信西黒幕説?

 「保元物語」というラノベを除外して考えると、保元の乱における源為朝はとても存在感の薄いキャラになる、ということを前に述べた"https://blogs.yahoo.co.jp/desaixjp/56744414.html"。実は為朝ほどではないが「保元物語を除くとキャラが薄味になる」人物が他にもいる。天皇側の軍師的なポジションにいる人物、信西だ。
 保元物語の信西は天皇側の事実上の指揮官であり、彼らの軍事的、政治的な動きのほとんどを自ら差配している。後白河天皇自身はもとより、その周辺にいる有力貴族たちも、保元物語の中では単にそこにいるだけで具体的な言動はほとんど記されることがない。天皇側が下した決断はほぼすべて信西が下したようなものだ。そのせいか、保元の乱は天皇側の挑発によって始まったとしているwikipedia"https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%BF%9D%E5%85%83%E3%81%AE%E4%B9%B1"でも「実際に背後で全てを取り仕切っていたのは側近の信西と推測」しているし、信西に関するwikipedia"https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%BF%A1%E8%A5%BF"も、彼が「崇徳上皇・藤原頼長を挙兵に追い込」んだと書いている。

 具体的に保元物語"http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1018053"から信西の動きを追ってみよう。まず7月5日、内裏に集まってきた武士たちを相手に「少納言入道」(信西)がその配置を命じている。例えば「義朝義康は内裏に候ひて、君を守護し奉れ。其の外の検非違使は皆関々へ向ふべし」(35/466)といった具合だ。
 次に出てくるのは有名な夜襲をするか否か論じる場面。信西は「御前の床に候ひけるが、殿下の御気色を承つて」(43/466)義朝が提案した夜襲を採用してみせる。というか「武士は皆々罷り向ふべし」と言い切っているあたり、いくら関白忠通の様子をうかがったうえでの発言とはいえ、作戦決定権が信西にあるようにしか見えないし、そのうえに「日来申す所の昇殿に於ては、疑ひあるべからず」と恩賞の件まで勝手に約束している。まるで信西が天皇本人であるかのようなふるまいだ。
 さらに義朝が白河北殿に火をかける許可を求めた時にも信西が「君の君にて渡らせ給はば、法勝寺程の伽藍をば即時に建立せらるべし」(52/466)と勝手に寺の再建を保証している。一体どれほどの権力を持っているのやら。逃げ延びた上皇側の連中を誘い出すため「其の人は其の国、彼の人は彼の国と(配流先を)定めらるる由」を噂に流す場面もあり(58/466)、もうやりたい放題といったところ。
 そして最後の仕上げが死刑の復活である。鳥羽院の四十九日の間でもあるし死刑は避けるべきといった意見に対して信西は「多くの兇徒を諸国へ分け遣はされば、さだめて猶兵乱の基たるべし」と理屈を述べたうえで「其の上非常の断は、人主専にせよといふ文あり、世の中に常あらざる事は、人主の命に従ふと見えたり」(63/466)と主張し、347年ぶりの死刑を執行した。以上、保元の乱における天皇側の重要な意思決定において、その大半を取り仕切っているように読めるのが保元物語の信西である。

