Yの受難

 少し前に話題になった記事"https://gigazine.net/news/20180614-why-caused-population-bottleneck/"があった。2年半前に発見された「新石器時代に生殖できた男性は極度に少なかった」"https://wired.jp/2015/11/10/neolithic-culture-men/"という研究結果を踏まえて新たに書かれた論文についてまとめたもので、記事に対する反応もそれなりにあった"http://b.hatena.ne.jp/entry/s/gigazine.net/news/20180614-why-caused-population-bottleneck/"。
 だがこの記事は正直いってかなり酷い。理由は2つあって、1つは元ネタの英文記事"https://www.livescience.com/62754-warring-clans-caused-population-bottleneck.html"におかしな部分があるためだが、それに加えて日本語に翻訳する段階でのおかしなミスも多々ある。はっきり言って、この記事を読んでも元の論文に書かれていることは全く理解できないだろう。
 まともな日本語の紹介がないわけではない。こちらの記事"http://karapaia.com/archives/52260642.html"は、少なくとも上のものよりはきちんと紹介しているし、こちら"http://sicambre.at.webry.info/201805/article_48.html"は短いものの要点はきちんと押さえている。なぜよりによって1番まともでない翻訳がはてなブックマークを集めてしまったのか。おそらくは「世界中の男性が大量死」という刺激的すぎる見出しのせいだろうが、英文記事にも使われているこの見出しは明らかに間違いだ。「子孫を残せる男性が激減」の方が地味だがまだマシな言い回しである。
 もちろん記事の冒頭に出てくる「17人の女性に対し、1人の男性しかいなかった」という表現もとんでもないミス。元ネタ英文ではseems to、つまり「あたかも17人の女性ごとに1人の男性しか残らなかったかのようだ」という書き方になっている。これもいささか扇情的な言い方ではあるが、日本語よりはずっと真っ当。正確にはY染色体の多様性がmtDNAの多様性の17分の1程度まで激減したと言う方がいいだろう。人数の問題ではなくバリエーションの問題であり、人数の男女比はおそらく1対1に近かったと思われる。
 次に文章がおかしいのはボトルネックを説明する仮説の2つ目。英文記事では「何人かの男性が社会の中でより力を持ち、それによってより多くの子供を産みだした」とある。つまり格差の拡大によって一部の権力を持つ男性が多くの子孫を残せたのに対し、他の面々は子供を作れなかったのではないかという仮説であり、日本語記事に出てくるような意味の分からない文章にはなっていない。残念ながらきちんと英語を読み込めない人が翻訳に当たったと解釈するしかないだろう。
 さらに、これは元の英文記事でも省略されているが、元論文"https://www.nature.com/articles/s41467-018-04375-6"には第3の仮説(論文の中では2番目)も載っている。所謂「創始者効果」"https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%89%B5%E5%A7%8B%E8%80%85%E5%8A%B9%E6%9E%9C"がそれで、ただし初期農耕民は既に狩猟採集民よりも規模が大きかったと見られるため、この仮説も成立しないというのが論文の指摘だ。 
 次におかしいのは「『Y染色体の突然変異』や『異なる種族間の戦争』『自然死』などの18通りの仮説を立て」の部分。英文では「Y染色体の突然変異、グループ間の抗争及び死といった要素を含む異なるシナリオを作り、18通りのシミュレーションを行った」とある。抗争や突然変異というのはあくまで各シナリオに含まれる要素であって、それ自体が1つの仮説ではないことが分かる。ここも日本語訳のおかしな部分と言える。
 ただし英文記事もあまりいい説明だとは思わない。シミュレーションの内容を記している捕捉資料"https://static-content.springer.com/esm/art%3A10.1038%2Fs41467-018-04375-6/MediaObjects/41467_2018_4375_MOESM1_ESM.pdf"を見ると、18通りのシミュレーションにおいて突然変異率は一定とされているし、グループ間抗争自体は常にあるものと想定されている。違うのは「総人口」「死亡率」そして「父系クランかそうでないか」の3要素であり、それらを変えるとどうなるかをシミュレーションしたというのが今回の論文のキモだ(p7)。
 日本語記事にある「シミュレーションを通して、最も有力な仮説となったのが、『集団間で戦争が行われており、負けた集団の男性が皆殺しにされた』という説です」という説明も、酷い間違いである。英文でも「もし1つのクランがもう1つを全滅させれば」という言い回しがあるのでそれを使ったのだろうが、先ほどの論文捕捉資料を見れば分かる通り、死亡率は最大でも50%としか設定されていない(p7-8)。英文は「もし」という表記が使われていることからも分かるように内容をかみ砕いて説明するためにこの一文を持ち出しているのだが、日本語記事ではそれしか翻訳していないためおかしな文章ができあがっている。
 そもそも英文記事で繰り返し掲載されており、この論文でもキモといえる「父系クラン」について日本語記事が全く触れていないのは決定的におかしい。この論文で最も重要なのはまさに「父系クランこそY染色体多様性が失われた大きな要因」であることをシミュレーションによって立証したところにある。18通りのシミュレーションを見ると、父系クランであった9通りのケースにおいて、そうでない9通りよりも大幅に多様性が失われたことが記されている(捕捉資料 p9-26)。
 なぜ父系クランだとY染色体の多様性が失われるのか。「父系クランのそれぞれのメンバーは互いにY染色体がとても似ている」ため、戦争により多くの死者を出したクランのY染色体は急速に遺伝子プールから消えていく。一方、父系クランに属する女性は他のクラン出身であり、幅広いmtDNAのバリエーションを持つ。だから女性たちが同じように戦争で多くの死者を出したとしても、特定のmtDNAのみが急減するような事態にはならない。Y染色体のみが多様性を失い、mtDNAの多様性が維持されたのはそれが理由だ。
 論文が想定しているのは100のクラン間において60世代(1500~1800年間)にわたって抗争が続いた場合のゲノム多様性への影響だ。およそ7000年前からの2000年間に17対1というほど極端な多様性の差が生まれることが、父系クランの存在だけで説明できるかどうかをシミュレーションによって立証しようとしたのである。結果として父系クラン間の抗争はY染色体の多様性を大きく減らす効果を持ち得ることが分かった。別に極端な男女比に至るまで男性のみを皆殺しにし続けなくても、ゲノム上のボトルネックは十分に生じる。ジェノサイドを想定しなくても奇妙なボトルネックは説明できるというのがこの論文の主張である。

