明の火器 下

 明前半の火薬兵器に関する史料が意外に詳しくないという話を紹介した。それに比べればましなのは明後半、西洋と接触した後に導入された各種兵器についての史料である。16世紀初頭のポルトガル人との接触から始まった中国の西洋兵器導入だが、まず真っ先に取り入れられたのが後装式の小型砲である佛郎機"http://greatmingmilitary.blogspot.com/2015/04/breech-loading-cannons-of-ming-dynasty.html"であることは有名だろう。
 佛郎機の導入についてはAndradeがThe Gunpowder Age"https://books.google.co.jp/books?id=1jRJCgAAQBAJ"の中で詳細に紹介している。王陽明の書佛郎機遺事"https://ctext.org/wiki.pl?if=gb&chapter=861743"なる文章の存在も紹介済みだ。ちなみにAndradeのこの本はいつの間にか中国語に翻訳されていた"https://books.google.co.jp/books?id=cVlHDwAAQBAJ"。
 明の軍事について記した英文blogによれば、導入された佛郎機のバリエーションとして騎兵が使用する馬上佛狼機、銃身が短く銃剣がついている百出先鋒砲、ダブルバレルの連珠佛朗機砲やトリプルバレルの流星砲と呼ばれるものがあったそうだ。ちなみに銃剣については1606年成立の兵録にプラグ式のもの"http://greatmingmilitary.blogspot.com/2014/11/unique-weapon-of-ming-dynasty-breechloaders.html"が掲載されており、これは欧州の文献に銃剣が登場したときよりも早い"https://blogs.yahoo.co.jp/desaixjp/55984421.html"。
 佛郎機のバリエーションは他にもあり、前回紹介した無敵大将軍もその一種だ。さらに興味深いのは萬勝佛狼機というやつで、簡単に言えば後装式のマッチロックだ。しかし当時の技術では隙間からガスが漏れだすことによって発射の威力が衰えるのは避けられなかったため、この銃では薬室(子砲)をかなり長くすることによってその問題の解消を図っている。結果、薬室の長さが銃身より長くなるという、実際の運用ではかなり扱いの面倒そうな兵器が出来上がった。

 佛郎機より少しあとに西洋から、もしくは日本経由で伝わったのが鳥銃(火縄銃)。ちなみに英文blogでは直接ポルトガルから伝わったとしている"http://greatmingmilitary.blogspot.com/2014/11/matchlock-of-ming-dynasty.html"。特に中国南部で広く採用されたことは有名だが、なぜか北部での採用は大幅に遅れたため、普及速度では日本国内の方が早かった。英文blogでも日本側の銃身の方が優れた耐久性を示したと記しており、16世紀の時点で大砲はともかく銃の点では日本がアジアでも先導的な立場にあった様子を窺わせる。
 朝鮮役以降、中国ではより高機能な銃を求める動きが出てきた。神器譜巻2"http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/2567964"に紹介されている西洋銃や魯密銃といった武器を日本製の銃に代わる候補として評価し、特にオスマン帝国の兵器である魯密銃についてその信頼度、射程及び火力を称賛している。また中国独自の技術開発が行われていたほか、西洋の新兵器であるフリントロック(ミケレットロック)の銃"http://greatmingmilitary.blogspot.com/2015/04/flintlock-of-ming-dynasty.html"も紹介されていたという。

