英雄ネイの伝説

 すごく久しぶりだが、ナポレオン漫画の最新号について。ロシアからの退却におけるネイ伝説をまとめたような回だったが、こうやって絵にするとなかなか格好いいじゃないか。特にカラーページの「よォ 戦友」の部分は渋さmax。やはりフィクションは盛り上がってなんぼである。それが事実だったかどうかとは別の基準で描かれるべきなのは間違いない。
 もちろん、この場に描かれている「ネイが1人で大砲を撃っていた」という話が史実である可能性は低い。この話の元ネタについてはこちら"http://26marshals.blog.fc2.com/blog-entry-5.html"にきちんと紹介されているので、知っている人もいることだろう。真ん中あたりに掲載されている≪『砲手』―ロシア遠征の一幕、十九世紀の掌篇より≫のところにある話こそ、漫画の元ネタだ。
 そこに紹介されている通り、この話はGeorges d'Esparbès"https://fr.wikipedia.org/wiki/Georges_d%27Esparb%C3%A8s"という19世紀から20世紀にかけて活躍したフランスの小説家が書いた短編である。ここでは「19世紀の掌篇」としているが、この話が収録されているLa Grogne"https://gallica.bnf.fr/ark:/12148/bpt6k9378512"が最初に出版されたのは1904年("https://dialnet.unirioja.es/descarga/articulo/3049132.pdf p309)。加えておそらくこの話が初めて掲載されたとみられる新聞"http://roubaix-bnr.cd-script.fr/presse/pdf/PRA_JRX/PDF/1904/PRA_JRX_19040208_001.pdf"の日付を見ると、1904年2月となっている。19世紀ではなく20世紀の作品と見ていいだろう。
 内容は基本的に日本語訳で紹介されている通り(ただし題名は新聞版がLe Canonnierに対して本に収録された時にはUn Canonnierになっている、La Grogne, p8)であり、1911年には英語の雑誌"https://babel.hathitrust.org/cgi/pt?id=uiug.30112065536606"にも英訳が紹介されている(p506)。もちろんネイが死んでから90年ほど後に発表された、しかも小説家の書いた作品だけに、これが史実である可能性は限りなく低い。
 ちなみに漫画の表現と小説そのものを比較すると、例えば「8ポンド砲をひとりで撃ってるのか? 普通は13人でやる仕事だぞ」の部分は発言ではなく下士官側の感想となっている(p10)し、ネイが馬の肝臓を歯で食いちぎったと説明する場面は省略されている(この漫画だとむしろ喜んで描きそうな場面だと思ったが)。また下士官が「親戚に連隊長がいる」という場面は、小説では「うちの中尉は大佐[連隊長]のいとこだ」という表現になっている。
 小説ではなく他の史料で、大陸軍後衛部隊指揮官がたった1人で行動したと記しているものはあるだろうか。1人ではなく2人という記述ならセギュールの回想録("https://books.google.co.jp/books?id=-rICAAAAYAAJ"、英訳は"https://books.google.co.jp/books?id=UTpUAAAAYAAJ")にある。それによるとネイとバイエルンの将軍ヴレーデの2人が「兵士たちが脱走した」結果として「彼らが単独で取り残された」ことに気づいたそうだ(p403、英訳はp516)。
 しかしこの話を信用するのはさすがに無理があるのではなかろうか。少なくともバイエルン側の史料"https://books.google.co.jp/books?id=WMtAAAAAcAAJ"には、ネイとヴレーデが参加した12月11日の後衛戦闘において、バイエルン兵が元帥や将軍の指揮を受けながらコサック相手にしぶとく抵抗したという話が載っている(p223-224)。彼らは「降伏して捕虜になるより武器を手に倒れる決意」で戦ったのだそうだ。元帥と将軍が2人きりで取り残されたという話よりは現実味があるだろう。
 というわけでこの話が史実と無関係なのはおそらく確かだと思われる。その意味では酒場のマスターの言う通り「いやいや元帥がひとりで ねぇよ爺ィども」ということになる。

