革命軍 最初の敗北 3

 承前。29日午後6時、ビロンは日没の近い時間にもかかわらず、ワーム村を経由してオーストリア軍の左翼を迂回する攻撃を実行しようとした。だがそのための配置が終わる前に日が没するであろううえに、作戦をうまく進めるには敵右翼であるサン=ギスレン方面からも攻撃しなければならないため、この計画を翌日の夜明けまで延期した、とフォワサック"https://gallica.bnf.fr/ark:/12148/bpt6k1236193"は述べている。一方でオーストリア敵猟兵がワームを脅かしたため、そこにいた第49連隊の擲弾兵中隊(ジゴー大尉指揮)が墓地に布陣し、オーストリア軍を撃退した(p267)。
 このワーム方面の戦闘についてビロン"https://books.google.co.jp/books?id=AsYBAAAAYAAJ"は「敵が私の右翼を迂回する意図」で行ったと指摘。それを防ぐための配置を自ら行い、いくつかの分遣隊をいい場所に布陣させたという。ビロンによればオーストリア軍の攻撃が行われたのは午後5時で、防衛に当たったフランス軍は擲弾兵4個中隊と騎兵の哨兵だった。ジゴー率いるワーム防衛部隊はオーストリア軍に10人から12人の損害を与え、自らは負傷者1人にとどまった(p359)。
 面白いことにボーリュー"https://books.google.co.jp/books?id=nstFAAAAcAAJ"も、ワーム村方面で攻勢に出たのは敵だという認識を持っていた。曰く「彼らは左翼に集団で現れたが、私がこの方面に配置した騎兵を見て我々から3000歩以上離れたところで機動するにとどめ、最後にはブスュとブスュの森へと後退していったが、その姿はなお視界にあった」(p100)。兵力が不足していたボーリューは追撃を手控えた。この日、オーストリア軍の猟兵は2人の砲手を含む20人以上の敵を殺し、フランス軍のユサール中佐を捕虜とし、何人かを負傷させた。フランス軍の兵力についてボーリューは「1万1000人、1万2000人あるいは1万3000人」(p100)と推測している。
 かくして29日の戦闘は終わったが、この日の夕方頃からビロンと参謀長のベルティエは無理な攻撃をせず、ディロン将軍が攻撃を行っているトゥルネー方面のニュースを待つつもりだったと述べている(p359)。ビロンの軍勢よりも少ないディロンの部隊が軍事的に勝利することを期待したというより、モンス同様にトゥルネーでも革命派の活動で労せずしてこの都市を奪取できるという見通しが彼らの間に存在したのだろう。だがこの楽観的な予想は外れた。トゥルネーへ向かったフランス軍は敗走した。

