妄説 保元の乱 5

 承前。新しいルールを適用するための「最後の手続き」は、結局のところ上皇側では進まなかった。
 といっても天皇側もスムーズに「新ルール」への対応が進んだわけではない。武士たちは一斉に集まってきたが、命令を下すべき既存権力の動きは鈍かった。大貴族の大半はそもそもその場に現れず、忠通たちのみが遅い時間になってようやく渋々と現れただけ。しかも愚管抄"http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/991104"によれば彼はその後に行われた軍議において完全にフリーズしてしまい、全く決断を下せなくなっている(255/618)。愚管抄には実能もいたことになっているが、実際には彼が到着したのは軍勢が進発した後だ(兵範記"http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1918082" 64/182)。
 他に軍議に参加していたのは愚管抄によれば後白河と信西(255/618)、兵範記によれば清盛(10日条、ただし朝方の軍議)となる。またどちらにも名前は出てこないが、忠通の息子である近衛基実"https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%BF%91%E8%A1%9B%E5%9F%BA%E5%AE%9F"もいた可能性はある。ただし記録に出てこないところを見ると役には立たなかったのだろう。彼も、その父の忠通も典型的な大貴族であり、「大貴族のルール」には精通していたかもしれないが、新しいルールを理解していたとは思えない。他に方法がないからこの場に来ただけであり、彼らに決断する能力はなかったのではないか。
 もちろん信西にも新ルールを承認する権限はない。だから愚管抄の彼は「庭に候ていかにいかにと申」すことしかできない(255/618)。この時点で殿上人であったという記録が見当たらない彼が、保元物語"http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1018053"のように「御前の床に候」(43/466)ことなどできようはずもなく、だから庭から煽り立てるしかないのだ。だが彼や義朝がどれほど焦っても、ルールが理解できない忠通は決断を下せなかった。そうこうするうちに日付も変わる。信西も、頭を掻きむしって訴えた義朝も、そして一世一代のギャンブルに出た清盛も、この状況にはさぞや焦ったことだろう。そんな中、最後にルールが変わったと宣言したのは後白河天皇だった。
 後白河もルールが変わったことを受け入れるのに時間がかかった。もし崇徳院が動いた時点でルールの変化に気づいていたなら、10日のうちにさっさと攻撃を命じていたはずである。それをせず、フリーズした忠通の判断をじりじりと待ち続けたのは、後白河にとってもルールの変更を受け入れるのが大変だったことを意味しているのだろう。だが後白河は他の大貴族プレーヤーたちとは異なる経歴を持っていた。若い頃の彼は継承権とは無縁で、そのために大貴族だけでなく幅広い階層との付き合いがあったという"https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%BE%8C%E7%99%BD%E6%B2%B3%E5%A4%A9%E7%9A%87"。おそらくはそれゆえに彼は崇徳院や忠通、頼長といった大貴族たちより柔軟な発想ができた。11日になって彼が口にした「さらば疾く追い散らし候へ」(愚管抄 255/618)という言葉は、武士が主導する新ルールの適用を高らかに宣言するものとなった。
 ちなみに愚管抄の英訳"https://books.google.co.jp/books?id=w4f5FrmIJKIC"ではこの言葉をEmperorつまり天皇が命じたことになっている(p102)が、愚管抄そのものを見ると主語が省略されているため明確に誰の発言かを判断するのは難しい。中には忠通の言葉と見る解釈もある。だがこれが忠通の言葉だとした場合、最終的に大成功に至ったこの決断を下した人物が、保元の乱以降にどんどん実権を失っていったことへの説明がつかなくなる。そうではなくこれを後白河が言ったと解釈すれば、忠通のこの後の低迷も説明しやすい。要するに忠通は後白河から見捨てられたのだ。いざという時に役に立たない人物として。
 そう、後白河はこの時、大貴族がいかにあてにならないかを心底思い知らされたのだ。彼を支えようとしたのは中下級貴族の信西であり、それまでは大貴族の道具に過ぎなかった武士たちだった。だからこそ保元の乱が天皇側の勝利に終わった後で信西が一気に政治舞台の中央に躍り出し、また武士たちが駒からプレーヤーへと昇格したことが明らかになったのだろう。百錬抄"http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/991104"に書かれているように、乱の後は「信西之謀」(54/618)が政治的判断に大きな影響を及ぼすようになった。彼が「世を取りてありける」(愚管抄 256/618)時代が訪れたのである。

