コッリとボーリュー 4

 Campagne de l'armée d'Italie, 1796-1797, Tome Quatrième"http://gallica.bnf.fr/ark:/12148/bpt6k110541q"のDocumentに載っているコッリとボーリューのやり取り続き。

「コッリからボーリューへ、モンドヴィ、4月18日――国王軍に起きたあらゆる出来事についてはアリャン伯が正確な詳細を伝えるでしょう。彼はまた状況に求められた移動の理由についても説明する役を担っています。私は16日時点でモンドヴィとチェヴァへの全面攻撃に脅かされていました。私はビコッカの有利な陣地を占め、モンドヴィを増援しましたが、同じときモンドヴィの戦いが行われ、敵はペダジェーラとチェヴァの2つの宿営地を攻撃しました。敵はペダジェーラの兵によって完全に押し戻され、1人の大尉を含む数人の捕虜を得ました。チェヴァの兵たちも極めてよく戦いましたが、敵はこれら2つの部隊の中間にある高地を占拠しました。それによって連絡線を断たれたこれらの部隊の司令官は、包囲される恐れから退却を求める決断をしました。同時にモンバルカーロが迂回されたことが伝わり、私は夜間にこの退却をすることを認める決断をしました。極めて危険であったにもかかわらずそれはあらゆる秩序を保って実行され、チェヴァの宿営地からはあらゆる大砲と弾薬が撤収されて、軍の側面を守りケラスコまでのタナロ河畔を監視するためピエトロの正面に配置されました。
 ペダジェーラの部隊はドリャーニに布陣するよう命令を受けました。私の目的はタナロとケラスコの線をカバーし、同時にニッツァ=デラ=パーリャとテルツォ間にある閣下の軍との連絡を維持することにあります。私はこの部隊の指揮官に対し、ニッツァ方面を偵察し、自分の陣地を将来において取ることを強いられる陣地について閣下に報告を出すよう命令を与えました。その間、私は戦闘のリスクを冒してモンドヴィを去らない決断をしました。帝国軍が集まり次第、失われた領地の一部を取り戻すことができると期待しています。閣下はアリャン伯に全幅の信頼を置くことができます。彼は多大な知識と素晴らしい価値及び高潔さを併せ持っています」
p44

「4月18日
 コッリからボーリューへ(サン=ミケーレ、午後10時)――閣下の17日付の手紙を受け取ったばかりですが、その中身は私を大いに驚かせました。私は側面を取ろうとする敵に囲まれています。右へ、左へと機動してそれを支えていますが、もしあなたがアクイの陣地を去れば敵はあなたがトルトナとアレッサンドリア間で休むのを放置し私の左翼を迂回するでしょう。そうなると私は最も肥沃で重要な土地全てを放棄してストゥラ左岸に後退するほかなくなります。もはやモンドヴィで敵を迎え撃つことはできません。彼らはそこを中心的な拠点としてトリノまで押し出すでしょう。彼らを止められる場所はありません。国王に努力と新たな兵を見つけるよう求めても無意味になります。もしあなたがヴォルトリとボケッタの兵を集め、全騎兵をトルトナとアレッサンドリア間の平野に集結させるのなら、遠いとはいえ私にとって確かな支援となるアクイの拠点を保持することはできると私は信じています。もし敵がアクイへ前進し、あなたが強行軍でも対抗できるだけの戦力を持っていないのなら、あなたの部隊はアレッサンドリアの部隊と合流し、それによって全軍を集めることができます。この方法こそ全員にとって最も役立つものだと私は信じています。閣下がこれを採用することを期待します」
p44

