トレビアの戦い 下

 承前。トレビアの戦い初日、1799年6月17日の出来事について、マクドナルドとラユールの回想録が矛盾していることを指摘した。ただし回想録が相互に矛盾しているのは珍しくない。自己正当化のためにウソが混じったり、時間の経過に伴って記憶違いや勘違いが入り込むのが当たり前だからだ。どちらがよりもっともらしいかを決めるには、もっと古い一次史料を探し出せばいい。
 だがトレビアの戦いに関して当事者が書いた古い史料は見つからない。いろいろと探してみたがこれが本当に見つからない。Phippsはマクドナルドがペリニョンに対して書いた手紙があるとしている("https://books.google.co.jp/books?id=-59bAAAAIAAJ" p294)のだが、その元ネタはLes campagnes de 1799"https://archive.org/details/lescampagnesdes00gachgoog"のp279。この本の著者の信頼度"https://blogs.yahoo.co.jp/desaixjp/52627742.html"は皆無だ。
 当時のモニトゥール紙"https://archive.org/details/gazettenationale1799panc"にも当たってみたが、当事者の報告らしきものがほとんどない。かろうじてラポワプの報告がp1156に載っているのだが、会戦前の時点での情報であるうえ、そもそもラポワプ自身はトレビアの戦いに参加し損ねている。この戦いに関する通常の記事はいくつか引っかかるものの、書き手が明確でないこれらの情報はどうしても二次史料とみなさざるを得ない。

 そう、二次史料なら古いものがたくさんあるのだ。まず収穫月21日(7月9日)のモニトゥール紙に、同14日付(7月2日)のフランクフルト発のニュースが掲載されている。それによると「マクドナルド将軍が指揮するフランス軍はモデナからパルマへ、そしてピアチェンツァへと突入した。敵をトレビア対岸まで追い払った後で、彼らはティドネまで前進した(後略)」(p1183)そうだ。マクドナルド自身が一連の指揮を執っていたと読める文章だ。
 会戦と同じ1799年に出版されたEuropäische Annalen"https://books.google.co.jp/books?id=IbtNAAAAcAAJ"には「6月17日、マクドナルド将軍はすぐピアチェンツァを発してオット中将の師団に向けてヴォゲーラ街道上を移動し、ティドネの対岸へ敵の哨戒線を激しく押し戻した」(p222)という話が書かれている。こちらは明確に17日という日付が載っており、マクドナルド自身がこの日に会戦を指揮したと解釈できる文言となっている。
 こうした記述は、史料にきちんと当たることができたであろう著者の本にも共通している。マテュー・デュマが1800年にまとめたPrécis des événemens militaires, Tome Premier."https://books.google.co.jp/books?id=MUhGAAAAYAAJ"には「17日、ヴィクトール将軍と合流したマクドナルド将軍はピアチェンツァを発し、ティドネの小川の左岸、ピアチェンツァから2リューのところにあるサン=ジョヴァンニ村へと前進した。その背後にはオット将軍が後退しており、彼がトレビア河畔に配置していた哨戒線も下がっていた」(p167)と書かれている。
 彼は1817年にPrécis des événemens militairesをさらにバージョンアップ"https://archive.org/details/prcisdesvnemens23dumagoog"している。そこでは「17日、ヴィクトール将軍指揮下の左翼と再合流したマクドナルド将軍は、全軍とともにピアチェンツァ前面のトレビア右岸に布陣した。(中略)マクドナルド将軍は彼ら[オットの兵たち]を退かせた後で、前衛部隊(約5000人)を指揮するサルム将軍にこの川[トレビア]を渡り、敵を偵察し、交戦することなくその動きを監視するよう命令を与えた」(p195-196)と、少し詳細な経緯が書かれている。
 同じく史料を使って書かれたとされているVictoires, conquêtes, etc., Tome Dixième."https://books.google.co.jp/books?id=i1Wo_-ElL3oC"も記述内容はほぼ同じ。マクドナルドは「6月17日、ヴィクトールが指揮する左翼と再合流した後でトレビア右岸に軍を布陣した。(中略)マクドナルドはこの[オットの]兵を攻撃し、彼らはロトペド[ロトフレノ]へと後退し、それからカステル=サン=ジョヴァンニ方面へとティドネを再渡河した。彼らはサルム将軍が指揮する軽兵にそこまで追撃された」(p343)とある。
 1809年にはこの戦いについて記した歴史辞典"https://books.google.co.jp/books?id=LVM_AAAAcAAJ"も出版。17日に「マクドナルドはピアチェンツァ前進し、トレビアの河床で敵と遭遇し、8000人の兵力を持つオット将軍の師団に対し午後4時に攻撃を行った」(p144)という。また1818年出版の歴史書"https://books.google.co.jp/books?id=4XFT5frkVU0C"も、「6月17日、彼[マクドナルド]はピアチェンツァ前面のトレビア右岸に布陣した。サルム将軍はこの川を渡り、左岸に位置するオット将軍の部隊を追撃し、それから敵を監視するよう命令を受けた」(p8)と記している。
 古い英語文献にも同様の記述は多い。例えば1800年出版のThe History of the Campaigns 1796-1799"https://books.google.co.jp/books?id=tRUPAAAAYAAJ"には「17日に彼[マクドナルド]は再びオット将軍に対して行軍した。後者は彼の眼前で退却を続けたが、その前哨線を常に視界に収めていた。マクドナルドは2個縦隊でトレビアを渡り、一方はポー河に沿って、他方はカステル=サン=ジョヴァンニ方面へ行軍し、帝国軍の前哨線をこの地の向こうとティドネの小川の対岸に撃退した」(p130)とある。
 1801年にロンドンで出版された本"https://books.google.co.jp/books?id=6WwFAAAAQAAJ"に載っているスヴォーロフのイタリア戦役史にも「マクドナルドがオット将軍を追い払い、トレビアを渡って既にモローが到着しているトルトナへの道を開いた時、彼はスヴォーロフと遭遇した」(p183)とある。要するに古い史料の大半は会戦初日からマクドナルドが指揮していたように読めるわけだ。

