革命軍 最初の敗北 1

 以前、大陸軍の「最後の勝利」とされる戦いについて調べたことがある"https://blogs.yahoo.co.jp/desaixjp/56397791.html"。その逆というわけでもないが、フランス革命戦争におけるフランス軍の「最初の敗北」について見てみよう。1792年4月29日と30日に行われたキエヴレンの戦闘"https://fr.wikipedia.org/wiki/Combat_de_Qui%C3%A9vrain_(1792)"、及び29日に行われたマルケンの戦闘"https://fr.wikipedia.org/wiki/Combat_de_Marquain"だ。
 前者はビロン"https://fr.wikipedia.org/wiki/Armand-Louis_de_Gontaut_Biron"率いるフランス軍がヴァランシエンヌからモンスへ前進し、また後者はテオバルド・ディロン"https://fr.wikipedia.org/wiki/Theobald_de_Dillon"率いるフランス軍がリールからトゥルネーへと向かった結果として発生したものであり、オーストリア側ではそれぞれボーリュー"https://fr.wikipedia.org/wiki/Jean-Pierre_de_Beaulieu"の部隊、アッポンクール伯"https://fr.wikipedia.org/wiki/Louis-Fran%C3%A7ois_de_Civalart"の部隊が彼らに対峙した。結果はいずれもフランス軍の敗北である。
 いずれも会戦(bataille)ではなく戦闘(combat)扱いされていることからも分かる通り、本格的な交戦というよりは小競り合いに毛の生えたレベルの衝突だった。といっても小競り合いだから記録が少ないというわけではない。むしろ革命戦争最初の軍事衝突として様々な参加者の証言が伝わっており、それだけ何があったかについて調べやすい戦いである。というわけで何があったかについて双方の報告を見ながら確認していこう。

 これらの戦いはなぜ発生したのか。ロシャンボー元帥が指揮していた北方軍の日誌にはそのあたりの経緯が記されている。フランス語の原文はこちら"https://books.google.co.jp/books?id=G30ZuwZl90wC"のp210、英訳はこちら"https://books.google.co.jp/books?id=EPHFQpn8X_8C"のp60で内容が確認できる。
 それによればまずロシャンボーは、5月1日から11日の間に3つの宿営地を築けという4月15日付のフランス国王(この時期のフランスはまだ立憲君主制だった)からの命令を受け取ったそうだ。その大きさはヴァランシエンヌが1万8000人、モブージュが5000人、ダンケルクが3000人から4000人規模だった。そして20日には宣戦布告がなされ、ロシャンボーはこれらの命令を実行すべく22日に前線のヴァランシエンヌに着任したという。
 24日には陸軍大臣グラーヴと外務大臣デュムリエからの伝言も含んだ内閣の指示と国王のより具体的な命令が届いた。まずビロンの指揮下に歩兵10個大隊、騎兵10個大隊で構成される前衛部隊を編成し、彼らは30日にはモンス正面に姿を現すことになったという。また騎兵10個大隊の准将が率いる部隊も同時期にトゥルネーに進み、さらに1200人の分遣隊がダンケルクからフールネへ(おそらく陽動のため)前進することが決まった。
 またロシャンボーに対し、各守備隊からかき集められる兵をできるだけ早くヴァランシエンヌに集め、それを第2線としてビロン支援にいつでも出られるようにせよとの命令も出ていた。興味深いのはその関連で「議会がこの国[ハプスブルク領ネーデルランド]で行っている諜報活動によれば、ビロンの成功はほぼ確実だ」(p211)という言及があることだ。
 以前こちら"https://blogs.yahoo.co.jp/desaixjp/47614999.html"でも書いているが、フランス革命戦争初期におけるフランス軍の軍事作戦方針を主に決めていたのはデュムリエだった。この当時外務大臣だった彼の目標はベルギー独立であり、ベルギーで活動していた革命派の連中とも接点があったという。そしてこの作戦も彼の方針が色濃く反映されていたのはおそらく確かだろう。
 ロシャンボーはこの作戦について不満を抱いていたようだ。特に彼がパリを出発し前線に到着した後になって当初の合意より半月も開始時期が前倒しされたことに対し、明確に疑念を述べている。4月29日付で国王に宛てて記した手紙("https://books.google.co.jp/books?id=AsYBAAAAYAAJ"のp413、英訳は"https://books.google.co.jp/books?id=EPHFQpn8X_8C"のp48)では、この作戦について「大臣たちの命令によって強制された」ものであり、「その方法は向こう見ずで分別に欠ける」(p413-414)と批判をしている。

 一体なにがそんなに無分別で向こう見ずだったのか。まずは2つの戦いのうちキエヴレンの戦闘について、双方の報告書を見ながらその経緯をたどってみよう。この戦いについてはフランス側ではビロンが5月2日にヴァランシエンヌで記した報告書("https://books.google.co.jp/books?id=AsYBAAAAYAAJ"のp358、英訳は"https://books.google.co.jp/books?id=EPHFQpn8X_8C"のp44)と、彼の下で参謀副官を務めていたボーアルネの報告("https://archive.org/details/DefenseNleNord1792-1802"のp27)、そして同じく参謀副官だったフォワサック=ラトゥール(ラトゥール=フォワサック"https://fr.wikipedia.org/wiki/Antoine_Henri_Armand_Jules_%C3%89lisabeth_de_Latour-Foissac")の回想録("https://gallica.bnf.fr/ark:/12148/bpt6k1236193"のp258)といった史料があり、オーストリア側ではボーリューが上官であるベンダー元帥に宛てて記した4月29日("https://books.google.co.jp/books?id=nstFAAAAcAAJ"のp99)及び30日(p100)の報告がある。
 当初の合意より攻撃が前倒しされた点についてフォワサックは、モンスとトゥルネーという2拠点を「オーストリア軍が増援する前に奪うため」(p263)だと説明している。ビロンの指揮下にヴァランシエンヌを出発した兵力は1万人近くに達しており、その編成は以下の通り(カッコ内は部隊指揮官)。

第1歩兵連隊(ルイエール大佐)
第18歩兵連隊(トゥルヴィユ大佐)
第49歩兵連隊(カサビアンカ大佐)
第68歩兵連隊(モンショワジー大佐)
第74歩兵連隊(フライターク大佐)
オルヌ県[志願兵]第2大隊
オルヌ県第3大隊
パリ市第2大隊
ノール国民衛兵大隊[複数]
第3騎兵連隊
第5竜騎兵連隊
第6竜騎兵連隊
第3ユサール連隊
砲兵隊(デュピュシュ中佐)大砲30門
工兵隊(ラフィット大佐)

 一方、こちら"https://books.google.co.jp/books?id=pgBHTw-emIIC"に掲載されているDer Feldzug in den Niederlanden bis Ende Juliによれば歩兵連隊では第68連隊の代わりに第89連隊がおり、また志願兵関連でいたのはパリ国民衛兵第1及び第2大隊とエノー国民衛兵大隊、そして騎兵では第3騎兵連隊の代わりにエノー義勇騎兵部隊で構成されていたという(p10)。
 フォワサックはモンス攻撃のために行軍を始める日が27日に定められたとしている(p262)が、ボーアルネはビロンがヴァランシエンヌを出発した日は28日と書いており(p28)、ビロン自身も「4月28日に、ここで述べる師団とともに私はキエヴレンに近いキエヴルシェンを占拠した。29日、何の障害もなくキエヴレン村を奪い」(p358)と報告に書いており、最初に動き出したのが28日であることは間違いないと思われる。

 以下次回。
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