次に出てくるのは有名な夜襲をするか否か論じる場面。信西は「御前の床に候ひけるが、殿下の御気色を承つて」(43/466)義朝が提案した夜襲を採用してみせる。というか「武士は皆々罷り向ふべし」と言い切っているあたり、いくら関白忠通の様子をうかがったうえでの発言とはいえ、作戦決定権が信西にあるようにしか見えないし、そのうえに「日来申す所の昇殿に於ては、疑ひあるべからず」と恩賞の件まで勝手に約束している。まるで信西が天皇本人であるかのようなふるまいだ。
さらに義朝が白河北殿に火をかける許可を求めた時にも信西が「君の君にて渡らせ給はば、法勝寺程の伽藍をば即時に建立せらるべし」(52/466)と勝手に寺の再建を保証している。一体どれほどの権力を持っているのやら。逃げ延びた上皇側の連中を誘い出すため「其の人は其の国、彼の人は彼の国と(配流先を)定めらるる由」を噂に流す場面もあり(58/466)、もうやりたい放題といったところ。
そして最後の仕上げが死刑の復活である。鳥羽院の四十九日の間でもあるし死刑は避けるべきといった意見に対して信西は「多くの兇徒を諸国へ分け遣はされば、さだめて猶兵乱の基たるべし」と理屈を述べたうえで「其の上非常の断は、人主専にせよといふ文あり、世の中に常あらざる事は、人主の命に従ふと見えたり」(63/466)と主張し、347年ぶりの死刑を執行した。以上、保元の乱における天皇側の重要な意思決定において、その大半を取り仕切っているように読めるのが保元物語の信西である。
だがこの美福門院の注釈5を読むと意外なことがわかる。この「信西が後白河即位のために策謀した」説の論拠として紹介されているのは戦後の研究者が書いた本であり、一次史料でないどころか同時代の史料ですらない。逆にそこで紹介されている同時代やそれに近い時代の史料に書かれている説を見ると、どれ一つとして「信西」の名を挙げていないことがわかる。それこそラノベ保元物語ですら、取り上げているのは別人の名だ。
信頼度の高い同時代日記から、フィクションと見られている後の時代の「物語」に至るまで、後白河即位に貢献した人物として名前が出てくるのは美福門院(及び彼女と親しい貴族)もしくは関白忠通のどちらかだけである。そして彼らがこの時点で天皇の後継者指名に大きな影響力を働かせるのはおかしくも何ともない。前者は当時の最高権力者の寵愛を受けていた女性であり、後者は天皇を補佐する公的な職務に就いている摂関家の人物だ。
一方、この時期の信西はあくまで鳥羽院に仕える出家にすぎない。鳥羽院の信認を受けていたことは事実であろうが、だからと言って彼が皇位継承を主導できるほどの権限を持っていたという証拠はない。実際、信西のwikipediaの脚注5には「当時(後白河即位以前)の信西には皇位を動かすだけの政治力は無かった」という学者の説も紹介されている。当時の史料、どころかラノベ保元物語にすら信西の名前が出てこないことを踏まえるなら、むしろ当然の判断だろう。
にもかかわらずなぜ信西が後白河即位を策謀したという説が生まれてきたのだろうか。「この犯罪で最も利益を得るものが犯人」という理屈はホームズの頃からあったというが、それと同じ発想が働いたのではなかろうか。後白河の乳母の夫であった信西にとって、後白河の即位は自らの政治的地位向上につながるものだったに違いない。1年後の保元の乱で保元物語にあるような強大な権限を振るっていたのだとすれば、後白河の即位こそがそれをもたらしたのだ。そういう発想から「後白河即位も信西の策動、策謀」という説が生まれたのだと考えられる。
だがこの理屈の展開はまるで「陰謀論」ではなかろうか。最終的に利益を受けた人間が犯人だという理屈から、例えば本能寺の変は最終的に天下を取った秀吉の陰謀であるとか、関ケ原戦役において家康は畿内を留守にする隙を見せて石田三成の挙兵を誘ったという話が生まれてきたが、いずれも論拠に乏しい。それと同じことは「信西こそ後白河即位の黒幕」説にも当てはまる。信頼できる史料に全く名前が出てこない人物を「策動、策謀」の中心に据えるのは、さすがに空想が過ぎるように思う。
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