妄説 保元の乱 3

 承前。信西は権力の座に近づくべく、源義朝と組んで一種の「クーデター」を試みる。
 それは鳥羽殿で華々しく鳥羽院の初七日が行われたのと同じ7月8日に起きた。兵範記"http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1918082"によると「蔵人左衛門尉俊成並義朝随兵等」が、摂関家の邸宅であり頼長の所有物であった東三条殿"https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9D%B1%E4%B8%89%E6%9D%A1%E6%AE%BF"に押し入ったのである(64/182)。これまで人の捕縛はあったが明白に崇徳院や頼長側の拠点に兵が押し入った例はない。あくまで武力は「見せるだけ」にとどめていた天皇側がついに一線を越えたと考えられる出来事なのだが、では一体誰がこの行動を決断したのかというと、実はよくわからないところがある。
 頼長を攻撃している点では忠通の意向が反映された行動だと考えるのが一番素直だ。しかし問題は、忠通に義朝を動かす力があるとは思えないこと。義朝は「院宣」によって禁中に詰めていたわけであり、つまり彼に命令を下せるのは本来は鳥羽院だったことになる。もちろんこの時点で鳥羽院は既にいないのだが、だからといって忠通が勝手にこの兵を動かしていいわけでもなかろう。以前、忠実が東三条殿に乗り込んだ時には家人である源為義を伴っていた。今回の襲撃も忠通の家人が行ったのであれば彼が主導したと説明がつくのだが、そうでない以上は彼の意向でない可能性がある。
 ならば美福門院グループか。これも考えにくい。まず頼長は彼らにとって不倶戴天の敵ではないし、またこの日は彼らが全力を挙げて取り組んでいる初七日の真っ最中だ。自分たちにとって主要な利益に当たらない東三条殿押し入りを、こんな日に行うメリットが彼らにあるだろうか。この後、乱における彼らの動きが一気に鈍るのを見ても、彼らにとってもこの出来事と、その後に生じた事態が想定外だった可能性がある。
 後白河天皇はどうか。こちらはまだあり得る。何しろ東三条殿は後白河の内裏となっている高松殿にすぐ隣接しており、ここを拠点に反天皇派が策動するような事態に陥ると自らの身が危険に晒されかねない。また院宣で動員された兵力ではあるが、後白河が自分こそ治天の君になったと判断して命令を下せば、義朝もそれに従わざるを得まい。ただ後白河にとっての主要な敵はあくまで崇徳院であり、頼長ではない。また後白河自身は天皇という公的権威のトップに位置しており、無理に動かないと追い詰められるという状態にはなかった。彼が自ら積極的に最後の一線を踏み越え、「上皇左府」との対立を決定的にするメリットは、あまりないように思える。
 東三条殿に踏み込む権限あるいは動機が主要3グループにないとしたら、では誰がこの押し込みを主導したのか。押し込みを行うことで予想されるのは、先行きの不透明化と事態の不安定化だ。「没官」という手段を使えば頼長は謀反人扱いされるという説もある。そうなればここまで様子見しかしていなかった頼長も徹底抗戦せざるを得なくなる。政治的駆け引きを通り越して現実の武力行使への道筋が一気に現れかねない事態になるのだ。そしてそうした事態を良しとする勢力が、実は天皇側にもいる。武士と中下級貴族たち、具体的には義朝と信西だ。

 戦争したくして仕方なかった義朝の様子は愚管抄("http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/991104" 255/618)などにも描かれている。彼はそもそも院宣に従って6月初めの時点から武力動員に踏み切っており(兵範記7月5日条)、この抗争に1ヶ月以上関与している。もしこれで最終的に武力が使われることなく権力争いが一段落し、双方とも武装解除に至るとしたら、この1ヶ月超の努力はすべて無駄に終わるわけだ。そうでなくても出世のために親と対立してまで院勢力に与した彼が、この機会を最大限に利用したいと考えても不思議はない。
 その彼に入れ知恵した可能性があるのが信西だ。彼の名はこの東三条殿押し入りには出てこないが、実は義朝と一緒に踏み込んだ蔵人の俊成という人物が信西と関係している可能性がある。この蔵人のフルネームは、兵範記の久寿3年3月29日条によると「左衛門尉高階俊成」(51/182)。知っての通り、信西はかつて高階氏の養子となったことがある。その時に縁ができた人物を使い、さらに義朝とも気脈を通じたうえで、事態を不透明化させるための暴挙に踏み切る策を吹き込んだ。そうは考えられないだろうか。
 信西と義朝が目指したのは、大貴族たちによってコントロールされる「権力争い」を自分たちのステージ、つまり武力闘争の場まで引きずりおろすことだ。そうすれば自分たちが主導権を握る可能性が見えてくる。武力がただ見せるだけのものであり続けている間はそうは行かない。大貴族たちの駆け引きの道具として終わるだけだろう。でも実際に武力が行使されれば話は変わってくる。もちろん武力行使には高いリスクが伴うが、もともと低い地位にある義朝、助言役としての仕事すら奪われた信西にとって負けても失うものはほとんどない。逆に勝てばまさに一攫千金だ。ギャンブルに打って出る動機は、彼らには十分ある。
 ではなぜ彼らは事態を不透明化させるために「東三条殿」を選んだのか。おそらくここが政権側3グループの連携を乱す最も弱いリンクだと見抜いたからだろう。ここに一番の利害を持つ忠通は、同時に3グループの中で最も「現状を打破したい」という強い動機を持つ存在である。武士が暴走しても忠通はついていかざるを得ない可能性が高い。また後白河にとっても東三条殿は高松殿に隣接する邸宅であり、そこの安全確保を理由にすれば天皇の同意も得やすい。鳥羽院の初七日が行われている日に行動に踏み切ったのも、美福門院系の大貴族たちが動けない政治的空白を利用したかったためだろう。
 そして彼らは賭けに成功した。東三条殿で怪しげな修法をしている人物が見つかり、政権側(特に後白河)の頼長に対する不信がさらに募ったのだ。ただし個人的にはこれすらも信西の仕込みだった可能性があると思う。しかしそれよりも大きかったのは、予想外の人物による過剰反応だった。その人物とは崇徳院である。この崇徳院の衝動的ともいえる行動が、保元の乱の行く末を、いやそれだけでなく慈円の言う「武者の世」(愚管抄 248/618)の誕生を決めた。

