妄説 保元の乱 4

 承前。崇徳院の白河殿への移動は、ほとんど誰も気づかぬ内に「権力争いのルール」を変えていた。
 崇徳院の移動に関するニュースは兵範記"http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1918082"の7月10日条に「是日来風聞、已所露顕也」(64/182)とあるように、10日には知られるようになった。崇徳院が最初に連れてきたのは平家弘"https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B9%B3%E5%AE%B6%E5%BC%98"ら院近臣のみ。続いて合流したのが源為義の一族だ。保元物語"http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1018053"によれば教長が為義邸を訪れて説得したことになっている(37/466)が、為義が摂関家の家人であったことを踏まえるなら、実際は頼長の要請を受けて一足先に参上した可能性もある。頼長自身は晩頭になってようやく到着したが、これは宇治からやってくるため時間を要したのが理由だろう。ちなみに平忠正も頼長と同じ頃に到着したようだ。
 一方、政権側では動いたものとむしろ動きを止めたものの両方がはっきりと分かれた。それまでの挑発を急に止めて様子見に転じたのが美福門院グループの大貴族たち。彼らのうちこの10日のうちに天皇側に参上したものは1人もいない。今まで連携して崇徳院や頼長に対する挑発を展開していた彼らが、ことここに至っていきなり腰の引けた姿勢になっていたことがわかる。なぜか。これまでも説明した通り、義朝の暴走による東三条殿押し入りと、それを受けた崇徳院の行動とが彼らの姿勢を変えたと見られる。
 6月に最初に兵の動員をかけたのは鳥羽院であり、彼と最も近しかった美福門院グループこそが当初は政局を主導していたと見られる。上皇左府同心の噂が流れた5日(兵範記 63/182)に鳥羽殿に兵を集めたのも彼らであり、挑発行動も元々は彼らが最初に旗を振ったと考えられる。だが8日になって、助言役に指名されながらも大貴族たちから排除されていた信西と、大貴族がただの「道具」だと思っていた義朝が暴走する。つまり飼い犬に手を噛まれたわけだ。さらに崇徳院が動いた結果、事態の主導権が彼らの手を離れてしまった。
 このような状況下で取り得る策は2つある。再び積極的に動いて主導権を取り返すか、むしろ手を引いて状況の推移を見守るか。美福門院グループは後者を選択した。グループの構成メンバーが大貴族たちだったのが、この消極的選択の背景にあるのだろう。負けても失うものが少ない信西、義朝と違い、大貴族たちは「持てる者」だ。ギャンブルに勝てればいいが、負けた時の損失が多すぎるのである。プロスペクト理論によれば人は損失回避を優先する傾向を持つ。それまでイケイケで挑発に興じていた大貴族たちは、先行きが不透明になるや否や慌てて「ケン」に転じたのである。
 本音でいえば同じように行動したかったのが関白グループだろう。彼らも大貴族であり、負けて失うものが多い。ただ残念なことに美福門院が持っていたものを忠通は持っていなかった。前者が守仁親王を既に立太子していたのに対し、後者は藤氏長者の地位をこれから奪い返さねばならなかったのだ。「ケン」に回ってしまえば、長者の地位を取り戻す機会も失われる。彼らが10日の遅い時間になって天皇側に参集した(兵範記 64/182)のも、結局そうやって賭けに乗る以外に欲しいものを手に入れる方法はないと判断したためだろう。
 それでも関白グループには、参加するか「ケン」に回るかを選択する自由があった。それすらなく、いきなり非常事態に放り込まれたのは後白河天皇だ。崇徳院の白河移動に最も恐怖したのは彼に違いない。それまでの後白河はかなり余裕をもって今回の政争に臨んでいたと思われる。天皇という公的には最も権力のある地位を確保し、有力貴族たちとの同盟をキープし、武力も圧倒的に優位にある。そして忠通と違い、今動かなければ欲しいものが手に入らないというほど切迫もしていない。挑発にもかかわらず崇徳院は動いていなかったわけで、じっくり構えていれば治天の君になれる、と事態を楽観していてもおかしくない状況だ。
 ところがその崇徳院が動いた。後白河に対抗するという姿勢を明確に示したのだ。しかもそれと歩調を合わせるように美福門院グループが手を引き、様子見に転じた。関白グループも最後まで躊躇している。「大貴族の政争ルール」における重要なプレイヤーたちが次々と彼を見捨てるか、見捨てる準備をしているかのように見える状況だ。おそらくこの追い詰められた状況が、最後に後白河にある決断をさせた。それは新しいルールの適用を宣言する決断であり、武者の世の到来を告げる決断だった。

