明の火器 上

 中国において、元代の史料に火薬兵器に関する記述が乏しいという話は以前にも指摘した"https://blogs.yahoo.co.jp/desaixjp/55899547.html"。その前後に当たる宋と明の時代はまだいろいろと火薬兵器についての記述が見つかるだけに、この時期の記録が乏しいことは火薬兵器の歴史を調べるうえで障害となっている。
 ただし、他の時代も元代よりはましという程度で、それほど精密な史料が残されているというわけではない。それはずっと史料の豊富な明代についても同じ。細かいことを調べようと思うと、意外にわからないことが出てくるものだ。特にこの時代で問題になるのは、西洋と接触する以前の史料が実はあまり多くない点にある。
 こちらの論文"http://global-studies.doshisha.ac.jp/attach/page/GLOBAL_STUDIES-PAGE-EN-73/80581/file/vol2_4.pdf"には明代に発見された様々な銃砲についてまとめたグラフが載っているのだが、そこからわかるのは、永楽帝より後からポルトガルと接触して西洋式の大砲技術が入ってきた嘉靖帝までの期間における史料の少なさだ。在銘火砲の出土状況(図10)を見てもこの期間の出土例が少ないことがわかるし、特に大砲(図11)についてはこの時期はほとんど出土していない。
 となると文献頼りということになる。以前にも書いた通り、大明會典193巻には弘治帝(1487-1505年)以前の「定例」として「椀口銅銃三千箇、手把銅銃三千把」("https://archive.org/details/02088121.cn" 3/87)が3年ごとに製造されていたという記録があり、つまり西洋との接触以前にどのような大砲が製造されていたかについてのヒントとなる。
 しかし製造されていたのはこの2種類だけではない。同じ大明會典には上記の続きとして兵丈局が手掛けていた武器の中に「大将軍」「二将軍」「斬馬銃」「神機箭」など、様々な種類の火薬兵器と思われる武器の名前が載っている。残念ながら名前しかないため、それぞれがどのような兵器でどのくらい製造されていたかはわからない。調べようと思えば別の手段を取るしかなさそうだ。
 幸いにして明代の軍事について細かく紹介している英文blogがある"http://greatmingmilitary.blogspot.com/"。このblongのArsenalタグからFirearmを選べば、明時代に使用されていた様々な兵器についての記録を読むことができる。例えば大明會典の中に出てきた「大将軍」については、Da Jiang Jun Pao (大將軍砲) "http://greatmingmilitary.blogspot.com/2015/07/da-jiang-jun-pao.html"の項目に説明が載っている。
 それによるとこの大砲は明後期には鉄製の前装砲を意味していたそうで、長さは3尺6寸、重量は260斤(160キロ弱)と、それほど大きくない大砲だったようだ。だが明の初期においては同じ名前で違う大砲が存在していたそうで、その大砲は青銅製のボンバルドだったという。重さは600斤(360キロ)とのちの時代のものより重いがサイズは不明だ。
 で、この時点で既に他の文献と違う主張が出てくる。例えば先に紹介した論文では洪武年間に発見された無銘の鋳鉄大砲がのちの大将軍砲と似た形状(砲身の周囲に箍のようなものがある)をしていることから、洪武大砲のような鋳鉄砲がその後に「大将軍砲へと変化した」という仮説を提示している(p55)。同論文では弘治年間、陝西巡撫楊一清が要塞を視察したときに兵が怪我を恐れて大将軍砲の発砲命令を拒否したことについて「鋳鉄大砲が破裂する場合、破片が砕け散るため、周囲にいる者が怪我をすることが多い」(p53)ことが理由だろうとも推測している。
 しかしこの弘治年間の大将軍砲が鉄製であったという論拠はここには示されていない。論文筆者は兵録12巻"http://archive.wul.waseda.ac.jp/kosho/ke05/ke05_00063/ke05_00063_0012/ke05_00063_0012.pdf"に、天順年間や弘治年間に大将軍砲が量産された記録があると紹介している(8-9/74)のだが、ここに載っている「大将軍銃」が鉄製の兵器であるかどうかは、実は兵録を読んだだけだとわからない。
 サイズも史料によって記述が異なる。兵録の記述によれば銃身は150斤(90キロ)だったのを、16世紀(西洋との接触後)の人物である葉夢熊"https://zh.wikipedia.org/wiki/%E8%91%89%E5%A4%A2%E7%86%8A"が250斤(150キロ)に増やしたとあり、上の英文blogとは随分数字が違う。残念ながら英文blogが何を論拠に古くは600斤ものサイズがあったと主張しているのかは不明。掲載されている図は「武備要略」という本から抜き出したもののようだが、この本が書かれたのはどうやら1630年代らしく"https://books.google.co.jp/books?id=KCwOtwAACAAJ"、1606年成立の兵録"https://zh.wikipedia.org/wiki/%E5%85%B5%E9%8C%84"より新しい可能性がある。
