マルサスの帰還

 Scheidelの話を以前紹介した"https://blogs.yahoo.co.jp/desaixjp/56599137.html"が、最近になって彼も著作の中で引用しているScheveとStasavageの本の邦訳が出版された"https://www.msz.co.jp/book/detail/08701.html"。彼らの考えの概要はこちら"https://isps.yale.edu/sites/default/files/publication/2012/12/ISPS12-001.pdf"やこちら"http://www.iq.harvard.edu/files/iqss-harvard/files/taxthe20rich_pre6_0.pdf?m=1424701339"でも紹介されている。
 民主主義ではなく戦争こそが金持ちへの課税をもたらしたという説は、前に紹介した"https://blogs.yahoo.co.jp/desaixjp/55210985.html"通り色々なところで唱えられている。ScheveとStasavageは、戦争が金持ち課税をもたらしたメカニズムとして、人々が公正さを求めた結果と分析。徴兵の負担が少なく、一方で軍需による利益の多かった金持ちに対し、他の者たちがその補償(埋め合わせ)を求めた結果として高い累進課税がなされたという理屈を展開しているという"https://www.yomiuri.co.jp/life/book/review/20180709-OYT8T50064.html"。
 Scheidelの議論が需給という市場メカニズムに力点を置いていたのに比べると、いくらか方向性の違う話をしているようだ。個人的には長期のスパンで見れば人々の公正感よりも市場メカニズムの方が大きなインパクトを及ぼすように思うが、一方で例えば世界大戦といった比較的短期間の出来事について見る場合、こうした「世論」の動向の方が影響度が大きい可能性はある。
 しかし両者の違いよりもその相似に注目する見解もある"https://twitter.com/WARE_bluefield/status/1025940807562321920"。どちらも格差の解消に戦争や暴力が必要という見方を歴史的なデータから導き出している点で確かに似ていると言えるし、同じ傾向はPeter Turchinの著作についても言える。Piketty以来データを使って格差問題に切り込む本が増えているのは、現在の世界において格差が問題と考える人がそれだけ多い証拠だろうし、その問題に踏み込む際に歴史を振り返り「温故知新」に取り組む人が出てくるのも当然の流れだと言える。

 気になるのは、そうやって踏み込んだ人々の中に悲観論にたどり着く人が多い点。過去の事実が悲観せざるを得ないものばかりだからかもしれないが、本当に悲観しかできないのかどうかきちんと確認する必要があるだろう。例えばPinker"https://blogs.yahoo.co.jp/desaixjp/56702874.html"のように、格差問題も含めて楽観的に見ている人の論拠はどこにあるのだろうか。
 Pinkerは割と簡単に「クズネッツの説明」を認めている"http://d.hatena.ne.jp/shorebird/20180525"。しかしScheidelによると、国ごとの時系列の動きを見る限り、むしろクズネッツの説明通りに進んでいない事例が多いという。そういうデータがあるからこそ格差の縮小に対して悲観的な人も増えているわけだが、一方でPinkerも何の論拠もなく「クズネッツの説明」を認めている訳ではない。国ごとではなく世界全体のデータを見ると、確かにクズネッツの議論を裏付けるような動きが見える。
 こちら"https://ourworldindata.org/global-economic-inequality"のデータによればグローバルなジニ係数は2003年の68.7から2013年には64.9まで低下したという。グラフに紹介されている1800年、1975年、2015年のグローバルな所得分布を見ても、1800年には狭い範囲に分布していたものが1975年には格差が広がり、しかし2015年になるとボリュームゾーンが右へとシフトすることによって再び格差が縮小している流れが見える。まさにクズネッツの想定したメカニズムが働いているように見える。
 クズネッツが想定したのは「農村の貧困からより良い仕事に一部がシフトすれば相対的不平等は拡大する。しかし人口の多数が現代経済へシフトすると不平等は縮小し始めるだろう」"http://d.hatena.ne.jp/shorebird/20180518"というメカニズムだ。そうした流れが特に20世紀後半から強まっているのは確かで、国連の資料"https://esa.un.org/Unpd/Wup/Publications/Files/WUP2014-Highlights.pdf"によれば21世紀初頭には都市人口が農村人口を上回るようになっている。
 2018年時点で全世界人口のうち55%は都市に住んでいる"https://www.un.org/development/desa/en/news/population/2018-revision-of-world-urbanization-prospects.html"。この数字は2050年には68%まで上昇する見通しだ。つまりクズネッツが想定している「現代経済への人口シフト」はさらに進むわけで、たとえ国単位では格差が拡大するとしても全人類という基準で見ればむしろ格差の縮小が期待できるという理屈。まさにクズネッツカーブ大勝利、希望の未来へレディーゴーだ。