 彼ら既存のプレイヤーたちが右往左往しているのを後目に、まさに我が世の到来とばかり激しく動いたのが武士たちだ。最初からこの政争に深く入り込んでいた義朝、義康に続き、この日は平清盛、源頼政、源重成、源季実、平信兼、平惟繁と武士たちが続々高松殿に集まっている。これらの軍勢によって晩頭には「軍如雲霞」(兵範記10日条)になったというから、武士たちが一気呵成に動き出したのは確かだろう。もちろんその大半は信西らの檄に応じて動いた可能性が高い。
 だがより積極的に動いた可能性のある人物がその中にもいる。清盛だ。彼はこの時点に至るまで兵範記の記事にも名前が出てこない。6日に親治を捕縛した人物として息子の基盛の名が出てくる(兵範記 63/182)ものの、これも積極的に動いたというより洛中周辺の警備に当たった結果としてたまたま親治を捕らえただけと見られる。だがこの10日の清盛はそうではない。彼は実に300騎もの兵力を率いて天皇側に参上した(兵範記 64/182)。それまで天皇側の軍事力の中心となっていた義朝の200騎を上回る数だ。ここから清盛の狙いが見て取れる。彼は乱の主導権を握ろうとして動いたのだ。
 清盛は義朝や信西に比べれば「持てる者」である。その出世の速さは父親である忠盛をしのいでおり、父親がなれなかった公卿への道も見えていた。彼が武士でありながらここまで政争に対して「ケン」にとどまっていたのも、持たざる者であった義朝のように「無理にでも動かなければ道が開けない」という立場ではなかったからだ。だがその清盛がこの時は動いた。もしかしたら彼は「ルールが変わった」ことを敏感に察し、武力行使の現場にいることが勝利への道だと見抜いたのかもしれない。
 保元の乱でギャンブルに打って出た連中はほぼ全員「持たざる者」である。それは皇族や大貴族でも変わらない。追い詰められた崇徳院や頼長は白河殿に移ることで勝負に出た。忠通は藤氏長者を「持たなかった」ゆえに天皇側に参じた。後白河はいきなり大貴族たちから見捨てられ、自ら動くしかなくなった。唯一の例外は清盛だ。彼は「持っている」にもかかわらず、天皇側武力の主導権を自ら掌握すべく動いた。つまりギャンブルに出た。
 もし保元の乱で天皇側が負けたらどうなっていただろうか。清盛はこの乱に最大の戦力を、つまり最大の掛け金を乗せていたわけで、負ければかなり多くのものを失ってしまった可能性がある。逆に「ケン」を続けていれば、主導権を握って勝つことはできないが大負けもない。ヒューリスティック的には損失を限定するべく「ケン」を続けるのが正しい。にもかかわらず敢えて勝負に出たということは、彼が真性のギャンブラーだったからだろう。保元の乱において最も大胆な賭けに出たのは彼だと思う。

 かくして権力争いに関する「大貴族のルール」は放棄され、新しく「武士のルール」に従う時代が来た。だがこの新ルールはすぐに適用されたわけではない。そのためには最後の手続きが必要だった。武力行使を既存権力が承認するという手続きだ。上皇側ではこの手続きは進まなかった。愚管抄"http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/991104"にあるように為義が提案した軍事的な慎重策、及び積極策は、頼長によって否定された(254-255/618)。頼長はその論拠として「近く大和の軍勢が到着する」という軍事的な理由を掲げたが、これを「大和の軍勢が来れば武力行使をする」という意味に捉えるのは間違いだろう。頼長にとって武士はあくまで「駒」であり、大和の軍勢到着は自分たちの手駒を増やすという意味しかなかったはずだ。
 もし武力行使が前提になっていたのであれば、頼長は危険な白河北殿にとどまることなく、為義の最初の提案に従って宇治へと後退していただろう。その方が少ない手勢でも防御しやすく、大和の軍勢との合流も早い。そうしなかったのは、白河を去ることで洛中の大貴族たちに見捨てられることを恐れたためだろう。あくまで「大貴族のルール」、つまり武力は見せるだけのものであって使うことはないという暗黙の了解を前提に考えるなら彼の判断はおかしくないし、崇徳院や教長も同じ判断から白河にとどまった。要するに上皇側はルールが変わったことに気づかなかったのだ。武力で圧倒的に不利だった彼らに勝機があるとすればこの「新ルール」を真っ先に活用することにあったと思われる。それができなかった彼らは保元の乱の敗者となった。

 以下次回。
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