承前。トレビアの戦い初日、1799年6月17日の出来事について、マクドナルドとラユールの回想録が矛盾していることを指摘した。ただし回想録が相互に矛盾しているのは珍しくない。自己正当化のためにウソが混じったり、時間の経過に伴って記憶違いや勘違いが入り込むのが当たり前だからだ。どちらがよりもっともらしいかを決めるには、もっと古い一次史料を探し出せばいい。
そう、二次史料なら古いものがたくさんあるのだ。まず収穫月21日(7月9日)のモニトゥール紙に、同14日付(7月2日)のフランクフルト発のニュースが掲載されている。それによると「マクドナルド将軍が指揮するフランス軍はモデナからパルマへ、そしてピアチェンツァへと突入した。敵をトレビア対岸まで追い払った後で、彼らはティドネまで前進した(後略)」(p1183)そうだ。マクドナルド自身が一連の指揮を執っていたと読める文章だ。
こうした記述は、史料にきちんと当たることができたであろう著者の本にも共通している。マテュー・デュマが1800年にまとめたPrécis des événemens militaires, Tome Premier."
https://books.google.co.jp/books?id=MUhGAAAAYAAJ"には「17日、ヴィクトール将軍と合流したマクドナルド将軍はピアチェンツァを発し、ティドネの小川の左岸、ピアチェンツァから2リューのところにあるサン=ジョヴァンニ村へと前進した。その背後にはオット将軍が後退しており、彼がトレビア河畔に配置していた哨戒線も下がっていた」(p167)と書かれている。
彼は1817年にPrécis des événemens militairesをさらにバージョンアップ"
https://archive.org/details/prcisdesvnemens23dumagoog"している。そこでは「17日、ヴィクトール将軍指揮下の左翼と再合流したマクドナルド将軍は、全軍とともにピアチェンツァ前面のトレビア右岸に布陣した。(中略)マクドナルド将軍は彼ら[オットの兵たち]を退かせた後で、前衛部隊(約5000人)を指揮するサルム将軍にこの川[トレビア]を渡り、敵を偵察し、交戦することなくその動きを監視するよう命令を与えた」(p195-196)と、少し詳細な経緯が書かれている。
同じく史料を使って書かれたとされているVictoires, conquêtes, etc., Tome Dixième."
https://books.google.co.jp/books?id=i1Wo_-ElL3oC"も記述内容はほぼ同じ。マクドナルドは「6月17日、ヴィクトールが指揮する左翼と再合流した後でトレビア右岸に軍を布陣した。(中略)マクドナルドはこの[オットの]兵を攻撃し、彼らはロトペド[ロトフレノ]へと後退し、それからカステル=サン=ジョヴァンニ方面へとティドネを再渡河した。彼らはサルム将軍が指揮する軽兵にそこまで追撃された」(p343)とある。
古い英語文献にも同様の記述は多い。例えば1800年出版のThe History of the Campaigns 1796-1799"
https://books.google.co.jp/books?id=tRUPAAAAYAAJ"には「17日に彼[マクドナルド]は再びオット将軍に対して行軍した。後者は彼の眼前で退却を続けたが、その前哨線を常に視界に収めていた。マクドナルドは2個縦隊でトレビアを渡り、一方はポー河に沿って、他方はカステル=サン=ジョヴァンニ方面へ行軍し、帝国軍の前哨線をこの地の向こうとティドネの小川の対岸に撃退した」(p130)とある。
だが例外もある。ジョミニのHistoire critique et militaire des guerres de la Révolution, Tome Onzième."
https://books.google.co.jp/books?id=OzEvfG0xYoQC"がそうだ。同書には6月18日の記述中に「司令官[マクドナルド]不在のため全戦線の指揮を執っていたヴィクトール」(p360)という表現が出てくるのだ。そして17日の戦闘に関する記述(p354-357)の中にマクドナルドの文字は出てこない。
そう考えると、古い史料でも17日のマクドナルドが「トレビア右岸」にとどまり、同左岸からティドネの対岸まで攻め込んだ部隊に同行していたという記述がないことが気になる。彼はあくまでトレビア右岸から遠隔指揮をしていただけで、現場指揮官はもしかしたらヴィクトールに預けていたつもりだったのかもしれない。
ただ一方でマクドナルドが怪我を押して奮闘していたという記述もある。Victoires, conquêtes, etc.では「マクドナルドは6月10日[ママ]にモデナ正面で受けた傷に常に苦しんでおり、戦闘中も担架で運ばれることを強いられていた」(p349)とあるし、The History of the Campaigns 1796-1799には「負傷にも関わらず軍に追随し指揮を執っていたマクドナルド」(p132)という言い回しが出てくる。
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