革命軍 最初の敗北 4

 承前。ビロンのいう「29日中に情報が届いた」説と、フォワサックの「30日朝に届いた」説の、果たしてどちらが正しいのだろうか。後で紹介するがディロンの死について伝えた目撃者の情報("https://books.google.co.jp/books?id=AhxCAAAAcAAJ"、英訳は"https://books.google.co.jp/books?id=EPHFQpn8X_8C"のp51)によるとディロンが暗殺されたのは29日の午後4時すぎで、午後7時か8時頃には広場でその死体が焼かれたという(p5-7)。リールからヴァランシエンヌ経由でブスュ村に至る距離(70キロ強)を考えるなら、29日のうちにこの情報がビロンの下に届いたとは考えにくい。
 単にディロンの軍勢が敗北したという情報だけならもっと早く到着した可能性はあるのだろうか。一応ある。リールにいた師団を率いていたドーモン中将が29日付で記した報告書("https://gallica.bnf.fr/ark:/12148/bpt6k1236193"p239)によれば、ディロンの部隊は同日午前8時頃に敵が接近してきたのをきっかけに壊走に転じたという(p242)。実際に壊走が始まったのが9時頃だとして、その情報が戦場から直接ヴァランシエンヌに伝わり、そこからビロンのところに届いたと考えれば、その距離はおよそ60キロ。時速7キロで移動すれば29日の夕方にはディロン敗走の情報を入手できる計算だ。
 ただし実際の戦場では50キロに9時間以上をかけることもある"https://blogs.yahoo.co.jp/desaixjp/56608872.html"ため、本当にこの時間で届くかどうかは不明。また直接ヴァランシエンヌにではなくリール経由で情報を伝えようとすれば、走破すべき距離は90キロ強に達し、29日夕までに伝えるのはかなり難しくなる。何より友軍の壊走を聞いていながら夜間という退却しやすいタイミングにおいて何もしなかったことには違和感が残るし、騎兵の逃走騒ぎが起きた後も夜が明け再び交戦するまでそこにとどまっていたのはさらに意味不明だ。むしろフォワサックの言う通り、30日朝までディロンの退却を知らなかったから、それまでは退却せずにいたと考える方が自然だ。

 ビロンがトゥルネー方面の敗北を知ったのがどの時間であったにせよ、30日朝の時点でフランス軍がなおブスュ東方、サン=ギスレンからワームにかけての戦線にとどまっていたのは間違いない。それはオーストリア側の史料からも裏付けられる。ボーリューが30日付で記した報告書"https://books.google.co.jp/books?id=nstFAAAAcAAJ"には、午前3時の時点でフランス軍がジュマップにいたオーストリア軍右翼を攻撃し、また同時に左翼のフラムリー村に向けて行軍しているという情報が入ったことが記されている(p100)。
 午前3時の時点ではまだ騎兵の逃走劇の真っ最中だった可能性はないのか。ビロン"https://books.google.co.jp/books?id=AsYBAAAAYAAJ"によれば騎兵が逃げ始めたのは29日午後10時で、彼らはそこから約4キロ移動したという(p360)。騎兵のみの部隊の移動速度は時速4.8~5キロ"https://blogs.yahoo.co.jp/desaixjp/55142591.html"だと考えれば、往復8キロの距離は2時間もかからない。夜間かつ混乱した状態からの動きで多少の時間を要したとしても4時間あれば戻ってくることは可能だっただろう。午前3時の戦闘開始には間に合う。
 一方、フォワサックの言い分"https://gallica.bnf.fr/ark:/12148/bpt6k1236193"を取ると、逃走開始は真夜中になり、かつ彼らが逃げた距離は「ヴァランシエンヌからワームの陣地までの道のりの半分」(p270)となる。10キロ超の距離を逃げたことになるため、往復にはどう頑張っても4時間はかかり、午前3時の時点でフランス軍は司令官も幕僚たちもいない状態だ。その段階で彼らがオーストリア軍に対して攻撃を仕掛けたとは考えにくい。なおボーアルネ"https://archive.org/details/DefenseNleNord1792-1802"によると逃げた距離は8キロだが、いつ逃げ出したのかが不明なため戻ってきた時間も確認できない。
 ボーリューはフラムリー方面に接近してくるフランス軍を自ら確認しに出向いた。強力なフランス軍縦隊と、先行する騎兵部隊を確認した彼はスタライ連隊の2個大隊、6ポンド砲2門と曲射砲2門、さらにフランス亡命貴族騎兵200騎を左翼へ投入した。彼らはすぐ反撃に出るとパトゥラージュ村に突入してそこにいたフランス軍を追い払った。
 このボーリューによる側面への攻撃を受けたフランス軍は、同時期にカレニョンへの砲撃を行っていた大量の大砲を移動させ、退却を始めた。その動きに気づいたボーリューはフィッシャー大佐を指揮官とした前衛部隊を編成して追撃に当たらせ、その後をブリー擲弾兵大隊や多くの騎兵などに追随させた。戦場に前進したボーリューは大砲3門と多くの捕虜を手に入れた。さらに追撃によって4ポンド砲5門などを手に入れ、おそらく250人のフランス兵を戦死させたとボーリューは報告している(p100-101)。
 彼らの行動についてはこちら"https://archive.org/details/krieggegendiefr00kriegoog"に図が掲載されている(51/488)。ごく大雑把な図だが、主戦場となったのがワームとカレニョンの間であったことが分かるだろう。そのため、この図では戦闘の名称を「カレニョン及びキエヴレンの戦闘」としている。一般に知られているのは後者の名称だが、少なくともボーリューの報告を見る限りキエヴレンは主戦場とは言えない。キエヴレンで行われたのは、この後で発生した後衛戦闘だった。

