「道具」と化した格差問題

 前の話"https://blogs.yahoo.co.jp/desaixjp/56769981.html"とも関連する書籍「われらの子ども」を読んだ。出版社の公式ページ"https://www.sogensha.co.jp/special/ourkids/index.html"に詳細な紹介が載っているが、基本的には米国の格差問題について事例研究とデータを組み合わせて紹介した本だ。題名から想像がつくように、特に子供(実際はヤングアダルト層)に焦点を当て、子供たちに与えられる機会にいかに大きな格差が生まれており、米国内での分断が進んでいるかを紹介している。
 本は全6章で構成されており、まず著者自身が過ごした1950年代の高校時代における若者を巡る環境が現代とどれだけ違っていたかについて、自身の出身地であるオハイオ州の田舎町から語り始める。続いて家族構成、家庭での育児、学校教育、コミュニティーのそれぞれについて、地域を変えながら具体的な事例を紹介し、いかに機会格差が生じているかを説明し、それをデータで裏付けている。最終章はこれからどうするべきかという提言だ。
 著者は機会格差がどのように生じているかについて、親の学歴をメルクマールとして紹介、分析している。アッパーミドルと定義された家庭において親の半数は大卒までたどり着いている。一方、労働者階級はよくて高卒資格(親と連絡が取れない子供もいるため、そもそも不明というケースもある)まで。こうした学歴やそれに伴う資産格差が、子供にとっては機会そのものの格差につながっているというのが著者の指摘だ。
 中でもコミュニティーに関する議論はこの著者ならではの部分だろう。居住コストの高い住宅地にはアッパーミドルが集まり、それは学校での質のいい友人関係とコミュニティーにおける細かい手助けにつながる。一方、コストの安い地域には労働者が集まり、学校に通う生徒たちはそこに無秩序を持ち込み、コミュニティー内の手助けがほとんどなくなり家族は孤立する。格差の再生産は単に家族を通じてだけではなく、もっと様々なルートを経て行われるというわけだ。

 著者はソーシャル・キャピタルに関連した議論で有名な学者。格差問題と絡めているという点でPeter Turchinの議論とも通じるところがある(以前こちら"https://blogs.yahoo.co.jp/desaixjp/55671623.html"でも少し触れた)。さらに著者の指摘がTurchinやScheidelらに見られる「暴力の結果として格差が縮小する」という議論と通底するところがあるのではないかとの指摘も存在する。
 こちら"http://on-sociology.blogspot.com/2012/12/blog-post_24.html"では著者が以前著した「孤独なボウリング」"http://www.kashiwashobo.co.jp/book/b228001.html"の議論の中に、昔の世代が市民参加に熱心だった(それによってソーシャル・キャピタルを高めていた)のは戦争があったからだという理屈が存在するという。「外的な衝突が内的な凝集性を増加させる」という理屈は、これまたTurchinがマルチレベル選択を持ち出して論じている部分と通底している。
 事実として戦争という形の総動員を経験した世代は、戦争と無関係な若い世代に比べて他者への信頼度が高く、それだけ互いに協力するネットワークを築きやすいようだ"http://www8.cao.go.jp/youth/kenkyu/h19-2/html/4_2_1.html"。だがこの理屈を推し進めるなら「ソーシャル・キャピタル回復のため戦争をしよう」ということになりかねない。少なくとも例えばテレビが社会参加衰退の一因だといった主張には反感も出ているようだし、こちらのツイート"https://twitter.com/WARE_bluefield/status/1028570380603031552"でははっきりと「孤独なボウリング」について保守的な本だと指摘している。
 著者のソーシャル・キャピタル概念に保守的な傾向があるという指摘はこちら"http://ritsumeikeizai.koj.jp/koj_pdfs/65617.pdf"でもなされている。彼の議論は要するに共同体の美化であり、その意味では「昔はよかった」「今の若いものは」という愚痴を高尚に述べただけという面もある。少なくとも市民的共同体と伝統的共同体の区別が容易でないのは否定できない。
 といった批判を受けている人物ではあるが、この本で訴えようとした問題意識が事実として米国を蝕んでいる点については肯定する人が多いだろう。現在の米国では人種間よりも人種内における階級の格差が広がっており、それが若い世代に大きな断絶を及ぼしている。この問題、特に機会格差で下へと移動している若者の増加は、社会コスト増によって経済成長を阻害し、民主主義の足元を掘り崩し、何より米国人の道徳観に反している。だから何とかすべきだというのが著者の主張だ。
 事例紹介が中心になっているのも、まずは問題の存在をできるだけ大勢に認識してもらうことが狙いだからだろう。著者は政治的に「不活発」な大衆は何かがあると暴発しやすくなり、「イデオロギー的な過激派にいる反民主主義のデマゴーグによって容易に操作されることになってしまうかもしれない」(p268)との懸念を述べている。原書の出版は2015年。その翌年には大統領選でトランプが選ばれている。ある意味で予言的中と言えるかもしれない。

