ただし、他の時代も元代よりはましという程度で、それほど精密な史料が残されているというわけではない。それはずっと史料の豊富な明代についても同じ。細かいことを調べようと思うと、意外にわからないことが出てくるものだ。特にこの時代で問題になるのは、西洋と接触する以前の史料が実はあまり多くない点にある。
しかし製造されていたのはこの2種類だけではない。同じ大明會典には上記の続きとして兵丈局が手掛けていた武器の中に「大将軍」「二将軍」「斬馬銃」「神機箭」など、様々な種類の火薬兵器と思われる武器の名前が載っている。残念ながら名前しかないため、それぞれがどのような兵器でどのくらい製造されていたかはわからない。調べようと思えば別の手段を取るしかなさそうだ。
それによるとこの大砲は明後期には鉄製の前装砲を意味していたそうで、長さは3尺6寸、重量は260斤(160キロ弱)と、それほど大きくない大砲だったようだ。だが明の初期においては同じ名前で違う大砲が存在していたそうで、その大砲は青銅製のボンバルドだったという。重さは600斤(360キロ)とのちの時代のものより重いがサイズは不明だ。
で、この時点で既に他の文献と違う主張が出てくる。例えば先に紹介した論文では洪武年間に発見された無銘の鋳鉄大砲がのちの大将軍砲と似た形状(砲身の周囲に箍のようなものがある)をしていることから、洪武大砲のような鋳鉄砲がその後に「大将軍砲へと変化した」という仮説を提示している(p55)。同論文では弘治年間、陝西巡撫楊一清が要塞を視察したときに兵が怪我を恐れて大将軍砲の発砲命令を拒否したことについて「鋳鉄大砲が破裂する場合、破片が砕け散るため、周囲にいる者が怪我をすることが多い」(p53)ことが理由だろうとも推測している。
以上、「大将軍」というたった1種類の兵器ですらわからないことが多数ある。なぜか。どうも明代の火薬兵器に関する記録の多くは西洋との接触があった16世紀以降に書かれたもののようで、それ以前の史料が少ないのではないだろうか。大きな技術革新を受けて多数の書物が書かれたが、それらは当然ながら最新技術に焦点を当てて記されたものであり、時代遅れとなった古い技術については言及が限られてしまう。そうした影響が出ているように思われる。
Andradeが主張するように永楽帝より後の明は戦乱の少ない時代が1世紀ほど続いた。火薬兵器に対する需要も関心も衰えた時代にその史料が少なくなってしまうのは仕方ないのかもしれない。元代よりましとは言え、明前半の火薬兵器に関する史料にも一定の制約があることは受け入れるしかないのだろう。
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