 むしろここで興味深いのはY染色体の多様性がなぜ7000年前から急減し、5000年前から再び拡大へと向かったのか、である。このうち後半の出来事についてはおそらくピンカーの言うリヴァイアサン効果"https://blogs.yahoo.co.jp/desaixjp/55350978.html"が理由だろう。5000年前といえば本格的な政治体が一部地域で誕生したときだ。国家権力による暴力の独占は、少なくともY染色体にとってより生き残りやすい新たな環境になった解釈できる。
 一方、前半の7000年前はそれほど明確な画期ではない。農業の開始は約1万年前であり、つまり初期農耕民は既に生まれていたことになる。おそらく一定の人口規模を持つ父系クランもその頃には登場していただろう。にもかかわらず3000年間はY染色体の多様性が増えていったのはなぜか。まるでそれまではY染色体の多様性を減らすようなクラン間抗争がなかったかの如くに。
 一つの説として、単にその時期の人類の数が少なく相互に争いあうほど狭い地域に高い人口が集まっていなかったことが考えられる。初期農耕の拡大によって増えた人口は、まだ耕作されていない地域に進出することによって吸収できた。クラン単位でまとまった本格的抗争を繰り広げる必要が出てきたのは、耕作可能な地域にあらかた農耕民が住み着き、それ以上人口が増えれば土地を巡って争うしかなくなってからであり、その時期が農業開始から約3000年後だったのではないか。
 ピンカーやガットはヒトの暴力性が時代とともに減っていったと主張している。もしかしたらそれが成り立つのは政治体成立以降であり、それ以前はむしろ人口増によって暴力行為が増えるような時代が存在したのかもしれない。

 ちなみにこの論文を記したのはスタンフォード大の生物学教授と、同大学の社会学の学部生、及び数学の学部生だ"https://news.stanford.edu/2018/05/30/war-clan-structure-explain-odd-biological-event/"。大学院生ですらない、undergraduateである。才能に年齢は関係ないってことか。
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