 ただしここには1つ問題がある。都市人口へのシフトは永遠に進むわけではないという当たり前の事実がそれ。都市人口割合はどう頑張っても100%を超えることはないし、そもそもそこに至るよりずっと前に伸びが止まる。例えば1965年から70年までの間に都市人口割合が1.0ポイントしか増えなかったのに対し、2005年から2010年には2.5ポイントも増えるなど、足元では都市化が加速している状態で、これこそが最近の急激なグローバル格差の縮小をもたらした原動力と考えられる。だが国連の予想ではここまで高い伸びはいつまでも続かず、2020年以降は2.0ポイント前後の伸びにとどまる見通し。
 それでも現在生きている人々の大半が寿命を迎えるまではクズネッツ的な格差縮小メカニズムが働く可能性はある。でもそれ以降はどうだろうか。もし5年で2.0ポイントずつの都市化が21世紀後半も続いたとするなら、2100年の都市人口割合は驚異の88.4%。この数字は2015年の米国(81.7%)すら上回る。つまり世界中が現在の先進国と同じ程度の都市化を達成する。そうなったときに、果たして世界は現在の先進国と同じ「格差の拡大」という問題に直面せずに済むだろうか。
 ここでまた「温故知新」となるのだが、実は過去にも同じ現象、つまり古い経済の貧困から新しい経済への大規模な人口移動が完了したことを反映したと見られるデータがある。こちら"https://blogs.yahoo.co.jp/desaixjp/56713701.html"で指摘している、7000年前から始まったY染色体の多様性減少がそれだ。この現象がもたらされたのは父系クラン同士の競争が原因と見られるが、問題はそれが農業の始まった1万年前ではなく、それから3000年経過した時に始まったこと。「耕作可能な地域にあらかた農耕民が住み着き、それ以上人口が増えれば土地を巡って争うしか」なくなったためではないかと想像される。
 これと同じ現象が、都市化が極限まで進む未来に起きないと言えるだろうか。「現代経済へのシフトがあらかた進み、それ以上都市人口割合が増えれば彼らの間の競争が激化し格差が広がる」可能性はないと言い切れるか。現実問題として都市化が十分に進んだ先進国で起きている格差の拡大が、いずれ全世界的現象になる恐れはないと断言できるのか。残念ながら私はそこまで楽観的になれない。

 かつて新石器革命による農業の開始は、おそらく人々をマルサスの罠から解放した。単純な狩猟採集時代には環境が許容できる以上の人口を抱えることは不可能だっただろう。でもヒトは農業によってその上限を解き放ち、それによって増えた農業民は世界各地に広がった。だがこの革命は天井を消したわけではなく、あくまでそれまでより高い位置に天井を持っていったにすぎなかった。人口が増えて天井に迫れば、再びマルサスの罠の口が閉じる。人々は父系クラン同士で生き残りのための競争を行い、勝ち組と負け組が分かれ、Y染色体の多様性が減っていった。
 次にマルサスの罠から人々を解放したのは産業革命だった。以来200年強、人々は「農村の貧困」から「現代経済」へのシフトを通じて人口を増やし、生活水準を上げた。だが我々が本当にマルサスの罠を解除したのか、それとも前回同様に単に「天井を高くした」だけなのか、それはまだ分からない。もしかしたら都市人口割合がこれ以上上がらないところで、再びマルサスの罠が待ち構えているのかもしれない。王の帰還ならぬマルサスの帰還だ。
 おそらく私が生きている間は大丈夫だろう。逃げ切れる可能性が高いと思う。だがその後も人類の歴史は続く。その世界は、かつて7000年前から5000年前にかけて存在したような、血腥い競争と勝ち組負け組がくっきりと分かれる格差の世界かもしれない。
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