現代の地図を見るとフランスとベルギー国境のこの地域にはオーネル(Aunelle)、少しベルギー側に入ったところには大オネル(Grande Honelle)という2つの川が南北に平行に流れている。この両河川は少し北方で合流したところでオニョー(Hogneau)川と名を変え、クレスパンの東方を流れている。キエヴレン村は大オネル川に接しているので、この川の手前だと「大砲の半分の射程」だとしても近すぎるだろう。またキエヴルシェンとクレスパン村はいずれもオーネル川、オニョー川の手前側にある。フォワサックの記述を信じるなら、フランス軍はこれらの川の手前で宿営したことになる。
一体どういうことだろうか。考えられるとしたらボーアルネがキエヴレンとキエヴルシェンを混同しているケースだ。28日にフランス軍が「右翼をキエヴルシェン、左翼をクレスパン」に配置したうえで「前面にあるキエヴレン村(キエヴルシェンではない)」を分遣隊で攻撃し、それを受けて同日中にボーリューが「キエヴレンの前哨部隊」を後退させたと考えれば、両者の証言の辻褄が合う。ただしこの解釈だと、ビロンの「29日に障害なくキエヴレンを占拠した」という話とは整合性が取れなくなってしまうし、フォワサックも28日中にキエヴレンを占拠したとは書いていない。
要するにこの問題には現状では答えられないのだ。もしかしたらボーアルネが書いた通り戦闘があったのはキエヴルシェンかもしれないし、そうではなくキエヴレンかもしれない。戦闘はなく、オーストリア軍が自発的に撤収しただけかもしれない。いずれにせよ28日、フランス軍は翌日に備えてキエヴルシェン付近で宿営した。
この宿営に関し、フォワサックは興味深いことに言及している。彼によればビロンは将官に宿営地正面の偵察をさせようとも、また哨戒線を配置しようともしなかった。合言葉も決めず、翌日の行軍に向けた準備もせずに、宿営地を巡って兵たちを鼓舞するだけにとどめたそうだ。参謀副官の1人(おそらくフォワサック本人)が注意喚起をしたところ、彼はほとんど初耳だといった様子を示したそうで、フォワサックは「廷臣にとって戦争技術はそこまで疎遠なものなのか」(p264)と呆れている。ビロンは一応、アメリカ独立戦争に参加しロシャンボーの下で戦った経験のある人物であるが、フォワサックの証言が事実ならその根っこは軍人ではなく宮廷貴族だったのだろう。
フォワサックによると左翼を率いたのはポン=タヴィス歩兵大尉で、中央はボーアルネが、右翼はフォワサックが率いた。このうち中央の部隊についてビロンは「何人かの旅人を除いて誰とも遭遇することなくブスュに到着した」(p368)、フォワサックは「フランス兵の前進に合わせ、オーストリア前哨部隊は後退した」(p265)としているが、ボーアルネは「エナン、ブスュ、サン=ギズラン及びカレニョンの防柵を相次いで攻撃した」(p28)と記している。ボーリューが29日の報告で「フランス軍はブスュで攻撃を始めた(p99)と書いているところを見るに、おそらくボーアルネ以外の記述の方が信用できる。
ブスュでの戦闘はビロンによると「村の端」で行われた。フランス側は前衛部隊のユサールが、オーストリア側は槍騎兵とティロル猟兵が衝突し、何人かのユサール兵が戦死しユサール連隊のカサノヴ中佐が乗馬を撃たれ捕虜になったという。ビロンは大砲で散弾を撃ち、槍騎兵を蹴散らして前進を続けた(p358)。ボーアルネは場所については言及していないものの、第3ユサール連隊のカズヌーヴ中佐が「村の出口で」槍騎兵に捕らえられたほか、砲兵中佐のデュピュシュが腕に銃弾を受けたと記している(p28)。
フォワサックはブスュ村での「最初の抵抗」については「長時間攻撃を支えられなかった」(p265)とだけ述べている。代わりに彼によると「中央と左翼の縦隊がサン=ギスレン修道院のある平野にたどり着いた時」に大きな抵抗が予想され、実際にユサールが生垣、柵などを突破しようとしている時に第3ユサール連隊の中佐が小さな道で捕らえられたとしている。サン=ギスレン修道院は2時間の戦闘の後にパリ市志願兵第2大隊によって奪取されたそうだ(p265-266)。結局のところこの中佐がどこで捕虜になったのかははっきりしない。
ボーリューはフランス軍攻撃されたブスュの前哨線を「支援するには遠すぎる」及び「地形的に占拠するに値しない」という理由から後退させた。彼はさらに後方でフランス軍を待ち構えるつもりだったが、実際にはル=ルー連隊の猟兵たちがカレニョン村に滑り込み、ここでフランス軍に抵抗して彼らの足を止めた。フランス軍は80発以上の砲弾を撃ち込んで猟兵たちを排除しようとしたが果たせず、オーストリア側はカレニョンとジュマップに右翼を、フラムリー村に左翼を置いて抵抗する格好になった(p99-100)。
この抵抗の様子についてビロンは、「我々に長いこと射撃してきた猟兵部隊に支援された大きな部隊がオルム[オルヌ]の防柵の前におり、私は砲撃によって猟兵を何度か黙らせた」と描写している。ただモンス前面の高地に塹壕が掘られ、多くの敵が待ち構えていることに気づいたビロンは、疲れ切った兵がここを攻めるのは困難だと判断し、「兵に少し休息を与え、期待できる理由があったモンスからのよき情報を待つ」方が望ましいと考えた(p358-359)。デュムリエら大臣たちが攻撃を急いだ一因であるフランス側の諜報活動が効果を発揮することを、ビロンもまた期待していたことがわかる。
ボーアルネはもう少し詳細にこの時の状況を記している。彼によれば2つの縦隊(既に合流した中央及び左翼と、右翼縦隊)はサン=ギスレンとワームの間で合流して戦闘配置を取った。ヴァミエル(ワミュエル)村と防柵を第89連隊の1個大隊が奪取し、さらに右翼のワームでは第1及び第49連隊の擲弾兵たちと第3ユサール連隊の分遣隊が敵の分遣隊を押し戻し、何人かの槍騎兵を殺した。また戦線正面でもいくらかの小競り合いがあり、何人かの兵と国民衛兵がティロル猟兵数人を倒したという(p28)。
フォワサックによればここでフランス軍の動きが鈍った責任の一端はビロン自身にある。将軍が布陣を選ばなかったために到着した各縦隊は主要街道と平野部で押し合いへし合いし、多大な困難と混乱が発生したという。最初に中央と左翼がそうした状態になっているところへ、隘路や森、村々を抜けるために時間を要した右翼が到着したが、他の部隊の配置が終わるまで待たなければならなかったそうだ(p266)。
フォワサックから見ると連合軍は左翼をワーム村の背後に、右翼をカレニョンの風車に配置し、兵をあちこちに動かしていた。その戦力は「歩兵1800人、騎兵1400騎から1500騎、大砲は10門だがその大半は3ポンド砲」(ボーリュー、p99)とフランス軍より少なかったが、フォワサックによるとオーストリア軍はフランス軍の誘いに乗らず、「冷静さを維持しようと試みると同時に、縦隊の先頭のみを見せることでその弱さを隠していた」(p267)。戦慣れしたオーストリア軍がうまくビロンを騙したという見解だ。
以下次回。
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