 ボーアルネ"https://archive.org/details/DefenseNleNord1792-1802"によるとフランス軍は食料や秣の不足で疲労しきっており、期待していた「慌ただしい進撃のため欠乏しているものを、この地[ベルギー]の住民たちが救援のため提供してくれるという約束」は守られなかったという(p28)。軍人たちから見ればデュムリエら大臣たちの情勢判断は酷い間違いに見えたことだろう。いやそれどころか、革命側はこの戦役における諜報活動の分野において反革命側に後れを取っていたことがすぐに判明する。
 ビロンによるとこの日の夜10時にかけ、第5及び第6竜騎兵連隊が命令もないまま乗馬し、大急ぎで宿営地の左翼側に行ってそこで縦隊を組んだ。見かけたビロンが理由を問い質すべく慌てて追いかけたところ、彼らは「裏切りだ」と叫びながら速足で移動をしていた、止めようとしたビロンは彼らに押し流されるように1リュー(約4キロ)もの距離を移動させられ、そこでようやく彼らを命令に従わせることができ、彼らをブスュとオルヌ間に整列させた。どうにか秩序を回復させたビロンは騎兵を再び宿営地へと連れ帰ったのだが、30~40騎は途上で「裏切られた」「ビロンがモンスへと脱走した」と叫びながらヴァランシエンヌまで逃げて行った(p360)。
 このあたりの経緯をさらに詳しく書いているのがフォワサックだ。彼によれば真夜中頃、左翼側で叫び声が聞こえたという。偵察をしていた第6竜騎兵のうち何人かが宿営地の後方で敵の至近距離からの射撃を受けたと主張し、実際に銃声が響いた。そして「回り込まれた、裏切りだ! 皆殺しに遭うぞ! 逃げろ!」という叫びが聞こえてきた。
 第5竜騎兵連隊のダンピエール大佐は兵士たちを落ち着かせようとしたが、パニックを起こした兵に押されて落馬した。騒ぎに気付いたビロンや、オルレアン公の次男とフォワサックを含む士官たちはこの騒ぎに気付いた(フォワサックによればボーアルネは戦いの疲れのため休んでいたという)。逃亡兵の動きに将軍の護衛たちも追随し、将軍がどれだけ命令し懇願しても止まらなかった。それどころか兵たちはビロンに対し、我々を屠殺場へ連れて行こうとする裏切り者であり、ヴァランシエンヌへ行って裁きを下さなければならないとまで口にしたという。
 ビロンら軍首脳たちが引きずられるように兵と一緒に移動している情景を、フォワサックは妙に美しく描いている。美しい月明かりに照らされながら、だがその明かりは馬が蹴立てる分厚い土埃によって酷く暗くなっていた。犯罪的な意図によって煽られている兵たちとは対照的な自然の光景がそこにあった、のだそうだ。この騒ぎを落ち着かせたのはビロンの護衛を指揮していた第3ユサール連隊の士官で、ビロンの裏切りがあり得ないことを兵たちに納得させ、むしろビロンを守るべきだと主張した。ユサールたちはその言葉に従って竜騎兵たちからビロンを守り、彼を宿営地に連れ帰ったという。
 ビロンは結局、ヴァランシエンヌまでの道のりの半分まで引きずられ、それから宿営地へ戻った。騎兵の一部は彼に従って戻り、残りはヴァランシエンヌまで逃亡を続けた。左翼の騎兵がこのようなパニックを起こしている間、軍の中央と右翼は動くことなく、全く安全な状態にとどまっていた。一度は逃げた兵たちは自らの間違いに気づき、謝罪して持ち場に戻ったという。ビロン自身の説明と基本的な流れは同じといえる(p268-271)。
 最後にボーアルネの証言だが、彼によればこの混乱は、夜の間に宿営地で鳴り響いた3発の銃声がきっかけだった。「裏切られた! 敵が宿営地にいる、逃げろ!」という叫びとともに300人が逃げ出し、裏切り者とみなしたビロンを無理やり先頭に立ててキエヴレンまでの道を2リューも引き返した。ビロンはどうにか彼らを説得し、歩兵を見捨てるわけにはいかないと述べて逃亡兵たちのほぼ大半を再び集めて連れ戻すことに成功したという。
 ボーアルネはこの出来事を「内部の敵」がもたらしたものだとしている。彼らによる「悪魔のような方策」がこの騒ぎを引き起こし、将軍がモンスへ逃げたという噂を広げて兵たちを誘導し、全軍が退却していると信じ込ませた。ベルギーの革命派の策動に乗じて行っているはずの軍事行動において、実はフランス軍自身が反革命派の策動によって窮地に陥っていたというわけだ(p28-29)。ボーアルネがそう主張する論拠は分からないが、そうした疑惑が軍内に存在したことは間違いないだろう。

 かくして混乱に見舞われたフランス軍はモンス攻略を諦めて退却を決断するのだが、そのタイミングについて関係者の証言は互いに矛盾している。ビロンは「ついにトゥルネーに送られたフランス兵部隊の敗北の知らせをロシャンボー元帥から受け取った」際に退却を決断したと報告書に記しているいう。受け取った時刻がいつかははっきりと書かれていないが、彼の報告を読む限り29日夕刻の出来事のように読める。少なくともその夜に起きた騎兵の逃走騒ぎより前なのは確かだ(p359)。
 しかし他の当事者は全く違う話を書いている。ボーアルネによればビロンが退却を決断したのは翌30日朝。敵が再び右翼を迂回しようとする動きを見せ、さらにサン=ギスレンからも切り離そうと試みているとの情報が届き、一方で補給が全く到着せず特に騎兵が疲労困憊していることを踏まえたうえで、ビロンはキエヴルシェンに布陣しなおすため後退を決意したという(p29)。
 よりはっきりと書いているのはフォワサックで、彼によればそもそもディロンの敗北が彼らの下に知らされたのは30日の朝だったという。既に前夜の騎兵逃走劇で兵の信頼が揺らいでることを恐れていたビロンは夜明けとともに兵たちの前に姿を見せて信頼回復を図ろうとしたが、擲弾兵の中にはビロンが求めた握手を断ったものもいた。また敵は再び側面に分遣隊を送り込んでそこを脅かそうとしていた。そんな時にリールからの伝令が、トゥルネー攻撃部隊を襲った惨事と兵によるディロンや砲兵指揮官ベルトワの暗殺を伝えたのだ。将軍は士官たちにこの事実を伝えた。彼らはこのニュースが兵に伝われば同じことが起きるのではと恐れ、もはやこれ以上モンスの前面で戦って部隊を危険に晒すべきではないと判断した部隊の首脳はすぐに退却を命じた(p271-272)。

 以下次回。
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