 だが例外もある。ジョミニのHistoire critique et militaire des guerres de la Révolution, Tome Onzième."https://books.google.co.jp/books?id=OzEvfG0xYoQC"がそうだ。同書には6月18日の記述中に「司令官[マクドナルド]不在のため全戦線の指揮を執っていたヴィクトール」(p360)という表現が出てくるのだ。そして17日の戦闘に関する記述(p354-357)の中にマクドナルドの文字は出てこない。
 この本の出版は1822年。マクドナルドの回想録が出る70年も前だ。当時においてこの主張はとても珍しいものだったようで、ドイツ語文献"https://books.google.co.jp/books?id=Rys6AAAAcAAJ"の中では「ジョミニの著作で言われているように」(p84)とわざわざ断ったうえでこの話が紹介されている。彼がどこからこの情報を得て著作に反映させたのかはわからないが、マクドナルド回想録以外の情報源があったことは確かであり、その事実は無視しがたい。
 そう考えると、古い史料でも17日のマクドナルドが「トレビア右岸」にとどまり、同左岸からティドネの対岸まで攻め込んだ部隊に同行していたという記述がないことが気になる。彼はあくまでトレビア右岸から遠隔指揮をしていただけで、現場指揮官はもしかしたらヴィクトールに預けていたつもりだったのかもしれない。
 ただ一方でマクドナルドが怪我を押して奮闘していたという記述もある。Victoires, conquêtes, etc.では「マクドナルドは6月10日[ママ]にモデナ正面で受けた傷に常に苦しんでおり、戦闘中も担架で運ばれることを強いられていた」(p349)とあるし、The History of the Campaigns 1796-1799には「負傷にも関わらず軍に追随し指揮を執っていたマクドナルド」(p132)という言い回しが出てくる。
 さらにこちら"https://books.google.co.jp/books?id=lece_A14j2MC"にも「モデナで負傷し、この恐ろしい戦闘の間ずっと担架で運ばれていたマクドナルドは、なお自在に布陣を使いこなし」(xxviii)ていたとある。もしこれらの記述が正しいなら、マクドナルドが回想録で書いているような「ベッドで動けない」状態とは言い難いし、ジョミニの言うような「司令官不在」の状況が長く続いたとも考えにくい。
 マクドナルドとラユール以外の回想録としては、サラザンの本だけでなくティエボーの本"https://books.google.co.jp/books?id=xQUoAQAAIAAJ"もある。だがどちらもトレビアの戦いについて詳細な流れを紹介しているわけでも、またそこにおけるマクドナルドの役割についてきちんと書いているわけでもない。信頼度が低いとはいえ当事者の書いた回想録に頼るのも難しいわけだ。残念ながらこの問題については明確な正解は現時点では出せないようだ。
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