今回はあまり詳しくない分野なので、話半分に読んでほしい。
では信頼できる史料とは何か。まずは兵範記"
http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1918082"がある。これは実際に保元の乱にかかわった平信範の日記だ。当事者が書いたという意味で一次史料であり、なおかつリアルタイム性の高い日記という史料なのだから、信用度は当然ながら最も大きくなる。ちなみに彼は後白河天皇側にいた人物なので、その記述は天皇側については極めて詳細である一方、崇徳上皇側については伝聞での記述にとどまっている。
そうした史料との比較で見た保元物語がどれほど荒唐無稽であるかはwikipediaを見てもらえばいい。「物語」に描かれた為朝に関する話のほとんどがこうした信頼度の高い史料には全く見当たらず、逸話の大半が論拠不明であることがわかる。というか信頼できる史料に出てくる為朝の話は数えられるほどしかないし、百錬抄に至っては保元の乱がらみの部分に為朝は全く出てこない。とりあえず兵範記と愚管抄から為朝関連の記述を数え上げてみよう(ただし見落としがある可能性は十分にある)。
まず兵範記だが、保元元年7月10日条に為義が上皇側に参加したときに引き連れてきた人物の中に「八郎同為知」(65/182)の名前が出てくる、というか名前しか出てこない。さらにその順番は「前左衛門尉同頼賢」の次に登場しており、あまり重要度が高そうには見えない。
兵範記の筆者である平信範は戦闘中も後方に控えていたため、戦いの様子についてはほとんど言及していない。どの部隊が送り出されたかについて述べ、辰の刻(午前8時頃)に戦場となった白河北殿のある「東方」で「起煙炎」、つまり火の手が上がったことを指摘。その後、天皇側は追撃戦に移ったようで、正午頃に戻ってきた清盛と義朝が「為義以下軍卒同不知行方」と報告したことが書かれている。以上、戦闘について触れた部分に為朝の名は見当たらない。
次に為朝の名が出てくるのは彼が捕縛された8月26日条だ。曰く「謀反党類為義八郎源為知、前兵衛尉源重貞搦進之」(71/182)とあり、為朝が近江の坂田のあたりで重貞によって「不慮之外、尋伺搦取」と捕まったことが書かれている。翌27日に為朝を連れてきた重貞はその功績によって右衛門尉にと任命されている。ちなみに保元物語のwikipediaでは捕縛した人物としてなぜか平家貞の名が挙げられているが、これは間違いだろう。
wikipediaでは為朝を捕らえた人物が「特別に恩賞にあずかっており、為朝が崇徳院に味方した武士のなかでも特別な存在であったとみなされていた可能性は高い」と解釈している。確かに重貞のところには「別功賞」とあるので、為朝を捕らえた功績を評価されたのは確かだろう。ただこの時点で為朝は上皇側で唯一捕らえられていなかった人物であったことも忘れてはならない。他の武士たちはすでに7月中に処刑されており(69/182)、単に為朝は「その時まで捕まっていなかった人物の中では最も大物だった」だけという可能性もある。
次に愚管抄の記述だが、こちらにおいても為朝の扱いは兵範記とほぼ同じ、つまり「為義の付属品」的な存在にすぎない。為義が上皇に呼び出された時に彼は「子二人グシテ参」ったのだが、その2人の名は「四郎左衛門頼カタ源八為朝也」と、やはり頼賢の後に名前が紹介されている。しかも為義はこの2人について「ワヅカニ小男二人候」とへりくだった言い方をしている(254/618)。なお保元物語と違い、作戦案について発言しているのは為朝ではなく為義だ。
次に出てくるのは天皇側についた義朝が夜襲を具申する場面で、「為義ヨリカタ為朝具シテ既ニ参リ候ニケリ」(255/618)と敵方に自分の親兄弟がいると述べているところだ。ここでも為朝は親や兄に次ぐ3番目にとどまっている。
ただ愚管抄の中にはわずかとは言え為朝の戦いについての言及がある。即ち「頼賢為朝勢ズクナニテヒシトササヘタリケルニ」(同)という部分がそれだ。あくまで兄頼賢と並んで、彼の次に名前が出てくるに過ぎないとはいえ、それでも寡勢で敵の攻撃をしっかり支えて戦ったことはわかるので、彼らが活躍したことは確かなのだろう。だがそれがどの程度の活躍だったかは知る由もない。
wikipediaにはもう一つ、吾妻鏡"
http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1109681"の記述が引用されている。大庭景能が鎌倉幕府成立後に語ったとされるその文中には「鎮西八郎者、吾朝無双弓矢達者也」(53/129)という言葉がある。弓矢のサイズが分相応を過ぎていたという指摘があるので、為朝がかなり大きな弓矢を持っていたことが逸話として伝わっていた可能性がある。つまりここでようやく弓張月っぽい話が出てきたというわけだ。
それでもこうした一連の記述をつなぎ合わせれば、「物語のような武勇譚が生まれる下地は実際にあったのかもしれない」という意見が出てきておかしくはない。保元物語は全くゼロから為朝像をでっち上げたわけではなく、実際にそれなりの武勇があった人物を極限まで巨大に膨らませて語った。為朝が本当に身長2メートルもあったのか、5人張りの強弓を持って複数の者をまとめて射抜いたかと言われれば「物語以外にそんな史料はない」と答えるしかないが、強い武士だったかと問われればその可能性が高いということはできるだろう。
なお保元物語では彼の通称として「鎮西八郎為朝」(38/466)というものが何度も出てきている。だが本当に彼がそう自称していたのかどうかは、兵範記や愚管抄からは分からない。百錬抄には「源為朝居豊後国騒擾宰府」(54/618)と彼が九州で暴れていたことが明記されているし、兵範記にも為義が「停任」を食らった理由が「為知於鎮西為事濫行」(152/186)にあることが書かれている。同じことは頼長の書いた台記にもある("
http://kaku-net.jp/kakuh/kakukou.pdf" 20/37)そうで、為朝が九州と縁があったのは確かだ。だがそれだけを論拠に鎮西八郎を自称したと言い切るのは難しい。
そもそも保元物語では久寿元年にまず為朝の「禁進」が命じられ、その後の久寿2年に為義が解官されたことになっている(40/466)のだが、これは信頼できる史料とは順序が逆。実際はまず久寿元年に為義が解官され(台記、兵範記)、続く久寿2年に為朝を禁遏せよという命令が下されている(百錬抄)。保元物語が、基にしたであろう史実をないがしろにしている可能性を裏付ける事実であり、そこに書かれていることの信頼性を損なう一因だ。「鎮西八郎為朝」という通称が存在した可能性はあるが、間違いなくあったと言えるほどの証拠は、少なくとも私の探した範囲では見当たらなかった。
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