 ほとんど万能の存在と化している保元物語の信西イメージは、そのまま史実の保元の乱において信西が果たした役割に関する歴史家の評価と重なっているようだ。こちら"https://bizgate.nikkei.co.jp/article/DGXMZO3303347016072018000000"では中世史の学者が保元の乱を「政権側からのクーデター」と規定したうえで、「後白河天皇側の藤原信西が崇徳上皇、藤原頼長らを挑発し、事変の責任を押しつけ」たという解釈を述べている。
 さらに信西の謀(はかりごと)はもっと昔に遡るという説もある。保元の乱の1年前、近衛天皇の後継者として雅仁親王(後白河天皇)が選ばれた背景には「雅仁の乳母の夫で近臣の信西の策動があったと推測される」と保元の乱のwikipediaには書かれているし、美福門院の項目"https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%97%A4%E5%8E%9F%E5%BE%97%E5%AD%90"にも「権力の掌握を目指す信西らの策謀があったと推測される」としている。
 だがこの美福門院の注釈5を読むと意外なことがわかる。この「信西が後白河即位のために策謀した」説の論拠として紹介されているのは戦後の研究者が書いた本であり、一次史料でないどころか同時代の史料ですらない。逆にそこで紹介されている同時代やそれに近い時代の史料に書かれている説を見ると、どれ一つとして「信西」の名を挙げていないことがわかる。それこそラノベ保元物語ですら、取り上げているのは別人の名だ。
 曰く「美福門院の御計らひにて、後白河院(中略)御位に即け奉り給ひしかば」(31/466)というわけで、保元物語によれば美福門院こそが後白河即位の立役者となる。これはラノベ保元物語よりも真っ当な史料にも見られる説で、中山忠親の日記「山槐記」"http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/949544"には後に藤原伊通"https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%97%A4%E5%8E%9F%E4%BC%8A%E9%80%9A"から聞いた話として、後白河と二条の即位が美福門院の「恩」であったとされている(88/164)。
 もう一つの説として見られるのが関白藤原忠通が相談に乗ったという話。愚管抄"http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/991104"にある「一向に法性寺殿に申合せられける」(253/618)と、玉葉"http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1920201"にある「鳥羽院被問仰此法性寺入道相国」(316/346)がそれだ。玉葉の筆者、九条兼実"https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B9%9D%E6%9D%A1%E5%85%BC%E5%AE%9F"は愚管抄の筆者、慈円"https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%85%88%E5%86%86"と兄弟であり、そして2人とも他ならぬ忠通の息子だ。「忠通が鳥羽院から4回も問い合わせを受けた」という内容も似ており、彼らの話はおそらく父親から聞いたものだろう。
 より信頼度の高い兵範記"http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/949532"には、天皇後継者を選ぶため鳥羽院が開いた「王者議定」の場に「入道右府、権大納言公教卿等」が招集されたとある(170/184)。前者は源雅定"https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%BA%90%E9%9B%85%E5%AE%9A"、後者は三条公教"https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B8%89%E6%9D%A1%E5%85%AC%E6%95%99"のことであるが、彼らはそれぞれ美福門院の皇后宮大夫と彼女の従兄弟であり、要するに美福門院派と見られる貴族たちである。
 信頼度の高い同時代日記から、フィクションと見られている後の時代の「物語」に至るまで、後白河即位に貢献した人物として名前が出てくるのは美福門院(及び彼女と親しい貴族)もしくは関白忠通のどちらかだけである。そして彼らがこの時点で天皇の後継者指名に大きな影響力を働かせるのはおかしくも何ともない。前者は当時の最高権力者の寵愛を受けていた女性であり、後者は天皇を補佐する公的な職務に就いている摂関家の人物だ。
 一方、この時期の信西はあくまで鳥羽院に仕える出家にすぎない。鳥羽院の信認を受けていたことは事実であろうが、だからと言って彼が皇位継承を主導できるほどの権限を持っていたという証拠はない。実際、信西のwikipediaの脚注5には「当時(後白河即位以前)の信西には皇位を動かすだけの政治力は無かった」という学者の説も紹介されている。当時の史料、どころかラノベ保元物語にすら信西の名前が出てこないことを踏まえるなら、むしろ当然の判断だろう。

 にもかかわらずなぜ信西が後白河即位を策謀したという説が生まれてきたのだろうか。「この犯罪で最も利益を得るものが犯人」という理屈はホームズの頃からあったというが、それと同じ発想が働いたのではなかろうか。後白河の乳母の夫であった信西にとって、後白河の即位は自らの政治的地位向上につながるものだったに違いない。1年後の保元の乱で保元物語にあるような強大な権限を振るっていたのだとすれば、後白河の即位こそがそれをもたらしたのだ。そういう発想から「後白河即位も信西の策動、策謀」という説が生まれたのだと考えられる。
 だがこの理屈の展開はまるで「陰謀論」ではなかろうか。最終的に利益を受けた人間が犯人だという理屈から、例えば本能寺の変は最終的に天下を取った秀吉の陰謀であるとか、関ケ原戦役において家康は畿内を留守にする隙を見せて石田三成の挙兵を誘ったという話が生まれてきたが、いずれも論拠に乏しい。それと同じことは「信西こそ後白河即位の黒幕」説にも当てはまる。信頼できる史料に全く名前が出てこない人物を「策動、策謀」の中心に据えるのは、さすがに空想が過ぎるように思う。
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