 ビロンは30日午前3時からの戦闘について、報告書では触れていない。単に「夜明けとともに退却を始めた」と書いているだけだ。後衛部隊の指揮権はロシャンボー少将(元帥の息子)に委ねられ、フランス軍は損害を受けることなくキエヴレンまで戻った。そこで彼はロシャンボー元帥が増援に送り出したフルリーと出会った(p360-361)。フォワサックも退却は「静かに、秩序をもって実行された」(p273)としており、オーストリア軍の追撃は軽兵によるものに限られていたとしている。
 一方ボーアルネによると退却の際に疲労した軍は「敵の砲撃より多くの兵を失った」ことになる。ボーアルネは退却をカバーするべく、キエヴレン東方2キロほどの場所にあるソルソワ農場前面の果樹園に歩兵と大砲を配置し、側面を竜騎兵に守られながら後衛の仕事をこなした。彼らがキエヴレンに到着した時にフルリーの部隊と遭遇したことについてはビロンの証言と一致している。夜の間にヴァランシエンヌまで逃げた脱走兵たちの間違ったニュースを受けてロシャンボーが送り出した部隊だった(p29)。
 ビロンはこのフルリーの部隊をキエヴレンに残し、自らはフランス領にあるキエヴルシェンに軍を向けた。そこは28日の夜に彼らが宿営した場所だった。だがビロンによると軍の全てが到着する前にキエヴレンをカバーしていた国民衛兵大隊が追撃してきたオーストリア軍の槍騎兵によって持ち場から追い出され、敵はさらに宿営地の正面でピストルを撃ってきた。味方の混乱した射撃は効果はなかったが、槍騎兵は退却。それからフルリーがキエヴレンを奪回するため第68連隊を向かわせたが、目的は果たせず彼は乗馬を撃たれ自らも負傷した。
 混乱の中で兵たちは浮足立ち、今にもヴァランシエンヌに向けて逃げ出しそうであった。事態を重く見たビロンは、宿営地を守るためにはキエヴレンを再び攻撃し何としても奪い返すしかないと判断。第49連隊を自ら率いてキエヴレンを取り返し、敵を追い払った。だがそこを守るためには応援が必要であり、ビロンはキエヴレンに連れて行く2個大隊を探しに宿営地に戻った。しかし兵たちは疲労しきっていて連れて行くことができず、結局彼は第49連隊のところに戻って、最終的には彼らとともにヴァランシエンヌへ帰還することになった(p361)。以上がビロンによるキエヴレンでの戦闘の経緯だ。
 困ったことにこの内容はフォワサックの説明とはかなり異なる。彼によれば退却してきた右翼と中央がキエヴルシェンに到着して配置につき、食糧を探しに出かけようとしたときに、左翼が「オーストリア全軍がすぐやってくる」と言いながら宿営地に駆け込んできた。その声に動揺した兵たちは、敵の姿が見えないにもかかわらず武器を取って射撃を開始した。彼らの前方100歩の場所にある川(おそらくオーネル川)沿いには生垣や低木があり、視界を確保するためそれらを切り倒していた労働者たちも含めてこの射撃の的になった。さらに後から到着した後衛部隊までが撃たれ、「あらゆる場所でフランス人の手でフランス人が殺された」。
 この射撃音を聞きつけたのか、20騎の敵槍騎兵が偵察に現れた。さして恐れることもないこの敵を撃つよう擲弾兵が砲兵たちに強い、実際に砲撃が行われて敵は退却した。その後になってようやく第74連隊が間違った射撃をしていることに気づき、攻撃を停止。他の部隊もそれに倣って静けさが戻ったが、ここまでの混乱した射撃で約30人が戦死または負傷し、モンショワジー大佐の乗馬が負傷し、フルリー准将も20発以上の攻撃を受けて、そのうちの1発により脚部に怪我を負った(p274)。
 そうしていったん宿営地は落ち着きを取り戻した。さらに第49連隊の1個大隊がキエヴレンに送り出され、そこにいた敵猟兵を追い払うのに成功したのだが、突然、国民衛兵の姿に身をやつした何人かが左翼の宿営地に広がり、敵に迂回された、裏切りだ、逃げろ! と叫び始めた。彼らは宿営地を通り抜けるようにしながら逃げ出し、それを見た誰もが動揺した。騎兵も歩兵も砲兵もみな入り乱れ、恐ろしいほどの混乱が生じた。路上は銃、サーベル、背嚢、壊れた大砲の装備に覆われ、弾薬は溝に流れ落ちた。キエヴレンからヴァランシエンヌまでの短い行程で60人の兵が混乱の中で死んだという(p273-275)。

 以下次回。
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