ラノベ・コメディ・報告書

 前回は保元の乱に関して信頼できる史料(同時代に書かれた兵範記や台記、同時代の日記を参照した愚管抄、やはり同時代の日記を使ったとみられる百錬抄)と、信頼度についてはずっと劣るとみられる史料(保元物語)とを比較しながら、それぞれに描かれた源為朝像がどのようなものかを見ていった。今回はそれぞれの史料に載っている保元の乱当日の記述について同じように比較してみたい。ただし今回はあくまで個人的な視点から感想を述べることにする。
 具体的に言うなら保元物語はラノベ、愚管抄はコメディ、兵範記は無味乾燥な役所の報告という風に見える。逆に言うと最もリアルなのはおそらく兵範記であり、愚管抄はいかにも編集された記事として事実に基づきながらも面白おかしく加工されており、そして保元物語は最初からフィクションとして書かれたものに感じられる、ということである。

 説明しよう。兵範記"http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1918082"の保元元年7月10日の項目(64/182)を見ると両陣営に誰が参集したかについて細かく名前が紹介されている。しかし彼らの間での具体的なやり取りはほとんど入っていない。上皇側では崇徳上皇と左府(頼長)の合議に左京太夫教長が同席し、さらに崇徳上皇の近侍であった平家弘と、藤原家の家人という立場だった源為義が「直被召御前」と呼び出されたことが書かれている。しかしそこでどんな話し合いが行われたかへの言及はない。
 一方天皇側では高松殿に集まった武将たちの名前に触れ、それが「如雲霞」大軍であったと説明している。続いて関白殿(忠通)が参内し、また清盛と義朝が「依召参朝餉、執奏合戦籌策」とあるので、この両名を交えて作戦計画が練られたことがわかる。だがその内容についての言及はない。夜に入って清盛や義朝以下の武士たちがどのような甲冑を着用したかについては詳細に紹介しているものの、作戦会議における議論は不明だ。そして11日の「鶏鳴」には早々に「軍兵都六百余騎発向白河」となっている。
 こちら"http://www2.ngu.ac.jp/uri/gengo/pdf/genbun_vol2302_07.pdf"によると兵範記における鶏鳴とは夜明けに近い時間帯だそうで、天皇側が夜襲(というか朝駆け)に踏み切ったのは確かなようだ。だから事前の話し合いでもその件について議論が行われたのだろう。でもそれを兵範記から裏付けるのは不可能だ。というのも兵範記の著者は10日夜の時点で高松殿ではなく東三条殿で仕事をしていたと書いており、どのような議論を経て朝駆けが決定されたかを直に見ることができなかったのだろう。目撃したこと、情報として入ってきたことのみをリアルタイムでまとめた結果、そっけない代わりにリアルな文章になったのだと思われる。

 保元物語"http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1018053"の為朝が典型的な「俺TUEEEE」キャラであることは言うまでもない。なにせ姿は「樊噲も斯くや」、はかりごとは「張良にも劣らず」(41/466)という文武両道設定で、その姿を一目見ようと上皇をはじめあらゆる人々が集まってくるほどの目立つ存在。要するに中二病であり、その言動も当然ながら中二病の症例を見事に呈している。
 為朝は「合戦の趣計らい」を問われ、まず「俺は九州で大小の合戦を数知らずこなしてきた。中でも大変なものは20ほどあったか。敵に囲まれたこともあったし、逆に敵の城を攻めて滅ぼしたこともあったが、何より効果的だったのは夜討ちだな」とさりげなく(全然さりげなく見えないが)自分の実績を自慢している。どこが凄いのかを論理的に説明できない場合は体験談を重ねて納得させようとするあたり、健康食品のCMにも通じるところがある。
 続いて為朝が提案するのは「今すぐ高松殿に押し寄せて三方に火をかけ、残る一方を遮る」という作戦だ。というか策らしいものはそれしかない。そうすれば「火を避けようとするやつは矢にやられるし、矢を恐れるものは火から逃げられん。義朝などは駆け出してこようとするだろうが、俺が真ん中を射抜いてやる。まして清盛のへろへろ矢(本当にそう書いてある)など問題にもならん。鎧袖一触だ。天皇が移動しようとするならお供の連中をちょっと射れば皆逃げ出すに相違ない」とか。口で言うだけなら簡単な「作戦」を滔々と述べている。
 最終的に為朝は矢を2つ3つ射れば夜明け前に決着をつけられるのは疑いないと断言してみせる。普通こういう物言いは「自信過剰」と呼ばれるものだが、なにせ俺TUEEEE中二病ラノベ主人公なので何もなければ物事は主人公の思い通りに進んだだろう。それを防ぐためには無能な味方を投入するしかない。というわけで頼長がその役を担い、「これは10騎20騎の私戦じゃねえぞ小僧、天皇と上皇がやる国家的な争いなんだから数を尽くして勝負を決するのが当然だろうが」と異論を述べるわけである。
 こういう中二病的やり取りは天皇側でも見られる(43/466)。ここでは義朝が「赤地の錦の直垂に折烏帽子引立て脇立ばかりに太刀帯いたり」という派手な格好で登場し、まず視覚的な効果を見せる。ラノベならイケメンの挿絵が入るところか。でも彼の発案も「夜討ちこそ一番」という為朝の二番煎じなところはしょせん敵役。一応、上皇側に南都からの増援が到着する前に押し寄せるのが有利という理屈もあるのだが、その後で「守備固めは清盛あたりにやらせておけ、俺は攻撃に出てすぐに勝負をつけてやる」というあたり、この物語において威勢のよさとか見た目の格好良さの方が重要であることが露呈している。
 この義朝の発言に応じて積極策を説くのが信西なのだが、頭のいいキャラの割にこれまた中身に乏しい発言しかしていない。要するに「俺ら武芸には詳しくないから任せた。それに先んずれば人を制すっていうじゃん、清盛も出しちゃおうよ。さっさと敵を倒せば昇進も考えとくよ」という内容だ。その後で戦の前に昇殿しようとする義朝とそれを制しようとする信西の漫才が続く。最後が格好良く終わらないあたりは敵役だからだろうか。
 全体として冗長な割に内実の薄い言葉が飛び交っているのが保元物語の特徴といえる。修飾語が派手で見た目は格好のいいセリフが多いんだが、逆に言うと見た目ばかり。為朝も義朝も夜討ちに勝るものなしと主張しているが、なぜそうなのかは一切説明していないし、他の作戦案については言及すらしない。南都からの増援というファクターへの言及を除けば、作戦会議というより自分の信念表明になっている。