 長々と述べてきたが、以上が「保元物語を完全に排除して」再構築した保元の乱の流れだ。もちろんこれは空想、妄想の類であり、これが史実だった可能性は決して高いとは言えない。だが保元物語がほぼ完全なフィクションであり、その内容が「最終的に得をした信西こそ黒幕的存在のはずだという陰謀論」に基づいたものだとすれば、ここで紹介した「空想、妄想」にも事実が含まれている可能性が出てくる。
 そう、保元物語は非常に陰謀論的色彩の強い作品なのだ。だからこそ個人的にはその主要な内容がフィクションに見えてならない。もし保元物語がそれなりに事実を反映しているのだとしたら、信西が乱の前からかなりの権限を持っていたことを想定しなければならなくなる。それを裏付ける手段として持ち出されたのが愚管抄に書かれた「信西への鳥羽院の遺言」であり、さらには(保元物語にすら存在しない)後白河即位を策謀したのが信西という説の登場だろう。陰謀論を成立させるためさらに時代を遡って陰謀論の存在を仮定するという「陰謀論の重箱」状態だ。
 だがこれまで指摘した通り、鳥羽院の遺言は信西を「仕切り役」に任命したものではなく、あくまで「助言役」に指名したものと読むことができる。そして同じ愚管抄における作戦会議の場面を見る限り、彼には決定権はなかった。彼を黒幕的な存在とみなすよりただの助言役と見る方が筋が通るし、その役目ですら初七日が行われた8日以前に失っていた可能性がある。
 義朝を使嗾して東三条殿に押し入らせたという想定が正しいなら、信西には野心とそれを実現するだけの能力があったことになる。だが不満分子である武士を暴走させるのと、天皇側の行動全体を差配することとの間には大きな差がある。それを埋め合わせるほどの異常事態が生じない限り、信西がそこまで大きな権力を手に入れることは考えられない。その異常事態こそ11日未明の「後白河の決断」だった。大貴族が頼れないのなら、この野心的陰謀家を使うしかない。絶望の中で後白河が下した結論がそれであり、それこそが信西の大権力につながった。信西が乱の「全てを取り仕切っていた」という陰謀論に頼るより、政争のルールが変わるという大きな時代の流れの中で誰もが予想しなかった結果として、この中下級貴族の手に大きな権限が転がり込んだと考える方が、まだマシに思える。

 さらに大きな視点で考えるなら、この時に起きたことは「永年サイクル」におけるエリート過剰とそれがもたらした混乱だと解釈できる。既存エリートたちが家柄を理由にエリートとしての地位を独占している状況下で、新興エリートたる中下級貴族や武士たちの不満がたまっていた。院政は彼らが院近臣としてある程度の力を振るう機会を与えたという意味でガス抜きにはなっただろうが、根本的な改革ではなかったためエリート過剰に伴う不満は常にたまっていたと見られる。
 それに点火するきっかけとなったのが既存エリート間の分裂だったというあたりも、典型的な永年サイクルの危機フェイズに起きた出来事だといえる。こちら"https://en.wikipedia.org/wiki/Demographic_history_of_Japan_before_the_Meiji_Restoration"にあるBirabenの人口推計によれば院政期は人口が減少していたことになり、危機フェイズに当てはまる可能性がそれだけ高くなる。
 もちろん、危機フェイズの出来事にしては死者が少ないという指摘はあるだろう。既存エリートのうちこの戦いで死んだのは頼長だけ。それ以外に武士たちが処刑されたが、彼らはせいぜいがところ新興エリートにすぎない。このあたりは外敵による侵攻懸念が少ない日本ならではの現象と考えるべきなのだろう"https://blogs.yahoo.co.jp/desaixjp/56464313.html"。それでも「政争ルール」が大きく変わるほどの事態に立ち至ったのは、そういう構造的な課題が表に噴出してきた事件だったからだ。
 崇徳院は讃岐に流された後で怨霊となり、「皇を取って民とし民を皇となさん」と呪いをかけたという"https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B4%87%E5%BE%B3%E5%A4%A9%E7%9A%87"。だが実のところ、彼は後から呪う必要などなかった。エリートの内部抗争は既存エリートの没落と対抗エリートの躍進をもたらす。だから彼が後白河に対抗して白河殿に移った時点で、やがて武士が実権を握り天皇も貴族も隅に追いやられる時代が到来することは決まっていた。武力行使が行われるより前の時点で、既に呪いは発動していたのである。
スポンサーサイト



コメント

非公開コメント

トラックバック