 次に彼がドニエプル河を渡って逃げ延びた場面だが、ここでは1つの逸話について調べてみる。ネイが降伏を勧めに来たロシア軍士官に対して「元帥は降伏しない」という場面だが、この話は確かに19世紀に書かれた伝記("https://books.google.co.jp/books?id=bl3z3DPa5GUC" p88)や、歴史本("https://books.google.co.jp/books?id=fZX5DRDERwwC" p244)、回想録("https://books.google.co.jp/books?id=0QddAAAAcAAJ" p49)などに掲載されている。ただしこれらの本はいずれも19世紀中盤以降の出版だ。
 もっと古いものはないのか。探せばある。1827年出版の「ナポレオンの生涯」"https://books.google.co.jp/books?id=CFlSAAAAcAAJ"という本の中にネイが「フランスの元帥は降伏しない」と話している部分がある(p51)のだが、問題はこの本の作者。Sir Walter Scottとは、もちろん有名な英国の小説家だ。
 そう、この話は彼が英文で書いた本"https://books.google.co.jp/books?id=cC82AAAAMAAJ"の中に載っている話をそのまま仏語に訳したものなのだ。曰く「1人のロシア軍士官が現れ、ネイに降伏を勧告した。『フランスの元帥は決して降伏などしない』と恐れを知らぬ将軍は答えた」(p378)。どうやらこの逸話はScottのこの話が淵源となってフランス語圏にまで広がったもののように見える。私がフランス語のもっと古い史料を見落としている可能性はあるが、そうでない限りこの話もまた史実とは言い難い。

 最後に漫画に出てきた記者の話す「デュマ将軍の回想録」だが、これは以前にも紹介済み"http://www.asahi-net.or.jp/~uq9h-mzgc/g_armee/gumbinnen.html"。元ネタとなったマテュー・デュマの回想録はこちら"https://books.google.co.jp/books?id=ha7YCUNq_fsC"だ。デュマはネイと遭遇したグンビンネンに到着する前のことについて以下のように書いている。

「我々はようやくこの呪われた地、ロシアの領土から出た。コサックはもはや我らを熱心に追撃してこなかった。プロイセン領土に入るにつれ、よりよい宿泊所と物資を見つけることができた。我々が最初に休むことができたのはヴィルコフィスキーで、それからグンビンネンへ向かい、そこで私は最初に通過した際に宿泊した医者の家に向かった」
p484

 漫画では「ポーランドの将軍が国境そばに住んでいた」となっているが、実際にネイと出会ったのは医者の家に宿泊していたデュマであり、もちろん彼は「ポーランドの将軍」ではなくフランスの将軍だ"https://fr.wikipedia.org/wiki/Mathieu_Dumas"。一方、漫画で描かれているネイのセリフは一部を除きほぼ回想録通りとなっている。
 その一部とは最後に出てくる「腹ペコだ 何か食い物あるかな」の部分。前にも書いた通り、こうしたセリフはデュマの回想録には出てこない。それどころか19世紀に書かれた本("https://books.google.co.jp/books?id=K5tyQIgif8MC"のp207、"https://books.google.co.jp/books?id=O4QfAAAAYAAJ"のp252、"https://books.google.co.jp/books?id=Ko1BAQAAMAAJ"のp595など)にも見当たらない。
 私が探した限り、最初に「スープを一杯くれ」という話が出てきたのは1934年に出版された本("https://books.google.co.jp/books?id=9kxEAAAAIAAJ" p179)だ。著者"https://fr.wikipedia.org/wiki/L%C3%A9on_Riotor"は著述家兼政治家という、フランスではよく見かけるパターン。そしてこの文章が登場した後になると、たとえば1941年出版の本("https://books.google.co.jp/books?id=KVqfAAAAMAAJ" p163)や、さらに2004年出版の本("https://books.google.co.jp/books?id=BNBnAAAAMAAJ" p283)にもこのフレーズが採用されている。
 もちろん英語圏にもこの言葉は広まった。1958年に出版された英語の本("https://books.google.co.jp/books?id=nP9nAAAAMAAJ" p66)を皮切りに、1962年に出版されたDelderfieldの本、さらに1982年に出版されたHorricksの本("https://books.google.co.jp/books?id=NNFnAAAAMAAJ" p146)などにもこの文章が出てくる。今回の漫画でも採用されてすっかり定着した感がある言葉になったが、史実との関係で言うのなら少なくともこの部分についてはあくまでフィクションとみなすべきだろう。
スポンサーサイト



コメント

非公開コメント

トラックバック