承前。ライプツィヒの戦いに関するベルナドットの軍報告続き。
「パウンスドルフ村を放棄した敵はすぐ歩兵といくつかの砲兵中隊をそこに投入した。到着したビューロー将軍の軍団はこの村を攻撃するよう命じられた。彼らは大いなる勇気でそこを奪った。いくつかのロシア及びプロイセンの砲兵隊がそれに貢献し、名誉に包まれた。オルーク将軍、マントイフェル将軍、パーレン将軍、ベンケンドルフ将軍及びショスタク将軍が率いるロシア騎兵は、死に対する最も大胆な軽視とともに100門の大砲による砲撃下に数時間とどまり、敵に恐るべき印象を与えた。3時に敵はゼラーハウゼン村とフォルクマースドルフ村から大軍を送り込み始めた。皇太子はロシア騎兵にそれを攻撃するよう命じた。敵の移動は止まり、4門の大砲を失って村へと再び戻った。少し後にマントイフェル将軍が砲弾に当たって戦死した。この尊敬すべき士官の死は広く惜しまれた。
我々の各縦隊がライプツィヒに向かって動き出した時、メルカウとエンゲルスドルフ間で我々の左側面後方から襲い掛かろうとする様子を見せている敵の強力な集団が見えた。シュテッテリッツ村の正面にいたブブナ将軍は、伯爵ナイペルク将軍に兵たちの正面変更を実行させ、自らの分遣隊の正面に敵を捉えた。既に1人のザクセン軍砲兵士官が10門の大砲とともに我々に加わっていた。この地点の兵は十分に数が多いように見えず、増援しなければならなかった。ヘッセン=ホンブルク公がそこへ行くよう命じられ、彼はその移動を閲兵場での機動と同じ正確さと規則性をもって実行した。ビューロー将軍は多数の兵で占拠され大砲を備えていたシュテュンツ村とゼラーハウゼン村を強襲行軍で奪った。抵抗は絶え間なく続き、プロイセン兵は敵が攻撃を再開したにもかかわらず夜の間そこを維持した。この攻撃はこの方面におけるこの日の結果を決めた。だが敵はライプツィヒに対する我々の行軍を止めるため、我々の左翼に対して前進してきた。ここでは砲兵が欠如していたため、皇太子は、隘路で止まっている軍の砲兵隊が到着するまでザクセン軍の砲兵隊を指揮する士官にその砲兵を我々のために使うよう要請する役目をロシアの男爵ヴィット将軍に任せた。このザクセン軍士官は皇太子の下で仕えたことがあり、そのようにすると豪語して、最近までドイツの隷属を強固にする運命を担っていた10門の大砲は、即座にその独立を確保するために使用された。この事例は征服者に対し、彼が呼び起こした恐怖はそれを生み出した力とともに消えることを教えるものだった。ビューロー将軍の軍団に所属しているロシア軍砲兵指揮官のディーデリッヒ大佐は、この戦闘において多大な貢献をした。英国ロケット中隊を指揮するボーグ大尉にもそれは当てはまった。このよき士官は戦死し、皆に惜しまれた。ロケットは最も決定的な効果を生み出した。
その間、敵は左翼においてライプツィヒからかなりの部隊を前進させ、伯爵ランジェロン将軍に対して行軍した。シェーンフェルト村を強襲する間、兵たちとともに多大な勇気を示したこの将軍は、砲兵を持たない伯爵サン=プリースト将軍を支援しなければならなかった。カーデル将軍が指揮するスウェーデンの大砲20門が駆けつけ、この地点を確保し敵は激しい砲撃によって大急ぎで退却することを強いられた。
その間に夜が訪れ、軍は野営した。
ズフテレン将軍、ステュワート将軍、ヴィンセント将軍、ポッツォ=ディ=ボルゴ将軍及びクルーゼマーク将軍は数時間にわたって最も激しい砲撃下にあった。最初の人物は乗馬を殺された。
