デゴの後 下

 承前。デゴの敗北を受けたボーリューがどのような対応策を講じたかについて説明した。Bonapartes erster Feldzug 1796"https://books.google.co.jp/books?id=3wIxAQAAIAAJ"のp269には、その策を受けたオーストリア軍の配置がどのようになったかについて説明した図が載っている。
 それによるとアクイ(及びその周辺)にいたのはトゥルンの3個大隊、ライスキー3個大隊、テルツィ1個大隊、ラターマン1個大隊の計8個大隊。その南方のカルトジオやポンツォーネに展開するシュビルツ指揮下の部隊がラターマン1個大隊、ナダスディ1個大隊、ブレシェンヴィユ1個大隊、トスカナ1個大隊の計4個大隊。ボケッタとオヴァダに展開するヴカソヴィッチの哨戒線がカールシュテッター2個大隊、ストラソルド2個大隊、スルイナー1個大隊の計5個大隊。さらにオヴァダ付近にフフ1個大隊、オヴァダ北方のバザルッツォ付近にコロレード2個大隊がいる。
 一方、ボスコ周辺まで引き下げられたのは、アルヴィンツィ2個大隊、アントン大公2個大隊、ドイチュマイスター1個大隊、テルツィ2個大隊、ナダスディ1個大隊と、ほぼ壊滅に近いシュタイン1個大隊、シュレーダー1個大隊、ペレリーニ1個大隊、プライス1個大隊の残余だ。これらの配置はこちら"https://blogs.yahoo.co.jp/desaixjp/56000706.html"で紹介したNapoleon In Italy, 1796-1797"https://books.google.co.jp/books?id=nUBvCwAAQBAJ"の説明とほぼ同じ、というかこの本がBonapartes erster Feldzug 1796を参考にしたと考えられるだろう。
 要するに彼は部隊を大きく2つに分け、18個大隊はまだ最前線近くに展開し、8個大隊と大損害を受けた4個大隊は戦線から遠く離れたボスコに後退させたのである。最前線の18個大隊についても中身を見る限り、本当にフランス軍近くにいたのはシュビルツの率いる4個大隊とそれをすぐ支援できる位置にいたアクイの8個大隊(計12個大隊)くらいで、ヴカソヴィッチの部隊はそれまでフランス軍が姿を現したことのない東方に展開していたし、残る3個大隊はそのヴカソヴィッチのさらに後方に控えていた。
 ボーリューのヴォルトリ方面へのこだわりがオーストリア軍の分散をもたらし、それがフランス軍による各個撃破を招いたという話は以前にも書いている"https://blogs.yahoo.co.jp/desaixjp/51867827.html"。だが各個撃破された後も彼がそれを本当に反省したかどうかは、この配置を見る限り疑わしい。少なくとも17~19日のオーストリア軍の展開は、部隊を前線と後方の2ヶ所に大きく分断していたうえ、前線部隊も広範囲に散らばった状態が続いていた。

 ボーリューがこの腰の引けた対応を見直したのは、以前にも書いた"https://blogs.yahoo.co.jp/desaixjp/51879392.html"通り19日のことである。その理由についてBonapartes erster Feldzug 1796は「敵がデゴの先まで彼を追撃しようとしなかったこと、そし支援のため前進するようにとのサルディニア王の緊急要請とともにド=ラ=トゥール将軍が何度もアクイに現れたこと」(p283)が背景にあったと説明している。もちろんそれに加え、18日付でコッリが送ってきた支援要請も彼の判断に影響を与えた。
 21日にボーリューから皇帝に出された手紙では、なおコッリと連携してチェヴァのフランス軍を攻撃する意図について言及があったという(p284)。もちろん現実にはそんなことは不可能だったのだが、それでもボーリューが再び前進する姿勢を示していたことは確かなようだ。20日に彼が出した命令(p285)によれば、まずシュビルツの4個大隊はポンツォーネとカルトジオを21日に出発することになっていた。ヴカソヴィッチの5個大隊と、コロレード及びフフの計4個大隊(なぜ1個大隊増えているのかは不明)は代わって22日にシュビルツがいたところに到着する。
 またヴァリス及びバナルの2個大隊とナポリの3個騎兵連隊はパヴィアから行軍する。一方、ボスコに後退した各大隊はその位置にとどまることになっており、ボーリューはやはりこれらの部隊を使うつもりはなかったようだ。前進姿勢を見せ、そうコッリにも言明しているが、実際には前線に展開していた部隊をよりアクイ周辺に集めるといった程度のもので、全軍をまとめて前進させるという内容のものではなかった。
 20日の命令が実行され完成するのは24日までかかったという。Bonapartes erster Feldzug 1796ではこのボーリューによる新たな配置について以下のようにまとめている。