 一方、昔からある中国製の火器も西洋の影響を受けて変化した。16世紀の軍人、葉夢熊が作り出した各種兵器"http://greatmingmilitary.blogspot.com/2015/04/ye-meng-xiongs-cannons.html"の中にも、1000斤もの重量がある大型の大将軍砲である大神銃のような事例がある。大将軍砲も英文blogの記述を信じるなら西洋との接触後に変化したことになる"http://greatmingmilitary.blogspot.com/2015/07/da-jiang-jun-pao.html"。
 逆に大将軍砲の火力を維持しながら小型化して機動力を増したとされるのが威遠砲"http://greatmingmilitary.blogspot.com/2015/07/wei-yuan-pao.html"だ。重いものでも200斤(120キロ)だったそうで、また照星照門をつけているのも西洋の影響と考えられる("http://archive.wul.waseda.ac.jp/kosho/ke05/ke05_00063/ke05_00063_0012/ke05_00063_0012.pdf" 7-8/74)。
 虎蹲砲("https://archive.org/details/06049830.cn" 51-57/153)は明の初期から存在していた大砲(二将軍とか桜子砲、毒虎砲と呼ばれていた)に代わるものとして戚継光がデザインしたことになっている"http://greatmingmilitary.blogspot.com/2015/06/hu-dun-pao.html"。重さは36斤(20キロ強)と軽量で、こちら"http://sillok.history.go.kr/id/wna_12602020_002"やこちら"http://sillok.history.go.kr/id/wna_12703020_001"によれば、朝鮮役の平壌攻撃時にこの兵器が使われていたそうだ。
 英文blogではこのデザインが大きな成功を収めた一方、明代火薬兵器の限界も表れていたと指摘する。虎蹲砲を含め明代の大砲はその多くで散弾が使用されていたのだが、ぶどう弾や缶入りの散弾を発明しなかったため、装填に時間がかかったうえに間隙が大きく弾丸の勢いも失われた。また虎蹲砲のように砲車に乗せず地面に直接設置する大砲の場合、運搬の手間を考えると大型化ができなかったとも指摘している。どこまで妥当な指摘なのかはわからないが、中国由来の兵器に短所があったという指摘は戚継光のような同時代人も行っている。
 彼の批判を浴びた典型的な兵器が快鎗"http://greatmingmilitary.blogspot.com/2015/10/kuai-qiang.html"だ。ただしこちら"https://archive.org/details/06049830.cn"の64/153に載っている快鎗の図は英文blogと違っている。基本的に快鎗は古いタイプのハンドゴンで、特に中国北部では幅広く使われていたそうだ。マッチロックの採用が北部で遅れた理由の一つに、強風のため火皿の火薬が吹き飛ばされやすいためという理屈があったそうだ"http://greatmingmilitary.blogspot.com/2015/12/weather-proofed-arquebuses-of-ming.html"が、実際にはのちにジュンガル部や女真族の兵が問題なくマッチロック銃を使っていたため、影響は限定的だったと見られる。

 後装式という自国にない技術は素早く仕入れながらも、それ以外の分野では古い技術の応用で対処しようとする傾向が強かった明だが、最終的には兵器の西洋化にもっと踏み込むことになる。1つは16世紀に導入した前装式の發熕と呼ばれる大砲"http://greatmingmilitary.blogspot.com/2015/05/fa-gong.html"。おそらく欧州のファルコネットという言葉がなまったものだとみられるそうだが、重量は500斤から1000斤と中国由来の兵器より大型で、また図を見る限り砲車(艦船用か)に載せられている。
 發熕よりさらに大型の西洋型大砲が紅夷砲や西洋砲と呼ばれるものだ"http://greatmingmilitary.blogspot.com/2015/06/hong-yi-pao-and-xi-yang-pao.html"。大型大砲の存在自体は明も早い段階から知っていたものの、その採用は遅れた。その理由もやはり戦争があったか否か。サルフの戦いでヌルハチに敗れ、女真族が本格的な脅威であることに気づく以前において、大型で威力の大きい大砲を使う場面はあまりないと思っていたようだ。
 北方からの危険を感じて最初に明が行ったのは、スペインの大砲製造にかかわったことのある中国人にいわゆる呂宋砲を製造させたこと。だがこれは低品質な物まねにすぎなかったようで、満足のいくものはできなかった。次にやったのがマカオからの輸入と沈没船からの回収で、それによって大砲をそろえた明は1620年代に女真族相手の戦いでいくつか勝利を収めている。
 さらにより本格的な製造技術を学ぶために頼られたのがイエズス会の修道士たち。彼らからノウハウを得た明は、ついに自ら西洋型の大型大砲(カルヴァリンやキャノン"https://blogs.yahoo.co.jp/desaixjp/56007975.html")を大量生産するようになったのみならず、複数の金属を複合した大砲も製造したという。
 ただし中国での大型大砲活用は西洋の水準には達しなかったという。特に弾道計算については中国人にとってほとんど発想の外だったそうで、西洋型の砲兵もその利点を十分に生かしたとは言い難いようだ。むしろ製造ノウハウを手に入れた中国人の職人たちがのちに清に亡命し、敵の兵器性能向上に貢献するようになってしまった。先進的だった西洋の火薬兵器技術に完全に追いつくところまでは行けなかったと見るべきなんだろう。
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