敵が翌日午前5時にフォルクマースドルフからライプツィヒ郊外へ後退したため、皇太子はビューロー将軍に町を奪うよう命じた。後者はヘッセン=ホンブルク公に攻撃を委ねた。ボアシュテル将軍の師団が支援することになった。門は杭によってカバーされていたが、我らの兵はそこを突破して通りを抜けていった。その際にヘッセン=ホンブルク公は銃弾で負傷した。敵が全ての家々を占拠していたため、戦闘は極めて暴力的になり、勝敗はしばし定まらなかった。支援の砲兵1個中隊とともにやって来たスウェーデン軍6個大隊が、特に重要な貢献をなした。デーベルン少佐は戦死した。彼の死は軍にとって多大な損失だった。スウェーデン砲兵はエデンヒェルム少佐が指揮したが、彼は酷い怪我を負った。ボアシュテル将軍はヘッセン=ホンブルク公の代わりに指揮を執り、新たな兵とともに到着した。町は保持され、降伏しないものは全て殺された。
その間、町を攻撃しているプロイセン軍及びスウェーデン軍を支援するため、ヴォロンツォフの前衛部隊からロシア猟兵5個大隊が前進してきた。クラソフスキー大佐が率いる第14猟兵連隊はグリンマ門を奪い、いくつかの大砲を支配した。
男爵アドラークロイツ将軍はどこであれ危険が最も大きいところへ赴き、その勇気をもって兵たちを元気づけた。
敵はプライセ川の隘路を通って退却しなければならなかったため、大砲や兵たちは退路として残されたわずかな回廊へと互いに殺到し、それらはすぐ全面的な混乱によって塞がれた。誰もが自分の安全のみを考えていた。シュレジエン軍とベンニヒゼン将軍の前衛部隊もほぼ同時に別の門から入った。オーストリア皇帝とロシア皇帝、プロイセン王と皇太子は、この輝かしい勝利のため一緒にライプツィヒへ入城した。
ライプツィヒの戦いの結果は絶大かつ決定的だった。既に18日には皇帝ナポレオンはリュッツェンとヴァイセンフェルスへの街道で退却を始めていた。彼は10月19日午前10時まで町を離れなかった。リュッツェンへ至るランシュテット門で既に銃撃が始まっているのを見た彼は、自らペガウへ至る門(ペーター門)を通らなければならなかった。連合軍は軍団司令官であるレイニエ将軍ローリストン将軍を含む15人の将軍を捕虜にした。ポニャトフスキー公はエルスターを渡ろうとした際に溺死した。第11軍団参謀長のデュムティエ将軍の死体もその中で見つかった。2000人以上がこの川で溺死した。バッサノ公は徒歩で逃げ延びた。ネイ元帥は負傷したはずだ。250門以上の大砲、弾薬車及び他の車900両、及び1万5000人以上の捕虜といくつかの鷲章旗と軍旗が連合軍の手に落ちた。また敵は2万3000人以上の負傷者と病人、及び病院に属するあらゆる装備を残していた。
フランス軍の損害合計は6万人以上に達するはずだ。あらゆる計算によれば皇帝ナポレオンはたった7万5000人から8万人をこの全面的敗北から救い出せたに過ぎない。全軍は彼の追撃に移っており、次々と捕虜、荷物、及び大砲が運ばれてきている。ドイツ兵とポーランド兵は群れを成して軍旗から離れており、ドイツの自由がライプツィヒにおいて勝ち取られたことを全てが示している。
30回もの本格的会戦を指揮し、かつてのあらゆるフランスの将軍たちに匹敵する偉大な英雄的行為によって自らの道を切り開いてきた人物が、窮地に陥る可能性があるこれほど望ましくない布陣に実際に軍を配置したことは理解しがたい。背後にあるエルスター川とプライセ川は沼地であり、10万人の兵と3000の荷物車両が越えられる橋は1つしかなかった。これが全欧州を震え上がらせてきた偉大な軍指揮官なのか? 怪しまずにはいられない」
最後の部分はかつてナポレオンの下で戦ったこともあるベルナドットならではの言葉かもしれない。
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