「4月19日
 ボーリューからコッリへ、ノヴィ――ピエモンテの幕僚士官が本日4月19日午前9時に、モンドヴィで18日に書かれたあなたの手紙をもたらしました。あなたが行った配置は間違いなく状況と地形に関係したものでしょうし、あなたの様々な部隊の退却はおそらく敵の数的優位のために必要だったのでしょう。いずれにせよ私は直前の手紙であなたに与えた助言、即ち2つの目的に対応するのに最もふさわしい地点にあなたの戦力を集結させること、及びピエモンテの中心をカバーし、私が本格的に取り組むつもりであるチェヴァ防衛を私と一緒に行ううえで適切な部隊配置を行うことを繰り返すだけです。私は見解を変え、後方に下がる代わりにまずは兵たちをアクイ方面に集め、それからベルボとボルミダ間の地点に前進させることを希望しています。
 親愛なるコッリへ、集めた兵力をモンドヴィとムラッサーノ間の地点へと事前に行軍させることで、私の移動に備えるのがあなたの役目です。親愛なる将軍、もし昨日私が特に中将ド=ラトゥール伯に要望したことをサルディニア王陛下が実行してくださるなら、敵のピエモンテへの行軍を止めることを私が無視する[ママ]よう、確信してください。その間、私はプロヴェラ将軍に代わる少将を送ります。情報の規則性と他の定期的な連絡を維持するため、あなたの士官たちの1人、オーストリアの少佐を、旅団長に指名してください。私は砲兵と騎兵の拠点をアスティに設置します。あなたの側の拠点をケラスコとアルバからアスティへと設置してください。私はプロヴェラ将軍が捕虜になったことや、その状況について何の知らせも受けていません。可能な限り早くすべての点について答えてください」
p45-46

「4月20日
 コッリからボーリューへ、サン=ミケーレ、午前10時――18日付の閣下の手紙を、幸運にも敵を叩き終えたときに受け取りました。敵は私の前哨線全てをコルサーリャ左岸に押し戻しました。正午までこの川とタナロ川での射撃戦が行われました。敵はその間に私の左翼を構成するストレラの宿営地と、サン=ミケーレ間の中央及び右翼に対して、カステリーノ高地を機動しました。最後に最も激しい攻撃がサン=ミケーレになされました。敵は橋を強行突破し、高地を占拠して私をモンドヴィから切り離そうとしました。状況は厳しく決定的でした。私は擲弾兵に行軍を命じましたが、彼らの勇気を称賛しすぎることはできません。敵は完全に崩壊して川の対岸まで追撃され、夜によって戦闘は終わりました。負傷者に加えて多くの死者、そして既に10人の士官及び1人の大佐を含む180人の捕虜がいます。敵の損失は敵から初めて得た軍旗2本を含む900人か1000人以上と見積もられます。ですがこの小さな勝利は我々の兵も失わせ、そして私たちは常に弱体です。もし敵がなお私を攻撃し、そして私が敗れれば、領地を守る以上の軍はほとんど残されないでしょう。土地を守ることは大切ですが、それよりこの小さな軍を守る方が重要です。もし後退しなければならないなら、ストゥラを再渡河してコニに守備隊を投じ、この川の接近路と川岸を守るように機動する必要があり、それは困難ではないでしょう。代替手段は極めて危険です。私は状況が求める策を取り、もし敵が私を迂回しないのならモンドヴィをカバーします。敵は何の動きも見せていませんが、日は長くなっています」
p46

「4月22日
 コッリからボーリューへ――集めた全戦力にもかかわらず敵は私を圧倒し陣地を包囲したため、私は夜の間にモンドヴィへ後退しました。軍の半分は既に宿営地にあり、残りはそこへ向かっています。私の退却を見た敵は急いで追撃してきています。彼らは猛烈に私の後衛部隊を攻撃し、これを覆しました。後に全軍は様々な場所で戦い、戦闘はより執拗に続きましたが敵の優勢は私の側面を迂回するという優位を彼らに与え、私はモンドヴィを去って平野に向かい騎兵2個連隊でそれをカバーしました。できるだけ長く持ちこたえられる守備隊をモンドヴィに残しています。私は軍の一部とともにコニにおり、残りはフォッサノにいます。コニとデモントの防御に必要な兵を与えた後で、私はピエモンテ防衛の中心地点であるフォッサノに全軍を集めます。もし敵がコニを脅かすなら右側のその方面へ、敵がケラスコ方面に身を投じるならそちらへ行軍できる範囲にとどまります。可能な限りストゥラと下タナロを守ります。
 この4日間に我々を攻撃した敵の3個師団は、軽兵を含み2万5000人以上に達しています。間違いありません。私な何度も、これほど多くの場所を守らなければならない国王軍は敵に対して対峙できる状況にないといいました。あなたが過去の失敗を取り返す状況にすぐ入るものと期待しています。あなたの助けを頼りにしています」
p48-49

 以下次回。
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