 著者がこの本で繰り返し強調しているのは、現在の米国では人種(レイス)よりも階級(クラス)の分断が激しくなっているというものだ。実際、著者は事例紹介に際して必ず同じ町や都市の、かつ同じエスニシティーに属する、アッパーミドルと労働者階級の若者を対比して取り上げている。著者が若者であった時代には人種や性別が大きな差別要因だったが、今では同じ人種内でも学歴や資産に代表される階級こそが格差につながっているという見解だ。
 実は同じことは2012年に出版された保守派の本でも主張されているという"https://www.theheadline.jp/32451"。そこでも新上流階級は「地理的に近接した場所に居住」し、一方で新下層階級は「自由社会の一員であるために必要な美徳」を失いつつある。しかし新上流階級は「あまりにも孤立しているので、その他の地域でどういう問題が起きているかに気づいていない」。どうやらこういう視点は保守派の論客たちの問題意識にある程度共通して存在しているようだ。
 それに対しリベラルの問題意識はOccupy Wall Streetに代表されるような「トップ1%」に集中している感がある。だからこそ「われらの子ども」の出版社ページに載っているフランシス・フクヤマの指摘、即ち「不平等に関する現在の議論の多くは(中略)たった1%の超過に焦点を当てている」という批判が出てくるのだろう。いずれも現在の米国に存在する格差を問題にしていながら、そのどこを重要視するかによって議論が食い違っているわけだ。
 そして皮肉なことに、この食い違いにはほぼ常に人種(レイス)が絡んでくる。保守派は、本来ならレイスではなくクラス間の格差を問題視することで、人種を問わず新下層階級と手を結べるはずなのに、実際に彼らがやっているのは白人保守層の動員のみ。一方リベラルはといえば1%に集中しすぎるあまり「分布のもう片方」、つまり新下層階級の苦境が見えなくなってしまい、白人労働者の支持を失っている。
 実際問題として保守とリベラルのどちらになるかは、人種より学歴との相関が高い。前の話で紹介した世代別の支持政党と各世代の白人比率との相関係数を見ると、民主党が-0.856、共和党が+0.931とどちらもかなり高いのは事実。だが支持政党と学士号取得率との相関(民主党が+0.914、共和党が-0.963)に比べると低い。クラスの対立が政治的対立につながっている可能性があるのだ。
 問題は、最近になって保守もリベラルもむしろ自らの政治的スタンスに合わせるようにアイデンティティ(含む人種)の方を作り上げる傾向が出てきている"https://fivethirtyeight.com/features/americans-are-shifting-the-rest-of-their-identity-to-match-their-politics/"ことだ。リベラルは自分を白人ではなくヒスパニックとみなし、保守ほど自らを宗教的であると規定する。加えてまずは共和党支持者が、次に民主党支持者が「妥協よりイデオロギー」重視で政治家を選ぶようになってきている"https://fivethirtyeight.com/features/forget-details-politics-today-are-all-about-big-ideas/"。アイデンティティに結び付いた政治は、互いに譲歩の余地がない徹底した対立になりやすい。
 米国においては共和党が「上位1%のための」、民主党が「上位10%のための」政党であるとの議論を前に紹介した"https://blogs.yahoo.co.jp/desaixjp/56472756.html"。そのため「われらの子ども」のようなアッパーミドルと労働者階級の格差が問題だという説は保守派による民主党批判の道具となりやすく、一方でリベラルによるトップ1%糾弾は共和党批判のための標語になり果てている。どちらも格差問題があることは認めているが、問題解決より敵を攻撃することに力点が置かれてしまっている。
 結局、保守もリベラルも格差を出汁にしてエリート間競争に明け暮れているというのが実情なのだろう。本来ここでやるべきは、「われらの子ども」でも指摘されているように「革新主義時代(プログレッシブ・エラ)の成功」(p273)に学び、エリートが自らの血を流すことだろう。Turchinもこの進歩主義時代の取り組みが非暴力的な問題解決につながったと指摘している"https://www.salon.com/2015/11/23/this_is_why_were_so_fcked_our_politics_are_only_going_to_get_worse/"。だが現実に行われているのは、保守とリベラルが互いにライバルエリートに責任を押し付けあうという醜い争いだけだ。
 そもそも進歩主義時代の改革が成功したのはボルシェヴィキという具体的な「外の脅威」があったからではないか。だとしたら今の米国の問題解決に必要なのは圧倒的な強さを持つ外敵かもしれない。もういっそのこと宇宙人でも攻めてきた方がいいのだろう"https://www.youtube.com/watch?v=9t1IK_9apWs"。きっとすべての分断を乗り越えて団結することができるだろうから。やっぱり暴力なくして格差は消えず、という結論になってしまうのが残念なところだが。
スポンサーサイト



コメント

非公開コメント

トラックバック