この話はPhippsのThe Armies of the First French Republic"
https://books.google.co.jp/books?id=-59bAAAAIAAJ"にも紹介されている。それによるとトレビアの戦いの初日に当たる6月17日に彼は負傷のため「体が動かず、ピアチェンツァにとどまった」(p285)。行軍途上で受けた負傷の苦しみのため「マクドナルドは安静にしており、ティドネ河畔にいる各師団の指揮権を先任師団長であるヴィクトールに与えた」。だがヴィクトールは「おそらくこの日の業務にあまり重きを置かなかったのか、マクドナルドに知らせることなく同じくピアチェンツァにとどまった」という(p286)。
ヴィクトールの代わりに各師団の指揮を執ったのは旅団長のシャルパンティエ准将で、彼はオーストリア軍のオット将軍をティドネ対岸に追い払った。彼はそのままマクドナルドの指示に従ってティドネのこちら側にとどまるつもりだったが、彼より階級が上のリュスカ将軍がシャルパンティエの抗議にもかかわらずティドネを渡って追撃を始めてしまい、そして追っていった先でスヴォーロフ主力の先頭と衝突する羽目に陥った。以上がPhippsの説明だ。
「私の苦痛は横たわっていた車両の移動によって大いに増大していた。(中略)私は派出した2個師団の前進を急がせ、彼らに全速力でティドネ川の線に着くよう命じた。他の部隊も陣についたのは29日だった。既に布陣していたヴィクトール師団はいくらかの砲撃を交わしていた。不幸なことにヴィクトール自身はピアチェンツァにとどまっており、そこには私自身もいたのだが、彼は私に状況を知らせなかった。師団の布陣について彼はシャルパンティエ准将に任せていた。(中略)どの部隊も交戦しないよう命じられていた。だがリュスカは、シャルパンティエ准将の反対にもかかわらず、ティドネを強行渡河することにこだわった。(中略)体調のため乗馬することができなかった私は、ティドネの戦線に布陣している4個師団の指揮権をヴィクトール将軍に与え、敵を対岸に撃退させようとしたが、この将軍は私に知らせることなくピアチェンツァにとどまっていた。結果、全てが混乱し、主にこの原因によって交戦後の無秩序が生じた」
p90-91
マクドナルドがトレビアの戦い前に負傷していたのはほぼ間違いない。1799年6月25日付のモニトゥール紙"
https://books.google.co.jp/books?id=f6INAAAAIAAJ"に牧月25日(6月13日付)で彼がモデナからモロー宛に記した手紙の引用が掲載されているのだが、その中に「この手紙は参謀長が署名します。なぜなら私はベッドの上でこれを記しているからです。私は騎兵の白兵戦でいくつかの傷を受けたため、署名ができません。ただし怪我は軽く、軍についていくのを妨げることはないでしょう」(p718)とある。
他にも例えば1799年7月9日にオランダのライデンで発行されたNouvelles Politiquesという新聞"
https://books.google.co.jp/books?id=EIhDAAAAcAAJ"に掲載されている6月18日付のヴェローナからの手紙に、12日に行われたモデナの戦いで「マクドナルド将軍がサーベルの2撃で僅かに負傷し、もう1人の将軍が戦死した」という記述が存在する。13日時点で署名できないほどのダメージを受けていたのが事実なら、17日の時点でその怪我が彼の行動に影響を与えていたとしても不思議はない。
彼が怪我をした時の状況については、サラザン将軍が記している"
https://books.google.co.jp/books?id=72EVAAAAQAAJ"。退路を断たれた敵騎兵を見つけたマクドナルドが「安易の困難もなく彼らが降伏すると信じ込んで主要街道を前進」したのを見てサラザンが注意を呼び掛けたところ、マクドナルドは「彼らはネズミ捕りに捕まったようなものではないか?」と返答。だが降伏するふりをして接近してきた敵兵は、至近距離に来たところでサーベルを抜いて突撃し、マクドナルドの頭部に3回切り付け、彼を馬から落とした。10分ほどの戦闘で敵は鎮圧された。マクドナルドの切り傷は浅く、他に落馬時の打撲があったという(p157-158)。
1812年出版のStreffleurs militärische Zeitschrift"
https://archive.org/details/streffleursmili70stregoog"のSechstes Heftには連合軍側から見たこの出来事が脚注で紹介されている。ルフェーブル中尉が率いるビュシー猟騎兵の小部隊が包囲を突破しようとした時、たまたま側近とともに騎兵連隊の先頭に立っていたマクドナルドと遭遇。敵が少数だと気づいたマクドナルドが接近して降伏を呼び掛けたが、ルフェーブルは部下に「切り込め」と命じ、さらにマクドナルドに駆け寄って「お前が司令官だな! よし!」と叫び、頭部に1回、腕に1回切り付けたという(p83)。
問題はこの怪我が本当に彼をベッドに縛り付けるほどのものだったかだ。マクドナルドの手紙も、サラザンの回想も、この傷が軽いものであったと主張している。そしてマクドナルド自身、軍に追随するうえで支障はないと述べているし、少なくとも彼が負傷した後にモデナからピアチェンツァまで(google mapで距離にして113キロ)移動していることは間違いない。
「6月17日、マクドナルドはピアチェンツァからアレッサンドリアへの街道上にあり、トレビア右岸に位置するボルゴ=サン=アントニオに布陣した。彼はそこから、背後に残っていたオリヴィエ師団とモンリシャール師団に対し、翌日には我々の宿営地に戻るべく強行軍をせよとの命令を送った。一方、彼らを待っている間にマクドナルドはサルムの前衛部隊(第15軽、第11戦列および第11ユサール連隊)とヴィクトール師団、リュスカ師団及びドンブロフスキー師団にトレビア川を渡らせた。彼らはティドネ河畔に布陣し、右翼をポーに、左翼を山地に拠った」
p230
またティドネ川を越えて前進してしまったフランス軍が反撃を受けたとき、「全軍が集まるまで危険を冒したくなかったマクドナルドは、トレビア川の背後に下がるよう命じた」(p231)とも書かれている。マクドナルドの回想録では部隊の指揮を執るはずのヴィクトールが不在だったために混乱が生じたと指摘していたが、ラユールの言い分が正しいならティドネ川までは行かなかったものの指揮は常にマクドナルドが執っていたように読める。
一体どちらが正しいのか。長くなったので以下次回なのだが、残念ながら今回はすっきりとした結論が出ないことは予め述べておこう。
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