"Memoirs of General Count Rapp"読了。Memoirsとあるが話の大半はナポレオンに関するもので、ラップ本人に関連する話のうち詳細に紹介されているのは1813年のダンツィヒ包囲と1815年戦役くらいしかない。若い頃の話などはほとんど触れられることなく終わっている。ラップ自身の経歴を記すよりもナポレオンの話を書いた方が売れるのは確かだろうし、その意味では出版物としては正しい書き方と言えるかもしれない。
目立つのはナポレオンが女性に優しくしたという話がいくつか紹介されていること。この本の英訳が最初に出版されたのは1823年と、ワーテルローからまだ間もない時期である。ナポレオンが食人鬼などと呼ばれて貶されていた時期だけに、敢えてそうした挿話を多数紹介したのかもしれない。全体としてナポレオンに極めて同情的な本がこの時期にロンドンで出版されていたというのも、なかなか面白い。ナポレオン自身は1821年に死去しているので、彼を誉める本を出してももう安心と思われていたのかも。
と言っても誉めているだけではない。彼がしばしば短気を起こし、周囲の人間が必死になだめていた話もいくつも紹介されている。なだめ役に回るのは大体ラップとベルティエ、コレンクールといった面々。この回想録を読む限り、ナポレオンは時に感情のために冷静な政治的判断ができなくなる人物だったようだ。
一方、戦場における冷静さは大したものがある。ベレジナではネイ、ラップ、ミュラの3人が絶望的と判断した状況でも諦めずに戦い続けようとしていた。その皇帝もチチャゴフの部隊がベレジナ川対岸から姿を消した時には「あり得ない」と思わず言ってしまったとか。いずれにせよ、妙な悪運を持っている人物であることは確かである。
この回想録で特に目に付いたのは、ナポレオンが時にもの凄く詳細な命令を出していることだ。1806年暮れ、ポーランドでロシア軍と最初の戦闘を行った際に皇帝が第3軍団に出した命令の口述筆記を見るとそれがよく分かる。たとえば部隊の前進に際して「8個中隊で構成される各大隊は、第13軽歩兵連隊の大隊と伴に3つの縦隊を組め」とか「各中隊は選抜歩兵中隊に護衛された大砲を派出せよ」とか「対岸に地歩を築くや否や、それぞれ60人で構成する猟騎兵の哨兵3部隊は敵に突撃し、素早く追い払って捕虜を得よ」としている(p125-126)。
ここで思い出したのが、ワーテルローの戦いにおけるデルロン軍団の攻撃。師団単位の巨大な縦隊を組んだことに関して、多くの研究者はネイやデルロンの判断によるものでナポレオンは関与していないと見ている。ナポレオン自身は細かい隊列にまで口出しすることはなかった、というのが論拠の一つだ。
だが、上で紹介した事例を見る限り、ナポレオンがかなり細かい隊列や部隊編成に口出しをしていたケースがあったことは間違いない。ラップの記録が正しければ、ワーテルローでナポレオンがどのような隊列を組んで前進するかを命じたとしても、それは別に珍しい事例ではなかったことになる。もちろん、だからと言って師団縦隊はナポレオンの命令によるものと断言することはできない。それでも研究者たちの言う「ナポレオンは細かい隊列には口出ししなかった」説を鵜呑みにするのが拙いことは確かなようだ。
コメント
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2007/04/30 URL 編集
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