 兵範記によると崇徳院が動いたのは7月9日の夜半だ。彼は鳥羽田中御所を離れ、密かに白川前斎院御所へと移ったのである(さらにその後で白河北殿へ動いた)。この動きはかなり急なものだったそうで、「上下成奇、親疎不知」(64/182)と誰もが驚愕した。何しろ崇徳院は息子の重仁親王も連れて行かなかったようで、彼の名はこの乱でもほとんど出てこない。崇徳院にとって重仁は次の天皇候補という大事な存在のはずなのに。
 崇徳院の行動については、そのまま鳥羽にとどまっていれば拘束される危険があったためとか、白河の地に行くことで自らが新たな治天の君になることを宣言し、去就を明らかにしない貴族層の支持を期待したものと推測されている。ただしなぜ「9日の夜半」だったのかについての説明はそれでは不十分だろう。頼長の白河到着が10日晩頭と崇徳院に比べてかなり遅れ、さらに頼長が頼った大和の兵力が最終的に乱に間に合わなかった点から見ても、両者が示し合わせた結果の動きではない。何か別の理由があったと思われる。
 その理由こそ信西と義朝による8日の「暴走」だったのではないか。実はこの動きによって政権側3グループの足並みが乱れ、彼らの間に一種の不和が生じたと考えられる。この後、美福門院グループの貴族たちは後白河と微妙に距離を取り、関白グループも非常に優柔不断な姿勢を見せるようになる。その空白を埋めるように一気に存在感を増すのが武士たちであり、信西のような中下級貴族であったのだが、大貴族たちの連携に生じた隙間は、後白河即位以来ずっと追い詰められていた崇徳院にとっては絶好のチャンスに見えたのではないか。
 もちろん彼の決断は熟慮の結果ではないし、大慌ての決断だったため重仁を置き去りにするという失態も犯している。それでも彼の突発的な行動を評価する貴族がいたことは確かだ。一人はもちろん頼長。彼は大和からの増援が届く前に白河殿へと駆け付けている。崇徳院に合流することで自分自身の追い詰められた状況を改善できる可能性を見て取ったからだろう。もう一人は兵範記の10日条に出てくる左京太夫教長"https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%97%A4%E5%8E%9F%E6%95%99%E9%95%B7"。正三位の地位にある彼が参上したということは、貴族層の支持を得られると見た崇徳院の情勢判断が間違っていなかった証拠だ。
 しかし崇徳院が想定していなかったこともある。彼はあくまで平安時代を通じて行われた「権力争いのルール」、つまり大貴族がプレイヤーとなり、武力を単に政治的駆け引きの道具として使うやり方を前提として判断した。それは崇徳院に合流した頼長、教長も同じだろう。白河殿にやってくるということは、鴨川の対岸に集結している天皇側の武力がすぐ届くところに入り込むことを意味する。後世から見れば飛んで火にいる夏の虫だが、にもかかわらず大貴族たちがそう動いたということは、実際に武力が行使される可能性は低いとにらんでいたことを示す。
 だがルールは変わっていた、というか崇徳院の行動がルールを変えた。政権側にとってあまりに予想外であった彼の行動が、武力行使が行われる確率を一気に高めていたのだ。もはや「大貴族のルール」は通用しなくなり、新たに「武士のルール」が適用される時代が始まろうとしていた。しかし崇徳院らにそれを早々に察しろと求めるのは無理だろう。他の大貴族たちも誰一人として新しいルールの存在に気づいていた様子はないのだから。

 以下次回。
スポンサーサイト



コメント

非公開コメント

トラックバック