 中身スカスカの為朝@保元物語に対し、愚管抄"http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/991104"の作戦会議に出てくる為義の議論ははるかに深く、その視野の広さを感じさせるものだ(254/618)。彼はまず自分たちが「むげに無勢」である事実を指摘。この状況で「この御所にて待ち戦になり候ては、少しも叶候まじ」と少数で防御設備が整っていない場所で待ち構えることの不利を説く。それから彼は慎重策を提案するのだが、これが実に3種類もの策を出してくるのだ。
 まず第一は「急ぎ急ぎてただ宇治にいらせおわす」策だ。頼長の父親がいる宇治へ後退し、宇治橋の桁を引き抜いてそこに防衛線を敷くという案である。続いて第二案は「近江国」へ下がり「甲賀の山」に立て籠もって坂東武士の到着を待つ策。もし坂東武士の到着が遅れるなら、第三案として関東まで下り、「足柄の山」を切り塞いで敵の攻撃を防ぐという手もある。たった1つしか策を出してこない保元物語の為朝と比べて、為義の議論がいかに充実しているかがこれだけでもわかるだろう。
 実際には為義は慎重策だけでなく積極案も出している。曰く「東国は為義に従わぬ者候わず」、だが京中は誰も彼も「事柄をこそ伺い候らめ」、つまり様子を窺っている連中ばかりである。ならば「内裏に参りて一あてして(一つ戦って)いかにも成り候はばや」、即ち思い切って攻撃に出てぶつかっていけば意外とどうにでもなるのではないか、と話している。冷静に兵力を分析する一方、戦場の霧を生かして思い切った行動に出る案も出すなど、為義の硬軟織り交ぜた戦略眼が窺える提案だ。
 これに対する頼長の返答も保元物語よりはまし。彼は大和からの増援についてのみ言及し、事大主義的な論拠は示していない。だから為義も素直に説得され、頼長の見解に従っている。
 一方の天皇側の作戦会議だが、これはまさにコメディ。どこかに「脚本 三谷幸喜」のテロップが表れてもおかしくないレベルである。まずは義朝なんだが、彼は焦燥のあまり頭を掻きむしりながら「すぐに敵のところへ押し寄せて蹴散らせ」と(保元物語の為朝よりも頭の悪そうな)主張をしたという。でも日付が変わっても決断は下されず。一方、通憲法師(信西)はというと、庭から「いかにいかに」と煽り立てる役目で、「先んずれば云々」などと格好いいセリフは一言も記録されていない。
 何よりシュールなのは法性寺殿、つまり関白忠通の様子だろう。曰く「御前にひしと候て、目をしばたたきて、うち見上げうち見上げ見て、物も言わざりける」。天皇の前にぴったりと伺候しながら、会議の席ではせわしなく目をしばたたき、天皇の姿を何度も何度も見上げながら、でも一言もしゃべることができない状態だったわけで、要するにこの非常時にフリーズしていたのである。ちなみにこの時、忠通の年齢は60歳近く。大貴族にして大の大人が完全に役立たずと化していたわけだ。
 さらにこの場には徳大寺実能と公能親子もいたそうだが、彼らもこの様子を見守るばかりで積極的に動こうとはしなかった。結局11日の未明になって「さらば疾く追い散らし候へ」と天皇が発言した("https://books.google.co.jp/books?id=w4f5FrmIJKIC" p102)ことで、ようやく会議の方向性が決まったという。当然、義朝は喜んだのだが、その際になぜか「紅の扇」を取り出してそれをひらひらと舞わせながら「なんて爽やかな心持ちなんだ」と言ったそうだ。映像を思い浮かべるとシュールすぎて笑いが止まらなくなりそう。
 慈円がどこからこんな話を引っ張り出したのかは不明だが、実の父親(忠通)の格好悪いところを遠慮なく書き残したあたり、大した人物だと言えよう。でもこれが史実かと言われると「史実にしては面白すぎる」という疑問が浮かぶ。そもそも兵範記によれば「此間内府参入」、つまり徳大寺実能が参内したのは軍が進発した後(64/182)であり、そこだけ見ても慈円の話が事実でない可能性が浮かんでくる。さすがにラノベ保元物語よりは事実に近いとは思うが、それでも史実をかなり面白おかしく加工しているんじゃないかという疑惑は拭い去れない。
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