最近、いくつかの議論を見ていて思いついた、統計で自分のいいたいことを言うための方法。
楽観論を述べたい場合。以下のような話をすれば足元の状況がバラ色であると主張できる。
1)長期の話をする。
2)世界の話をする。
3)平均値や中央値の話をする。
悲観論を述べたい場合。以下のような話をすれば足元の状況が危機的であると訴えることができる。
1)短期の話をする。
2)ローカルな話をする。
3)特定のグループの話をする。
いずれの主張においても統計自体が大きく間違っているとは思えない。統計そのものを批判的にチェックする必要があるのは確かだが、ここでの議論はむしろ単にどちらも自分に都合のいい部分を切り取り、都合の悪い部分から目を逸らしているだけであるように見える。よく「嘘、真っ赤な嘘、統計」と言われるが、統計そのものに問題があるというより、それをどう使うかの部分に主要な問題があるのだろう。
日本に限らず統計を単に「議論で勝つため」だけに使う人がいる。最近でも例えばPinkerの唱える楽観論に対し、あるいはTurchinの唱える悲観論に対し、統計を出してそれを否定しようとする議論をしている人がいた。だがそのために前者が持ち出したのは例えば環境に関するデータなど。もちろん環境関連で悪化しているデータがあるのは事実だが、そもそも環境が問題だという意識が世界的に広がったのは割と最近の出来事であり、他の問題に比べて人類による対応はまだこれからの面がある。
何のために統計を使うのかをきちんと見定めないといけないのだろう。そもそもデータとは、現状がどうなっているかを理解するために集め、分析するものだ。事実を把握したうえでどうするかを考える材料になるのが統計だとすれば、まずはどのような目的のためにそのデータが必要なのかについてきちんと理解しておくべきだろう。それをせず、単に相手を論破するために統計を持ち出しても、それは単なる時間の無駄にしかならない。
Pinkerは過去を美化したがる風潮(狩猟採集民万歳!)に異議を申し立てるために統計を持ち出した。Turchinは永年サイクルというメカニズムを説明するために統計を使った。Pinkerに対して環境関連の指標を持ち出すなら、環境問題の改善は可能なのか、そのためにホモ・サピエンスはなにをすべきか、本当にそうすることができるのかといった議論のたたき台とすべきだろう。「悪化しているデータがあるのだからPinkerのいう議論は間違っている」と主張するためだけにデータを持ち出すのは、あまりにもったいない。
同じことはTurchin批判についても言える。大衆の困窮化というが中央値はまだプラスだ。過半数の生活水準が上昇を続けている状況は、果たして政治ストレス指数"
https://blogs.yahoo.co.jp/desaixjp/56116137.html"にどんな影響を及ぼすのか。Pinkerは貧困は否定されるべきだが不平等はそうではないと言っているが、貧困を減らしつつ格差が拡大する状況で永年サイクルはどのように回るのか。そうした問いをぶつけて歴史理解を深めるのに役立てる方が、よほど生産的である。
そもそも全てがバラ色で問題のない時代など存在しない。全てが危機にあるような社会が存在しないのと同じだ。うまく回っている部分、問題を抱えている部分は、それぞれいつでもどこでも存在する。統計はその状況を知らせてくれるツールなのだから、それを使って「うまくいっているから現状維持でいい部分」「問題があるので現状を変えなければならない部分」をあぶり出すように使えばいい。でも世の中を見る限り、どうやら大半の人間にとっては現状を理解するより相手を論破することの方が重要らしい。
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