンブルクといった国々が多い。魔女狩りと言えば何といっても「まさかの時のスペイン宗教裁判」("http://livedoor.blogimg.jp/anico_bin/imgs/0/d/0d1715fb.jpg"もとい"http://www.ebaznica.lv/monty-python-spanish-inquisition-2933/")が思い浮かぶのが当然だと思われるが(異論は認める)、人口比で見るとスペインでの魔女裁判はむしろ少ない方だった。
 この記事では宗教改革が原因だとしている。プロテスタントの登場によってカトリックは「市場シェアを維持する」必要に迫られた。そこで彼らが取った方策が魔女裁判だったのだそうだ。「自分の方が現世におけるサタンの邪悪の顕現から市民を守る能力に優れていることを世に知らしめる」アピール策として採用されたのが魔女裁判であり、それをプロテスタントも模倣したことによって両派による魔女裁判が急増したのだそうだ。この流れはヴェストファーレン条約によって両派の政治的境界線が定まるまで続いたという。
 原因が新旧両派によるアピール合戦にあるとしたら、それが最も盛んだったのは「カトリック―プロテスタント対立が最も強烈なところ」になる。最初からカトリックでずっと安定していた南欧諸国では低く、逆に激しい宗教戦争が行われたドイツや、カルヴァン派が猖獗を極めたスイスといった地域ではかなり増えた。また論文pdfのp2079には魔女狩りと宗教上の争いをプロットした地図が載っているが、両者がかなり重なることもわかる。魔女狩りは宗教上の争いの一形態だった、のかもしれない。
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