1)アクイの「作戦部隊」:ゼボッテンドルフ師団
ヴェツェル旅団(ブレシェンヴィユ1個大隊、ヴァリス1個大隊、コロレード2個大隊)
パイスト旅団(フフ2個大隊、ラターマン2個大隊)
ピットーニ旅団(トスカナ1個大隊、ライスキー3個大隊、ナダスディ1個大隊)
シュビルツ旅団(槍騎兵8個大隊、ヨーゼフ大公ユサール4個大隊、エルデディ・ユサール2個大隊)
クトー公旅団(国王騎兵4個大隊、ナポリ公騎兵4個大隊)
計 歩兵13個大隊、騎兵22個大隊
2)テルツォの「拠点部隊」:
リプタイ旅団(トゥルン3個大隊、ストラソルド2個大隊、テルツィ1個大隊、スルイナー1個大隊、ヨーゼフ大公ユサール2個大隊、ナポリ王妃騎兵4個大隊)
計 歩兵7個大隊、騎兵6個大隊
3)ボスコの「監視部隊」、すぐノヴィとポッツォ=フォルミガロ間に移動:ローゼルミニ師団
ニコレット旅団(アントン大公2個大隊、アルヴィンツィ2個大隊、テルツィ2個大隊、ドイチュマイスター1個大隊、ナダスディ1個大隊、ヨーゼフ大公ユサール2個大隊、加えて25日にナポリ第4騎兵連隊の4個大隊)
計 歩兵8個大隊、騎兵6個大隊)
4)監視コルドン:
ヴカソヴィッチ旅団(バナル1個大隊とカールシュテッター2個大隊)がメラッツォ―シルヴァノ―カステレット=ドルバ―ガヴィの線に展開
総計 監視部隊と一緒に行動しているプライス、ペレリーニ、シュレーダー、シュタインの4個団体の残余と、ミラノにとどまっているヨルディス1個大隊を除き、歩兵31個大隊と騎兵36個大隊

 最後の4個大隊についてボーリューは21日にアクイからローゼルミニに対して「アレッサンドリアに集め、当面の軍務のためにドイチュマイスター大隊と合流させよ」(p286n)と命じている。この4個大隊も含め、彼が「監視部隊」送りとした各大隊については使用不可能と考えていたことは間違いないだろう。だがBonapartes erster Feldzug 1796の筆者は、4個大隊以外の監視部隊所属各大隊がこのような状態にあったとはほとんど考えられないと批判している。
 また前線に集められた部隊についても、「作戦部隊」がたった13個大隊でしか構成されておらず、ボルミダ峡谷の安全確保のため7個大隊が「拠点部隊」に配属されているところからも、戦力集中が本当に進んでいたと断言するのは難しそう。確かに最初の頃の、本当にバラバラだった時期よりは兵力の集中が進んだとは言えるが、フランス軍が行っていたような集中投入に比べればなお分散している状態だった。
 いずれにせよデゴの敗戦後、4月16日から19日に至るまで、オーストリア軍はフランス軍に圧力をかけるどころか、後衛部隊を残したうえで彼らから逃げるように動いていたことが、この書物の記述から確認できる。19日に方針を変更した後も実際に態勢が整うまでにはさらに5日間を要しており、その間フランス軍が一方的にピエモンテ軍ばかりを攻撃できる状況を許したことこそ、モンテノッテ戦役における連合軍敗退の最大の要因だろう。
 ボーリューの作戦行動は批判を免れ得るものとは言い難い。確かに1805年戦役のマック"https://blogs.yahoo.co.jp/desaixjp/56318309.html"のように繰り返し間違いをしでかした司令官に比べれば酷くはないんだが、それでも決定的な局面においてピエモンテ軍を見捨てるかのような行動を取ったのは拙かった。チェヴァこそが重要な拠点だと考えていたのなら、少なくともチェヴァ方面にすぐ駆け付けられる場所から遠ざかった点については非難されるべきだろう。
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