 またわかりにくい表現として「銅母」なるものがある。後に顧炎武が記した天下郡國利病書の冊二"https://zh.wikisource.org/wiki/%E5%A4%A9%E4%B8%8B%E9%83%A1%E5%9C%8B%E5%88%A9%E7%97%85%E6%9B%B8_(%E5%9B%9B%E9%83%A8%E5%8F%A2%E5%88%8A%E6%9C%AC)/%E5%86%8A%E4%BA%8C"にも大将軍の説明が載っているのだが、兵録と同じように「一千斤銅母装發如佛郎機」と書かれている。銃身よりはるかに重い(約600キロ)この「銅母」が何であるかよくわからないというのが正直な話だが、もしかしたら銃を載せる台のようなものかもしれない。
 面倒なのは西洋との接触後に現れた兵器の中に似た名前のものが存在すること。16世紀に成立した練兵實紀"https://books.google.co.jp/books?id=r_MtAAAAYAAJ"の雑集"http://ctext.org/wiki.pl?if=gb&chapter=147552"、巻五「軍器制解」の31以下に「無敵大將軍解」が載っており、それに従うならこの兵器の「體重千餘斤」、つまり重さは600キロ余りとなる。だがここに載っている無敵大將軍は、図を見るとわかるように後装式の兵器であり、いわゆる大将軍砲とは異なる。こちら"https://archive.org/details/06049830.cn"の図(37/153)にある「共重一千五十斤」の兵器も、やはり後装式だ。いずれも佛朗機砲以後の兵器だと思われる。
 英文blogでも「無敵大将軍」は大将軍砲とは別兵器として記載している"http://greatmingmilitary.blogspot.com/2015/04/breech-loading-cannons-of-ming-dynasty.html"。それによるとこの後装式大砲は「紅夷砲」"http://greatmingmilitary.blogspot.com/2015/06/hong-yi-pao-and-xi-yang-pao.html"が採用されるまで中国最大の大砲だったが、重くて扱いにくく、サイズの割には短い射程で、機動力に欠けていたそうだ。

 以上、「大将軍」というたった1種類の兵器ですらわからないことが多数ある。なぜか。どうも明代の火薬兵器に関する記録の多くは西洋との接触があった16世紀以降に書かれたもののようで、それ以前の史料が少ないのではないだろうか。大きな技術革新を受けて多数の書物が書かれたが、それらは当然ながら最新技術に焦点を当てて記されたものであり、時代遅れとなった古い技術については言及が限られてしまう。そうした影響が出ているように思われる。
 実際、英文blogに載っている明時代の火薬についてまとめたページ"http://greatmingmilitary.blogspot.com/p/ming-dynasty-black-powder-formulas.html"を見ると、そこで紹介されている文献がすべて16世紀後半以降のものばかりであることがわかる。火薬の成分についてきちんと記している本がその時代に集中しているわけで、当然ながら西洋の影響を受けた後の火薬兵器については詳しく、だがそれ以前については簡略に記している可能性が高い。
 これは正史でも同じ。例えば明史巻92に載っている土木の変の記述("https://archive.org/details/06056977.cn" 33-35/188)を見ても、出てくるのは神機鎗(神鎗"http://greatmingmilitary.blogspot.com/2015/10/shen-qiang.html"のようなものか)と大小将軍銃、椀口銃、そして神機箭"http://greatmingmilitary.blogspot.com/2015/09/rocket-weaponry-of-ming-dynasty-p1.html"といった名称が中心で、武器の詳細についての説明はそこには出てこない。どんな武器であったかは後の時代の文献(武備史など)でフォローする必要がある。
 Andradeが主張するように永楽帝より後の明は戦乱の少ない時代が1世紀ほど続いた。火薬兵器に対する需要も関心も衰えた時代にその史料が少なくなってしまうのは仕方ないのかもしれない。元代よりましとは言え、明前半の火薬兵器に関する史料にも一定の制約があることは受け入れるしかないのだろう。
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